汝、聖人の愛を知らず
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雨がガラスを叩く音がこだまする薄暗い礼拝堂で、綺礼は一人窓辺に佇んでいた。窓の向こうでは、庭に植えられた紫陽花が、鉛色の景色に色彩を添えている。突然頭部に鈍く走る痛みに、綺礼は眉を顰める。
──この季節は、いつもこうだ。
痛みのせいで頭が上手く回らない。そのせいか、遠く置き去りにしたはずの過去が手を伸ばして来る。感傷に浸るなどらしくないと、理性の隙間から染み出す暗い泥に抗う冷静な自分がいる一方で、それに身を委ねてしまいたい自分がいた。葛藤すればするほど、痛みが増す。暗い衝動に天秤が僅かに傾きかけた瞬間、ギイ、という重い音と共に礼拝堂の扉が開いた。
雨音が一瞬大きくなる。ついでただいま、と鈴の音のような女の声がした。それは綺礼の暗闇を切り裂き、頭の痛みを消し去った。
「帰ったか、依久乃」
依久乃と呼ばれた女は、大きなドアをその細腕で丁寧に閉めた。内と外が隔てられ、雨音が再び遠のく。依久乃は傘を片手に持ち、胸元に白い包みを抱えていた。雨のせいか、包み紙の端が少し濡れている。綺礼の視線がそれを捉えた事に気付いた依久乃は、歩み寄り、中身を見せた。
「これね。珍しかったから、買ってきちゃった」
それは数輪の、白い紫陽花だった。何物にも染まらない白さが、薄闇に柔らかく浮かぶ。依久乃は嬉々として続けた。
「あとから色付く品種もあるらしいんだけど、これは色素がないからずっと真っ白のままなんだって。素敵だよね」
色素を失い、永遠に色づくことがないまま枯れてしまう花。引いたはずの痛みが再来し、綺礼は眉間の皺を深める。
「ああ、そうか。綺礼はこういうのわからないんだよね。ごめん」
依久乃は、その些細な表情の変化に気付き謝罪を述べた。しかしその謝罪は綺礼にとっては見当違いだ。自分は今更そんな事では動じるような器ではない。理由は別にある──そう思ったが、それを口には出さない。ここで彼女に説明する必要も、意味もない。
綺礼の深淵の存在を知ってはいても、その奥底に沈めた傷の形を依久乃は知らない。彼女には、彼の真意を推し量る事は出来ないのだ。
雨宮依久乃は、ギルガメッシュの気まぐれで拾われた女だ。行くところがなく放浪、もとい路頭に迷っていたところを教会に連れて来られた。ギルガメッシュが自分の意向を無視して不可解な行動を取るのは今に始まった事ではなかったが、この時ばかりは疑問を禁じ得なかった。酔っ払って上機嫌なギルガメッシュと共にへらへらと笑う依久乃の第一印象は「能天気で、何の悩みもなさそうな平凡な女」であり、ギルガメッシュが興味を示すような人間には到底思えなかったからだ。
しかし、その認識はすぐに覆された。ギルガメッシュはあろう事か綺礼の性質を依久乃に暴露したのだ。しかも、連れてきた翌日に、本人に何の断りもなく。曰く、共に住まうなら知っておいて損はない、恐れるのであれば出ていくという選択肢もあるぞ、と。しかし依久乃は恐れもしなければ驚きもせず、あっけらかんとした表情で「ふうん。そういう事もあるんだね」と返した。それを見たギルガメッシュは腹の底から愉快そうに笑っていた。
綺礼はその返答に困惑した。感覚が理解できないまでも、それがどういう事を意味するのかわかっているのだろうか。怖れ知らずなのか、寛容なのか、それともただの馬鹿なのか。己の歪みを受け入れているので怒りはなかったが、こうも簡単に一言で片付けられると、これまでの煩悶は何だったのかと、どこか虚しくなるのも事実だった。
「お前はその意味を理解しているのか」と問うと、依久乃は頷き、綺礼の方をしっかり見据えてこう言った。
「絶望を望むのが貴方の愛のカタチだとしたら、それは好きな人にしか向けないんでしょう。じゃあ、私は初対面で、無関心な訳だし大丈夫じゃない?」
先程の説明で、何故その理解になるのか。突拍子のない回答に、訂正をする気すら失くし、思わず黙る。自身の性質に対しておおよそ予想されうるものとは異なる反応に戸惑いを覚えたが、ただの思いつきで言っている訳ではない事は、綺礼にも判った。何も見ていないようで、実のところ人の奥底だけを見つめるような深い瞳。この女は能天気ではあるが馬鹿ではない、綺礼はそう認識を改めた。ギルガメッシュが彼女を連れてきた理由が、多少だが理解出来た気がした。
綺礼が言葉を返さないのを肯定と受け取った依久乃は、曇りのない笑顔で「というわけで、行くところがないんでここに置いてもらえると助かります」と言った。
「面白い女であろう。貴様は何かと辛気臭い方に持っていきたがるからな。あれくらいの女がいればちょうどよい」
その日の晩、依久乃が寝たあと、ギルガメッシュは綺礼の私室で一番高いワインを開けながら嘯いた。綺礼は、執務机に向かったまま、特に返事はしなかった。
依久乃の行動は「人間らしく真っ当」であった。まず、養う代わりに家事手伝いをする、というごく普通の居候としての待遇に対して、求められた仕事をきっちりこなした。そして生活の細部の小さな余白を大切にした。そのおかげで、清貧をよしとするあまり衣食住に頓着がなく時に簡素すぎる食事を摂る綺礼と、生前の地位が故に家事など一切しないギルガメッシュらの乾いた生活に、潤いと人間らしさが加わった。
今日、胸に抱えてきた紫陽花もその「余白」のひとつだ。依久乃はいつも食卓に花を飾る。花壇から盛りの花を摘むこともあれば、今日のように珍しい花を見つけて買ってくることもある。その余白の良さは綺礼には理解出来るはずもなかったが、特に有害という訳ではないので、口を挟む事はなかった。しかし、今日だけは違った。
「……その花は、自室に飾りたまえ」
「え、いいの? いつも通り食卓に飾ろうかと」
「紫陽花は見飽きた。別の花にしてくれ」
「そっか。まあ、庭にもたくさんあるもんね。わかったよ」
依久乃は特に残念そうな素振りも見せず、教会の奥へと入っていった。一人になり、頭がまた痛み出した。雨音が心做しか強くなったように感じられたが、頭痛に響いているからかも知れない。視線を窓の外に戻すと、再び庭の紫陽花が目についた。依久乃が抱えていたものとは違い、こちらは土壌の成分により色づいている。先程とは打って変わって、何の感慨も湧かなかった。
綺礼に花の美しさはわからない。庭や花壇に植えられた植物の手入れに携わることはあるが、それはあくまで父の遺した教会を受け継いだ者の、当然の責務として管理しているだけ。花の種類に思い入れがある訳ではない。だからこの頭痛は、紫陽花を見て起こったわけではなく、ただの季節性のものだ。綺礼はそう結論づけた。
*
かつて、虚ろな胸の内を埋めるため、人並みの幸せを手に入れようと努力していた事がある。父の教える道徳、美徳、そういったモノを尊べる人間になりたかった。そうでなくてはならないと思っていた。しかし、それらはどのような戒律を以てしても、決して手に入らなかった。手にしたと思っても、その瞬間から、砂漠の乾いた砂のようにさらさらと指の隙間からこぼれ落ちていく。何故なら、そういうモノを感じる器を、はじめから持ち合わせていなかったからだ。
そのような己の在り方を受け容れはしたが、世界がそれを許さない事を忘れた訳ではない。これまでのように目を背け偽る事はしないが、公言もしない、真実を話さないことで立場を守っていた。
立場を守るのは、目的があるからだ。存在の是非を問う。答えが己の手で出せぬのなら、出せるものに求める。そのため、時が来るまでは、ただ淡々と粛々と日常をこなす。それが、ただ空虚なだけだと己にさえ嗤われようとも、これが自分の歩むべき信仰の道だ。そしてその時が来れば、目的を果たすためにすべきことを全うする。己の持ち得る全てを使って。自分がやるべき事はそれだけだ、と思っていた。新たな望みなど、持ちようはずもないと。しかし。
「大丈夫?」
深夜零時を過ぎた頃。礼拝堂の扉が開いて、依久乃が顔を出した。
「何がだ。お前こそ、こんな時間にどうした。眠れないのか」
「いや、私は別に。綺礼、最近なんだか顔色悪いから」
「心配には及ばん。この時期はいつもこのようなものだ」
「それ逆に心配だよ。何か、温かいものでも入れてくる」
そう言って依久乃は礼拝堂を出ていった。自身を思いやる気遣い。それが優しさだと言うことを理解したとしても、虚ろな心臓には冷たい風が吹き抜けるのみだ。そのはずなのに、愚かにもこの頭には、彼女の絶望に歪む顔が過ぎる。すると、後ろ暗い悦びが、静かに伽藍堂の胸を満たすのだった。
はじめは何の食指も動かない女だと思っていたはずが、何故こうなってしまったのか。
依久乃は綺礼に対し、ただ普通の人と同じように接した。彼の歪みとそれに伴う懊悩に対しては、同情も拒絶もせず、また深く理解したいと踏み入ることもしなかった。人それぞれ違うのは当たり前だと言わんばかりに、共同生活者として何を愉快に想い、何を不快に想うのかだけを知ろうとした。それは無関心と言うよりは、尊重と呼べるものだった。
そしてその尊重の目は、綺礼以外にも向けられた。信徒として訪れる人達に分け隔てなく接した。その振る舞いは、かつて父に倣い、道徳的で善良な信徒たらんと振舞っていた自分と重なった。しかし依久乃の行動は、厳しい規律をなぞるようでありながら、辛さや虚しさを微塵も感じさせない。むしろ彼女自身の「楽しみ」が、そこにあった。
自らと似ているようで、根底は決定的に違う依久乃のその在り方は、綺礼の奥底の水面を、僅かばかり、されども確実に揺らしていた。
*
季節は巡り、空から降るものが雨から雪に変わった頃、ある儀式が始まった。ギルガメッシュの長期不在、新たな居候、深夜の来訪者。魔術知識のない依久乃も、不穏な空気を感じ取っていた。
「依久乃。当面、夜歩きは控えろ。どうしても出歩きたいのならランサーを連れていけ」
新しい居候が増えて数日経った夜、私室に依久乃を呼び出した綺礼はそう言った。
依久乃は人間らしい生活を重んじる一方で、時折、唐突に姿を消した。決まって夜中にいなくなり、時には一週間帰って来ないこともあった。放浪中にギルガメッシュに拾われたことを思えば、もともと一つ所に居座るのが得意な性質でないのかもしれない。これまで綺礼がそれを咎めることはしなかったため、依久乃は意外な台詞に目を丸くした。しかし、綺礼は意に介さず、淡々と言葉を続けた。
「必ず守れ。お前を死なせたくはない」
依久乃は思わず「死ぬだなんて、戦争中じゃあるまいし」と冗談めかして言ったが、それでも動かない綺礼の表情から真剣なものを感じ取ったのか、それ以上茶化すことはせず、一言「わかった」と言って、部屋を出ていった。
深夜の礼拝堂で一人、先のやりとりを反芻する。我ながら、柄にもない言葉をかけたと思った。確かに今は聖杯戦争中で、平常時とは街の危険度が大きく異なるのは事実だが、あの女なら、出歩いた先で何かトラブルに見舞われても自分でなんとかするか、また運良く助かりそうですらある。それなのにわざわざ忠告をした。果たしてその言葉は、純粋な心配からか、あるいは。
──未だに、そんなものに夢を見ているのか。
綺礼の脳裏に、声がこだまする。
「そんなもの」とは。どのような試練を越えても、誰から何を奪っても、手に入らなかった形。真っ当な感性と善性。そして愛と繋がり。
自分を理解しようとも、癒そうともしない彼女なら、共に在る事ができるのではないのか。そんな淡い期待を抱かなかったと言えば、嘘になる。だがそれは、彼女が自分に対して無関心であり、そして自分が彼女に無関心であることが条件だ。
彼女が齎す日々は空虚ではあったが穏やかだった。それは確かに人並みの幸せであったのだろう。綺礼には、同じように感じることは決して叶わなかったが、独りで淡々と暮らすよりは幾分か愉快であったのは確かだ。
弱くなったものだと自嘲する。
もう二度と手に入らないと、この身に刻んだ。未練は心の奥底に仕舞い込み、目的が果たされるその日まで空虚な日々を過ごすだけだと、それでもよいと思っていた、はずなのに。もう捨てたはずの執着が、未練が、奥底からじわじわと染み出して、胸をざわつかせる。
そしてもう一つ、かつての未練とは決定的に違う感情が胸の裡に存在した。綺礼は依久乃の顔を見る度に、仄暗い欲求が去来するのだ。
彼女の身を案じている。それは事実だ。しかし、望んでいるのは彼女の平穏ではない。であれば、つまるところ、先の言葉の意図は。
(どうか、私以外に殺されてくれるな)
彼女の絶望した表情を思い浮かべれば、胸に染み入るように静かな充足感が広がる。その心地良さは、これまでの平穏な生活への未練など、簡単に捨て去ってしまえる程のもの。
しかしそこで疑問が浮上する。あれは、誰にでも分け隔てなく接する代わりに、特定の誰かに執着することもない。それどころか己にすら執着していないように見える。そんな女が、死の淵で足掻くのだろうか。もし足掻くとしたら、どんなふうに顔を歪めるのだろうか。それは実に、興味深い 問いだった。
虚ろな胸の奥から、どろりと黒い何かが染み出す。それは鎖となって、喉や四肢に絡みついていく。
しかし、それを断ち切るように、聖人は祈りの言葉を紡いだ。
「主よ、貴方の御名によって、かの者を守り給え」
依久乃の事を想うと同時に、脳裏を過ぎる存在がある。顔は思い出せないが、ちょうどあの日、依久乃が抱えてきた花に似ていた、白すぎるほど白い、色彩を持たない女。病に冒され、美しく、儚く、聖女と呼ぶにふさわしい者。それは男の懊悩を理解し、必死に癒そうとしたが、最期まで男を変える事は叶わなかった。
たとえ形が歪でも、これは愛には変わらないと、かつて悟った。であればこの希求は自分にとっての情愛だろう。それが異性としてか、共に暮らすものとしてなのかはわからない。綺礼の理性はその答えを出す事を拒む。しかし、拒めば拒むほどに、暗く甘い情動が、抗いがたい熱を伴って、腹の底から湧き上がるのだった。
──この季節は、いつもこうだ。
痛みのせいで頭が上手く回らない。そのせいか、遠く置き去りにしたはずの過去が手を伸ばして来る。感傷に浸るなどらしくないと、理性の隙間から染み出す暗い泥に抗う冷静な自分がいる一方で、それに身を委ねてしまいたい自分がいた。葛藤すればするほど、痛みが増す。暗い衝動に天秤が僅かに傾きかけた瞬間、ギイ、という重い音と共に礼拝堂の扉が開いた。
雨音が一瞬大きくなる。ついでただいま、と鈴の音のような女の声がした。それは綺礼の暗闇を切り裂き、頭の痛みを消し去った。
「帰ったか、依久乃」
依久乃と呼ばれた女は、大きなドアをその細腕で丁寧に閉めた。内と外が隔てられ、雨音が再び遠のく。依久乃は傘を片手に持ち、胸元に白い包みを抱えていた。雨のせいか、包み紙の端が少し濡れている。綺礼の視線がそれを捉えた事に気付いた依久乃は、歩み寄り、中身を見せた。
「これね。珍しかったから、買ってきちゃった」
それは数輪の、白い紫陽花だった。何物にも染まらない白さが、薄闇に柔らかく浮かぶ。依久乃は嬉々として続けた。
「あとから色付く品種もあるらしいんだけど、これは色素がないからずっと真っ白のままなんだって。素敵だよね」
色素を失い、永遠に色づくことがないまま枯れてしまう花。引いたはずの痛みが再来し、綺礼は眉間の皺を深める。
「ああ、そうか。綺礼はこういうのわからないんだよね。ごめん」
依久乃は、その些細な表情の変化に気付き謝罪を述べた。しかしその謝罪は綺礼にとっては見当違いだ。自分は今更そんな事では動じるような器ではない。理由は別にある──そう思ったが、それを口には出さない。ここで彼女に説明する必要も、意味もない。
綺礼の深淵の存在を知ってはいても、その奥底に沈めた傷の形を依久乃は知らない。彼女には、彼の真意を推し量る事は出来ないのだ。
雨宮依久乃は、ギルガメッシュの気まぐれで拾われた女だ。行くところがなく放浪、もとい路頭に迷っていたところを教会に連れて来られた。ギルガメッシュが自分の意向を無視して不可解な行動を取るのは今に始まった事ではなかったが、この時ばかりは疑問を禁じ得なかった。酔っ払って上機嫌なギルガメッシュと共にへらへらと笑う依久乃の第一印象は「能天気で、何の悩みもなさそうな平凡な女」であり、ギルガメッシュが興味を示すような人間には到底思えなかったからだ。
しかし、その認識はすぐに覆された。ギルガメッシュはあろう事か綺礼の性質を依久乃に暴露したのだ。しかも、連れてきた翌日に、本人に何の断りもなく。曰く、共に住まうなら知っておいて損はない、恐れるのであれば出ていくという選択肢もあるぞ、と。しかし依久乃は恐れもしなければ驚きもせず、あっけらかんとした表情で「ふうん。そういう事もあるんだね」と返した。それを見たギルガメッシュは腹の底から愉快そうに笑っていた。
綺礼はその返答に困惑した。感覚が理解できないまでも、それがどういう事を意味するのかわかっているのだろうか。怖れ知らずなのか、寛容なのか、それともただの馬鹿なのか。己の歪みを受け入れているので怒りはなかったが、こうも簡単に一言で片付けられると、これまでの煩悶は何だったのかと、どこか虚しくなるのも事実だった。
「お前はその意味を理解しているのか」と問うと、依久乃は頷き、綺礼の方をしっかり見据えてこう言った。
「絶望を望むのが貴方の愛のカタチだとしたら、それは好きな人にしか向けないんでしょう。じゃあ、私は初対面で、無関心な訳だし大丈夫じゃない?」
先程の説明で、何故その理解になるのか。突拍子のない回答に、訂正をする気すら失くし、思わず黙る。自身の性質に対しておおよそ予想されうるものとは異なる反応に戸惑いを覚えたが、ただの思いつきで言っている訳ではない事は、綺礼にも判った。何も見ていないようで、実のところ人の奥底だけを見つめるような深い瞳。この女は能天気ではあるが馬鹿ではない、綺礼はそう認識を改めた。ギルガメッシュが彼女を連れてきた理由が、多少だが理解出来た気がした。
綺礼が言葉を返さないのを肯定と受け取った依久乃は、曇りのない笑顔で「というわけで、行くところがないんでここに置いてもらえると助かります」と言った。
「面白い女であろう。貴様は何かと辛気臭い方に持っていきたがるからな。あれくらいの女がいればちょうどよい」
その日の晩、依久乃が寝たあと、ギルガメッシュは綺礼の私室で一番高いワインを開けながら嘯いた。綺礼は、執務机に向かったまま、特に返事はしなかった。
依久乃の行動は「人間らしく真っ当」であった。まず、養う代わりに家事手伝いをする、というごく普通の居候としての待遇に対して、求められた仕事をきっちりこなした。そして生活の細部の小さな余白を大切にした。そのおかげで、清貧をよしとするあまり衣食住に頓着がなく時に簡素すぎる食事を摂る綺礼と、生前の地位が故に家事など一切しないギルガメッシュらの乾いた生活に、潤いと人間らしさが加わった。
今日、胸に抱えてきた紫陽花もその「余白」のひとつだ。依久乃はいつも食卓に花を飾る。花壇から盛りの花を摘むこともあれば、今日のように珍しい花を見つけて買ってくることもある。その余白の良さは綺礼には理解出来るはずもなかったが、特に有害という訳ではないので、口を挟む事はなかった。しかし、今日だけは違った。
「……その花は、自室に飾りたまえ」
「え、いいの? いつも通り食卓に飾ろうかと」
「紫陽花は見飽きた。別の花にしてくれ」
「そっか。まあ、庭にもたくさんあるもんね。わかったよ」
依久乃は特に残念そうな素振りも見せず、教会の奥へと入っていった。一人になり、頭がまた痛み出した。雨音が心做しか強くなったように感じられたが、頭痛に響いているからかも知れない。視線を窓の外に戻すと、再び庭の紫陽花が目についた。依久乃が抱えていたものとは違い、こちらは土壌の成分により色づいている。先程とは打って変わって、何の感慨も湧かなかった。
綺礼に花の美しさはわからない。庭や花壇に植えられた植物の手入れに携わることはあるが、それはあくまで父の遺した教会を受け継いだ者の、当然の責務として管理しているだけ。花の種類に思い入れがある訳ではない。だからこの頭痛は、紫陽花を見て起こったわけではなく、ただの季節性のものだ。綺礼はそう結論づけた。
*
かつて、虚ろな胸の内を埋めるため、人並みの幸せを手に入れようと努力していた事がある。父の教える道徳、美徳、そういったモノを尊べる人間になりたかった。そうでなくてはならないと思っていた。しかし、それらはどのような戒律を以てしても、決して手に入らなかった。手にしたと思っても、その瞬間から、砂漠の乾いた砂のようにさらさらと指の隙間からこぼれ落ちていく。何故なら、そういうモノを感じる器を、はじめから持ち合わせていなかったからだ。
そのような己の在り方を受け容れはしたが、世界がそれを許さない事を忘れた訳ではない。これまでのように目を背け偽る事はしないが、公言もしない、真実を話さないことで立場を守っていた。
立場を守るのは、目的があるからだ。存在の是非を問う。答えが己の手で出せぬのなら、出せるものに求める。そのため、時が来るまでは、ただ淡々と粛々と日常をこなす。それが、ただ空虚なだけだと己にさえ嗤われようとも、これが自分の歩むべき信仰の道だ。そしてその時が来れば、目的を果たすためにすべきことを全うする。己の持ち得る全てを使って。自分がやるべき事はそれだけだ、と思っていた。新たな望みなど、持ちようはずもないと。しかし。
「大丈夫?」
深夜零時を過ぎた頃。礼拝堂の扉が開いて、依久乃が顔を出した。
「何がだ。お前こそ、こんな時間にどうした。眠れないのか」
「いや、私は別に。綺礼、最近なんだか顔色悪いから」
「心配には及ばん。この時期はいつもこのようなものだ」
「それ逆に心配だよ。何か、温かいものでも入れてくる」
そう言って依久乃は礼拝堂を出ていった。自身を思いやる気遣い。それが優しさだと言うことを理解したとしても、虚ろな心臓には冷たい風が吹き抜けるのみだ。そのはずなのに、愚かにもこの頭には、彼女の絶望に歪む顔が過ぎる。すると、後ろ暗い悦びが、静かに伽藍堂の胸を満たすのだった。
はじめは何の食指も動かない女だと思っていたはずが、何故こうなってしまったのか。
依久乃は綺礼に対し、ただ普通の人と同じように接した。彼の歪みとそれに伴う懊悩に対しては、同情も拒絶もせず、また深く理解したいと踏み入ることもしなかった。人それぞれ違うのは当たり前だと言わんばかりに、共同生活者として何を愉快に想い、何を不快に想うのかだけを知ろうとした。それは無関心と言うよりは、尊重と呼べるものだった。
そしてその尊重の目は、綺礼以外にも向けられた。信徒として訪れる人達に分け隔てなく接した。その振る舞いは、かつて父に倣い、道徳的で善良な信徒たらんと振舞っていた自分と重なった。しかし依久乃の行動は、厳しい規律をなぞるようでありながら、辛さや虚しさを微塵も感じさせない。むしろ彼女自身の「楽しみ」が、そこにあった。
自らと似ているようで、根底は決定的に違う依久乃のその在り方は、綺礼の奥底の水面を、僅かばかり、されども確実に揺らしていた。
*
季節は巡り、空から降るものが雨から雪に変わった頃、ある儀式が始まった。ギルガメッシュの長期不在、新たな居候、深夜の来訪者。魔術知識のない依久乃も、不穏な空気を感じ取っていた。
「依久乃。当面、夜歩きは控えろ。どうしても出歩きたいのならランサーを連れていけ」
新しい居候が増えて数日経った夜、私室に依久乃を呼び出した綺礼はそう言った。
依久乃は人間らしい生活を重んじる一方で、時折、唐突に姿を消した。決まって夜中にいなくなり、時には一週間帰って来ないこともあった。放浪中にギルガメッシュに拾われたことを思えば、もともと一つ所に居座るのが得意な性質でないのかもしれない。これまで綺礼がそれを咎めることはしなかったため、依久乃は意外な台詞に目を丸くした。しかし、綺礼は意に介さず、淡々と言葉を続けた。
「必ず守れ。お前を死なせたくはない」
依久乃は思わず「死ぬだなんて、戦争中じゃあるまいし」と冗談めかして言ったが、それでも動かない綺礼の表情から真剣なものを感じ取ったのか、それ以上茶化すことはせず、一言「わかった」と言って、部屋を出ていった。
深夜の礼拝堂で一人、先のやりとりを反芻する。我ながら、柄にもない言葉をかけたと思った。確かに今は聖杯戦争中で、平常時とは街の危険度が大きく異なるのは事実だが、あの女なら、出歩いた先で何かトラブルに見舞われても自分でなんとかするか、また運良く助かりそうですらある。それなのにわざわざ忠告をした。果たしてその言葉は、純粋な心配からか、あるいは。
──未だに、そんなものに夢を見ているのか。
綺礼の脳裏に、声がこだまする。
「そんなもの」とは。どのような試練を越えても、誰から何を奪っても、手に入らなかった形。真っ当な感性と善性。そして愛と繋がり。
自分を理解しようとも、癒そうともしない彼女なら、共に在る事ができるのではないのか。そんな淡い期待を抱かなかったと言えば、嘘になる。だがそれは、彼女が自分に対して無関心であり、そして自分が彼女に無関心であることが条件だ。
彼女が齎す日々は空虚ではあったが穏やかだった。それは確かに人並みの幸せであったのだろう。綺礼には、同じように感じることは決して叶わなかったが、独りで淡々と暮らすよりは幾分か愉快であったのは確かだ。
弱くなったものだと自嘲する。
もう二度と手に入らないと、この身に刻んだ。未練は心の奥底に仕舞い込み、目的が果たされるその日まで空虚な日々を過ごすだけだと、それでもよいと思っていた、はずなのに。もう捨てたはずの執着が、未練が、奥底からじわじわと染み出して、胸をざわつかせる。
そしてもう一つ、かつての未練とは決定的に違う感情が胸の裡に存在した。綺礼は依久乃の顔を見る度に、仄暗い欲求が去来するのだ。
彼女の身を案じている。それは事実だ。しかし、望んでいるのは彼女の平穏ではない。であれば、つまるところ、先の言葉の意図は。
(どうか、私以外に殺されてくれるな)
彼女の絶望した表情を思い浮かべれば、胸に染み入るように静かな充足感が広がる。その心地良さは、これまでの平穏な生活への未練など、簡単に捨て去ってしまえる程のもの。
しかしそこで疑問が浮上する。あれは、誰にでも分け隔てなく接する代わりに、特定の誰かに執着することもない。それどころか己にすら執着していないように見える。そんな女が、死の淵で足掻くのだろうか。もし足掻くとしたら、どんなふうに顔を歪めるのだろうか。それは実に、
虚ろな胸の奥から、どろりと黒い何かが染み出す。それは鎖となって、喉や四肢に絡みついていく。
しかし、それを断ち切るように、聖人は祈りの言葉を紡いだ。
「主よ、貴方の御名によって、かの者を守り給え」
依久乃の事を想うと同時に、脳裏を過ぎる存在がある。顔は思い出せないが、ちょうどあの日、依久乃が抱えてきた花に似ていた、白すぎるほど白い、色彩を持たない女。病に冒され、美しく、儚く、聖女と呼ぶにふさわしい者。それは男の懊悩を理解し、必死に癒そうとしたが、最期まで男を変える事は叶わなかった。
たとえ形が歪でも、これは愛には変わらないと、かつて悟った。であればこの希求は自分にとっての情愛だろう。それが異性としてか、共に暮らすものとしてなのかはわからない。綺礼の理性はその答えを出す事を拒む。しかし、拒めば拒むほどに、暗く甘い情動が、抗いがたい熱を伴って、腹の底から湧き上がるのだった。
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