言峰神父の激辛麻婆豆腐講座 入門編
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その時、私は地獄と対峙していた。
「さあ、食べるがいい」
目の前には、激辛麻婆豆腐。皿にたっぷりと盛られた真っ赤なそれは禍々しく、地獄の釜と呼ぶに相応しい。辛いものが大の苦手で、普段ならこの店に近寄りもしない私が、どうして今、ここにいるのか……。
──それは遡ること一時間前の出来事。
冬木教会の一室にて、暇を持て余したギルガメッシュと私が、バイトに行く前のランサーを捕まえて、三人で「大富豪」をしていた。
「よーし、上がりィ! いやー、首の皮一枚繋がったぜ」
「フハハハハ。無様よなあ、雑種!! いや、あえてこう呼ぼう。大貧民よ!!!!」
最後まで残った手札を場に叩きつけ、床に突っ伏した私を見てげらげらと笑う男二人に、神代の英雄らしい面影は一切ない。
「うう、悔しいー!! 私の幸運値はE以下だっていうの!?」
「なんとでも言え。喚いたところで勝敗は変わらんからなァ」
「何その顔、ニヤニヤして!」
「おい雑種。そのような駄犬にかまうよりも、この王の勝利を讃えよ!!」
「黄金律Aとかいうチーター王は黙ってて。ああーもう、僅差なのが余計に悔しい。ランサーには絶対勝てると思ってたのに!!」
このメンツで勝負した場合、最古の王様は黄金律で常に一位になる。勝負事が大好きな大英雄殿は、幸運Eながらも最初は食らいついていたが、案の定連戦連敗、私との最下位争いに終始した。そしてしびれを切らし、今度は私との勝負に張り合いを持たせるため、罰ゲームを提案してきたのだ。連勝中で負ける気がしなかった私は軽い気持ちで承諾した。その罰ゲームの内容は、絶対受けたくないものだったにもかかわらず。
「ま、残念だったな、依久乃。さあ、約束通りあの激辛麻婆豆腐を食べてこいよ」
「くっそ……!! でも私の方が勝った回数多いよね?」
「この回を始める前に、現時点から有効って言っただろ」
「うう、じゃあ、もう一回! いやあと二回やろう!! それで三回勝負!!」
麻婆豆腐を絶対に食べたくない、その一心だけで喰いさがる。私が場に散らかるカードを集めて再び切り始めたその時、おもむろに部屋のドアが開いた。
「何をしている、お前たち。こちらまで丸聞こえだぞ。少しは慎め」
教会の主の登場に全員が一瞬静まり返る。この教会は壁が薄い。昼前からバカ騒ぎをする私たちの声は礼拝堂に筒抜けだったのだろう。綺礼の眉間には少し皺が寄っている。三バカを満遍なく睨みつける視線は刺すように鋭い。私が必死に弁明を考えあたふたとする中、ギルガメッシュは踏ん反り返り、ランサーはここぞとばかりにニヤリと笑い口を開いた。
「おっ、コトミネ。ちょうどいいとこに。依久乃にあの麻婆食わせてやってくれ」
麻婆という単語に反応したのか、綺礼はピクリと眉を動かす。
「ちょ、ばっ、ランサー! 余計なことを……!!」
立ち上がるランサーを制止しようと手を伸ばすも、ひょいとかわされてしまった。
「じゃ、オレそろそろバイトだから行くわ! お前がアレ食うとこ見れねえのは心底残念だがな。ま、がんばれよ」
ひらひらと手を振って、冬木の勤労戦士はそのまま外に出て行ってしまった。すかさずギルガメッシュも立ち上がり部屋を出て行こうとする。
「おっと、我も日課のセイバーウォッチングの時間だな」
「あっギルも逃げる気!?」
「たわけ!! 我は勝者だぞ。逃げるも何もあるものか。だいたい、我が暇を持て余した貴様のために大富豪などと言う凡俗の遊びに付き合ってやったのだからな。むしろそこは咽び泣いて喜ぶ所であろうよ」
「いや、最初に大富豪やりたいっつったのギルだよね!?」
「さてなあ、どうだったか」
私の抗議も虚しく、王様も出て行ってしまった。
「この薄情者ども……!! あーもうやだよ〜やだあ〜辛いの苦手なのに……」
悔しさと怒りからトランプを床に叩きつけ、自身も床に突っ伏して呻いた。
「どういうことかね、これは」
ふいに頭上から響いた声に、ばっと顔を上げると、ちょうど声の主と目が合った。二人きりになったのがなんとなく気まずくて、訝しげな綺礼の顔とトランプが散らかった床を交互に見やりながら必死に言い訳を探す。
「はっ、こ、これは、その……」
「ランサーが妙な事を口にしていたが」
「あー、いやあ……ランサーとギルガメッシュと、大富豪で、罰ゲームに泰山の麻婆豆腐を賭けてて……」
「で、お前が最下位だったと」
「……仰る通りです」
事情を正直に話すと、眉間の皺がやや深まった。この変化はすごく微々たる差なのだけど、私にはわかる。伊達に十年以上一緒に暮らしてない。
「人の好物を持ち出して罰ゲームとは、失礼な奴らだな」
「わ、私じゃないよ! 言い出しっぺはランサーだからね」
「……アレにはあとできつい仕置をしておこう」
綺礼の眉間の皺が緩んで、口元がやや歪んだ。ランサーへのお仕置き内容でも考えているのか、実に愉しそうだった。あ、ランサー死んだなコレ。知らない。私を笑ったことをせいぜい後悔しろ。
綺礼の機嫌が直ったところで緊張が解けたのか、お腹の虫が鳴いた。時計を見ると、2本の針はほとんどてっぺんを向いていた。トランプを片付けながら、お昼のメニューを考え始める。頭の中に、冷蔵庫の中身とレシピがいくつか浮かんだところで、綺礼がおかしなことを言い出した。
「では行くか」
「え、どこへ?」
「決まっているだろう、泰山だ」
「今から?」
「そうだ。ちょうど、今日の昼食はあそこでと思っていたところだ」
なんという(最悪な)ナイスタイミング。いや、違うぞ。これ絶対今決めた顔だ。
「そうなんだ、じゃあどうぞ行ってらっしゃい」
「何を言う、お前も行くのだぞ」
「綺礼は私が辛いの大の苦手って知ってるでしょ!?」
「罰ゲームなのだろう? では甘んじて受けねばなるまい」
「いやいや、綺礼には関係ないよね?」
「関係ならあるぞ。先程、大事な従者に頼まれたからな」
「おのれランサー……!!」
目の前の男からどこかノリノリな雰囲気が伝わってくる気がする。ああこれ、顔に出てないけど、めちゃくちゃ楽しんでるな。というか、罰ゲームにされるの嫌だったんじゃないのか。
この場をどうにか逃れたくて全力で策を考えるが、気持ちが焦るばかりで一向に浮かばない。さっきまで考えていた昼食のメニューもいつの間にか真っ赤な麻婆色に染まっている。
「フッ。最近は、外で共に食事をする事は滅多になくなっていたからな。私も寂しいと思っていたところだ。どうだ、たまには」
予想外の言葉だった。けれどすぐに方便だと気付く。言峰綺礼という男が私に優しい言葉をかけたことなど、これまで一度もない。心にもない事を言いやがって、と内心で憤る。しかし同時に、心のどこかでその誘いが「嬉しい」と思ってしまう私がいた。
「私から誘うなど、そうある機会ではないぞ。気が変わらないうちに、早く答えを言え、依久乃」
「…………ぐっ…………。ああ、わかったよ! 行けばいいんでしょ、行けば!!」
怒りと喜びという相反する感情で目が回りそうになりながら、私は半ばヤケクソ気味に返事をした。
*
私たちが出かけると教会には誰もいなくなるので、門のところに戻る時間を書いた貼り紙して教会を出た。平日の昼間の教会など、おそらく誰も来ないだろうけど、念のため。
教会から新都駅まで歩き、深山町方面行きのバスに乗る。はじめは久しぶりの二人きりでの外出になんとなく浮き足立っていたが、バスが冬木大橋を渡る頃、窓の外に見える橋の色から激辛麻婆豆腐を思い出し、罰ゲームへの恐怖が再び湧いてきてしまった。
「ねえ、参考までに聞きたいんだけど、できるだけ辛さを感じないで食べられる方法、とかないかなぁ」
「ないな」
「やっぱりそうかぁ……。はあ、やだなあ……」
盛大に肩を落とし、今すぐバスを降りたい衝動に駆られていると、助け舟が出された。
「だが美味く食べる方法ならある」
「あるの? っていうか今無理って……」
「辛さを感じず美味く食べる方法はない、と言ったまでだ」
「出た、回りくどい言い回し……。でも綺礼のことだから、あえてそう言ってわざと私に辛い思いをさせるんじゃ……」
「それはそれで愉快ではあるが、私の数少ない好物だからな。わざわざ不味く思われるように仕向けてなんになる」
「な、なるほど……。よっぽど好きなんだね……麻婆豆腐」
綺礼が、麻婆豆腐をたまにふらっと食べに出かけているのは知っていた。常日頃から激辛料理を食べるほど好きというわけではないが、どうも、無性に食べたくなるらしい。そういうものなのだろうか。私は辛いの苦手だから、理解できないけれど。っていうかやっぱり、好物少ないんだね、綺礼。
そうこうしているうちにバスは深山町についた。
件の店「紅洲宴歳館 泰山」は、バス停からしばらく歩いたところにある商店街の中にある。こじんまりとしていて、町の中華料理屋といった店構えだ。私たちを出迎えたのは、どう見ても子供だろうとつっこみたくなるチャイナ服の女店主。綺礼とは顔見知りらしく、珍しく連れがいることに驚いていた。
店主に注文を伝え席に着くと、綺礼がテーブルに肘をつき、さて、と切り出した。
「多くの人間が勘違いしているが、真に美味い激辛料理とは、ただ辛いだけの料理ではない。辛さの先に、必ず旨味がある。辛さとは即ち痛みだ。そして痛みにはいずれ慣れるもの。麻婆豆腐の旨さとは、辛さに慣れた先にある。だから、食べずしては始まらんのだ」
表情はあまり変わらないのだが、なんとなく、声音にいつもより少しだけ張り切っているような色がある。どうやら彼のやる気スイッチを押してしまったらしい。
綺礼の言うことには妙に説得力があった。というかこの巨躯に、地の底から響くような声と落ち着いた話し方で言われれば、根拠などなくても納得してしまいそうになる。だが、納得しようが苦手なものは苦手だ。それに尤もらしい言い分に聞こえるが、辛いものが苦手な人間にとっていちばん重要な問題が見逃されている。
「まず最初の一口を食べることに抵抗がある場合は?」
「気合いで耐えろ」
ここに来てまさかの根性論。そういえば綺礼ってば、我慢とか苦行とか鍛錬とか大好き……じゃなくてそういうものに進んで身を投じる、わかりにくいドMみたいな男だったなあ。私はアンタほど耐久性高くないぞ。
……などと悶々としていたら、奥から先ほどの子供店主がやってきて、胡散臭いカタコトの日本語と共に、私の前に麻婆豆腐が置かれた。
油の光沢、程よい大きさのひき肉、均一に切られた豆腐……丁寧に作られているのがわかる。確かに美味しそうだ。しかし赤い。やっぱり赤い。どう見ても赤い。頑張って見出した美味しそうな要素を全て塗りつぶすような赤。その上、立ち上る湯気が目にしみる気さえする。さながら地獄の釜だ。
「さあ、食べるがいい」
やっぱり無理だ。気合とかあっても無理。せめて胃薬でも持って来ればよかった。あるいは、ランサーに死にかけた時の極意でも教わっておけばよかったかな……。
「……何をしている。早く食べねば冷めてしまうぞ」
「うう……辛そう」
「実際、辛いぞ。フッ、最初の一口に抵抗があるのなら、私が食べさせてやろうか」
「それは結構です!!」
「恥ずかしいのか? 遠慮するな」
「違うよ!? あーもう、わかった食べるいただきます!!」
売り言葉に買い言葉、煽られるがままに最初の一口をレンゲですくい、ええいままよ、と口の中に放り込んだ。
口当たりは肉の旨味と豆腐の食感が来て、一瞬イケるかも、と思った。しかし次の瞬間、凄まじい辛さが容赦なく口の中に広がる。辛い。すごく辛い。っていうかもはや痛い。辛さとは痛み。綺礼の言うことは間違ってなかった。これを罰ゲームにしたランサーを恨むし、軽率に乗ったあのときの自分も恨む……!!
「っあー!辛ぁ……口の中がビリビリする」
「耐えろ。じきに慣れる。水は飲むなよ」
「水飲んじゃダメなの……!?」
「水を飲めば、辛味が苦味に変わる。余計に食べられなくなるぞ」
「ひええ、それはやだあ……でも、うう、辛いよお……」
「耐えろ。そして食え。その先にこそ旨みがある」
綺礼の口元が僅かに歪んでいる。あ、これアレだ。嬉しい時の顔だ。私が悶える様がそんなに面白いか。そうか。それはそれとして、見られているとなんだか恥ずかしいので、そんなにまじまじと見ないでもらえませんか?
それにしても辛い。私の味蕾が悲鳴を上げている。これが麻痺すれば美味しく感じるようになる、と言うけど、それってなにか、一種の自傷行為めいたものを感じる。もしかして、これも綺礼の苦行好きの一環だったりするのか。
辛さに耐えて麻婆豆腐を頬張りながら、私はふと綺礼の分が運ばれてきていないことに気づく。しかし綺礼はそれを気にするそぶりも見せない。
「あれ、綺礼の分は?」
「私の分はじきに来る。お前が辛さに悶える表情を堪能してからいただくつもりだ」
「悪趣味……」
思わず悪態を吐く。しかし、普段鉄面皮なこの男の嬉しそうな顔を見ると、不思議と苦しい気持ちが失せた。多分今、彼は彼の喜びを味わっている。その顔を見せるということはつまり、私には気を遣わない、そういうことなんだろうか。
彼の歪みについては、知っている。初めてギルガメッシュから聞かされた時は驚いたけど、不思議と嫌いにはならなかった。なんとなく納得感があったし、元々何事にも愉しみを見出せず苦しんでいた人だったから、それくらいは許されるだろうとも思った。まあ、死を望まれるのは流石に少し困るけど。
こんな風に思う私も、どうかしてるんだろうか。でも、血は繋がってないけど、家族だから。家族の喜ぶ顔は、嬉しいものでしょ。
それに一応、歪なだけで彼なりの愛はあるのだ。共に暮らしているとそう感じる。彼は自分を時に非人間だと言うけれど、そういう所も含めて人間らしいと思う。結局のところ、お人好しなのだ。そう言っても喜ばないだろうからあえて本人には伝えないけど。
そんなことを考えているうちに、辛さに慣れてきたのか、肉や油の旨味だけが感じられるようになってきた。
「うん、だんだん美味しくなってきたかも……!」
「…………」
「あ、今あからさまにつまらないって顔した」
「……そのようなことはない。さて、私もいただくとしよう」
はかったかのようなタイミングで、綺礼のぶんの麻婆豆腐が運ばれてきた。綺礼は手慣れた様子でレンゲを手に取り、勢いよくたいらげていく。普段は寡黙な綺礼が、ハフハフと音を食べながら貪るように食べる様は、教会の食卓では絶対に見られない光景だった。
そうしてあっという間に二人とも麻婆豆腐を完食。私は無事罰ゲームを完遂することができた。舌はヒリヒリするし、少し汗もかいてしまったけど、どこか清々しい気分だった。罰ゲームではあったけど、結果として綺礼の喜ぶ顔も見られたし、なんだかんだ美味しかったのでよしとしよう。これで奴らには何も言わせまい。
商店街からバス停へ向かう途中、綺礼の口角が微かに上がっているように見えた。
「ねえ綺礼、美味しかった?」
「ああ、ここの味は変わらないな」
「じゃなくて、私と食べたら、より美味しく感じたとか」
私の質問に、綺礼の頬が一瞬ピクリと動く。けれどすぐ無表情に戻ってしまった。
「………ないな」
「ふーん、そっか。……まあ、もし一人が寂しかったら、また付き合ってあげてもいいよ」
予想していた返答が得られなかったのが悔しくて、らしくなく駆け引きなど挑んでみる。
「食べたくなったら、次からは一人で勝手に行くがいい。お前が寂しさに耐えられればの話だがな」
駆け引きは呆気なく終わった。何十年と貼り付けた鉄面皮はそう簡単に剥がれるものではないらしい。やはり、慣れないことはするものじゃないな。そもそもこの男に、心理戦を挑んだ私が馬鹿だった。
ああ、そうだ。綺礼の言う通り、私は寂しがりだし、理由はどうあれ久しぶりに出かけられたのを柄にもなく喜んでしまった。綺礼はいつも、何故か人の核心をついてくるから困る。
「はあ、意地を張った私が悪かったです。久しぶりにご飯一緒に食べられて嬉しかった。だから、またこんな風に誘ってよ」
「フッ……無理をするな。素直なのがお前の美徳だ」
そう言って綺礼は私の頭を撫でた。綺礼には、"素直"の美しさなんて、"解る"のだろうか。胸の中に、撫でられた嬉しさと共にかすかな痛みが去来する。しかし、すぐに振り払った。
「いいだろう。では次は店主にもう一段辛くしてもらうよう頼んでおこう。そうすればまた、お前の反応が愉しめるからな」
「え……!? もしかして、綺礼のが時間差で出てきたのって、わざわざ別で作ってもらってたからなの!?」
「ああ、そうだとも。むしろ辛さが苦手なお前への配慮のつもりだったのだが」
「でも、次行ったらもっと辛いの食べさせられるんでしょ?」
「もちろんだ」
「やっぱ前言撤回!! 絶対綺礼とは一緒に行かない!!!」
綺礼の表情が少しだけ緩んだ気がした。心做しか眩しそうにも見える。怒ったような声音の裏で、私の心が図らずも躍る。
隣を歩きながら、幼い頃のように綺礼の手を握った。本当になんとなく、深い理由はない。ただ、懐かしくなっただけ。
「なにをしている、依久乃」
「なんとなくさ、並んで歩くと昔を思い出しちゃって。璃正さんとこうして3人で歩いてたなーって」
「……そうだな」
振りほどかれるかと思いきや、綺礼は意外にも握り返してきた。私は驚いて見上げるが、身長差のせいか表情はよく見えない。綺礼の節くれだった手は他の人と変わらず温かく、先ほど振り払った胸の痛みが、また蘇る。
「……そうだ。夕飯の買い物して帰ろう。晩御飯、何がいい?」
「お前の好物を作るといい。昼は付き合わせたからな」
「んーじゃあ、そうだなぁ。からあげにする! 今日は特売だから、もも肉買っていい?」
「ああ、いいだろう」
辛いもので身体が温まったせいか、足取りが軽い。平日に揚げ物は手間がかかるからあまりしないのだけど、今日は少し機嫌がいいから多分大丈夫だ。
帰ったらちゃんとランサーに、罰ゲームを果たした報告しないとな。ギルガメッシュは言い出しっぺのくせに私を裏切ったので、晩ごはんのからあげを一つ少なくしてやるんだ。
*
ちなみに後日、ランサーと、ついでにギルガメッシュは、辛さを最大まで上げた泰山の麻婆を令呪つきで食わされた。
私もその様子を観察させてもらったので溜飲は下がったけど、綺礼の表情が私の時より愉しそうだったのがちょっと悔しいのは、何でだろうな。
「さあ、食べるがいい」
目の前には、激辛麻婆豆腐。皿にたっぷりと盛られた真っ赤なそれは禍々しく、地獄の釜と呼ぶに相応しい。辛いものが大の苦手で、普段ならこの店に近寄りもしない私が、どうして今、ここにいるのか……。
──それは遡ること一時間前の出来事。
冬木教会の一室にて、暇を持て余したギルガメッシュと私が、バイトに行く前のランサーを捕まえて、三人で「大富豪」をしていた。
「よーし、上がりィ! いやー、首の皮一枚繋がったぜ」
「フハハハハ。無様よなあ、雑種!! いや、あえてこう呼ぼう。大貧民よ!!!!」
最後まで残った手札を場に叩きつけ、床に突っ伏した私を見てげらげらと笑う男二人に、神代の英雄らしい面影は一切ない。
「うう、悔しいー!! 私の幸運値はE以下だっていうの!?」
「なんとでも言え。喚いたところで勝敗は変わらんからなァ」
「何その顔、ニヤニヤして!」
「おい雑種。そのような駄犬にかまうよりも、この王の勝利を讃えよ!!」
「黄金律Aとかいうチーター王は黙ってて。ああーもう、僅差なのが余計に悔しい。ランサーには絶対勝てると思ってたのに!!」
このメンツで勝負した場合、最古の王様は黄金律で常に一位になる。勝負事が大好きな大英雄殿は、幸運Eながらも最初は食らいついていたが、案の定連戦連敗、私との最下位争いに終始した。そしてしびれを切らし、今度は私との勝負に張り合いを持たせるため、罰ゲームを提案してきたのだ。連勝中で負ける気がしなかった私は軽い気持ちで承諾した。その罰ゲームの内容は、絶対受けたくないものだったにもかかわらず。
「ま、残念だったな、依久乃。さあ、約束通りあの激辛麻婆豆腐を食べてこいよ」
「くっそ……!! でも私の方が勝った回数多いよね?」
「この回を始める前に、現時点から有効って言っただろ」
「うう、じゃあ、もう一回! いやあと二回やろう!! それで三回勝負!!」
麻婆豆腐を絶対に食べたくない、その一心だけで喰いさがる。私が場に散らかるカードを集めて再び切り始めたその時、おもむろに部屋のドアが開いた。
「何をしている、お前たち。こちらまで丸聞こえだぞ。少しは慎め」
教会の主の登場に全員が一瞬静まり返る。この教会は壁が薄い。昼前からバカ騒ぎをする私たちの声は礼拝堂に筒抜けだったのだろう。綺礼の眉間には少し皺が寄っている。三バカを満遍なく睨みつける視線は刺すように鋭い。私が必死に弁明を考えあたふたとする中、ギルガメッシュは踏ん反り返り、ランサーはここぞとばかりにニヤリと笑い口を開いた。
「おっ、コトミネ。ちょうどいいとこに。依久乃にあの麻婆食わせてやってくれ」
麻婆という単語に反応したのか、綺礼はピクリと眉を動かす。
「ちょ、ばっ、ランサー! 余計なことを……!!」
立ち上がるランサーを制止しようと手を伸ばすも、ひょいとかわされてしまった。
「じゃ、オレそろそろバイトだから行くわ! お前がアレ食うとこ見れねえのは心底残念だがな。ま、がんばれよ」
ひらひらと手を振って、冬木の勤労戦士はそのまま外に出て行ってしまった。すかさずギルガメッシュも立ち上がり部屋を出て行こうとする。
「おっと、我も日課のセイバーウォッチングの時間だな」
「あっギルも逃げる気!?」
「たわけ!! 我は勝者だぞ。逃げるも何もあるものか。だいたい、我が暇を持て余した貴様のために大富豪などと言う凡俗の遊びに付き合ってやったのだからな。むしろそこは咽び泣いて喜ぶ所であろうよ」
「いや、最初に大富豪やりたいっつったのギルだよね!?」
「さてなあ、どうだったか」
私の抗議も虚しく、王様も出て行ってしまった。
「この薄情者ども……!! あーもうやだよ〜やだあ〜辛いの苦手なのに……」
悔しさと怒りからトランプを床に叩きつけ、自身も床に突っ伏して呻いた。
「どういうことかね、これは」
ふいに頭上から響いた声に、ばっと顔を上げると、ちょうど声の主と目が合った。二人きりになったのがなんとなく気まずくて、訝しげな綺礼の顔とトランプが散らかった床を交互に見やりながら必死に言い訳を探す。
「はっ、こ、これは、その……」
「ランサーが妙な事を口にしていたが」
「あー、いやあ……ランサーとギルガメッシュと、大富豪で、罰ゲームに泰山の麻婆豆腐を賭けてて……」
「で、お前が最下位だったと」
「……仰る通りです」
事情を正直に話すと、眉間の皺がやや深まった。この変化はすごく微々たる差なのだけど、私にはわかる。伊達に十年以上一緒に暮らしてない。
「人の好物を持ち出して罰ゲームとは、失礼な奴らだな」
「わ、私じゃないよ! 言い出しっぺはランサーだからね」
「……アレにはあとできつい仕置をしておこう」
綺礼の眉間の皺が緩んで、口元がやや歪んだ。ランサーへのお仕置き内容でも考えているのか、実に愉しそうだった。あ、ランサー死んだなコレ。知らない。私を笑ったことをせいぜい後悔しろ。
綺礼の機嫌が直ったところで緊張が解けたのか、お腹の虫が鳴いた。時計を見ると、2本の針はほとんどてっぺんを向いていた。トランプを片付けながら、お昼のメニューを考え始める。頭の中に、冷蔵庫の中身とレシピがいくつか浮かんだところで、綺礼がおかしなことを言い出した。
「では行くか」
「え、どこへ?」
「決まっているだろう、泰山だ」
「今から?」
「そうだ。ちょうど、今日の昼食はあそこでと思っていたところだ」
なんという(最悪な)ナイスタイミング。いや、違うぞ。これ絶対今決めた顔だ。
「そうなんだ、じゃあどうぞ行ってらっしゃい」
「何を言う、お前も行くのだぞ」
「綺礼は私が辛いの大の苦手って知ってるでしょ!?」
「罰ゲームなのだろう? では甘んじて受けねばなるまい」
「いやいや、綺礼には関係ないよね?」
「関係ならあるぞ。先程、大事な従者に頼まれたからな」
「おのれランサー……!!」
目の前の男からどこかノリノリな雰囲気が伝わってくる気がする。ああこれ、顔に出てないけど、めちゃくちゃ楽しんでるな。というか、罰ゲームにされるの嫌だったんじゃないのか。
この場をどうにか逃れたくて全力で策を考えるが、気持ちが焦るばかりで一向に浮かばない。さっきまで考えていた昼食のメニューもいつの間にか真っ赤な麻婆色に染まっている。
「フッ。最近は、外で共に食事をする事は滅多になくなっていたからな。私も寂しいと思っていたところだ。どうだ、たまには」
予想外の言葉だった。けれどすぐに方便だと気付く。言峰綺礼という男が私に優しい言葉をかけたことなど、これまで一度もない。心にもない事を言いやがって、と内心で憤る。しかし同時に、心のどこかでその誘いが「嬉しい」と思ってしまう私がいた。
「私から誘うなど、そうある機会ではないぞ。気が変わらないうちに、早く答えを言え、依久乃」
「…………ぐっ…………。ああ、わかったよ! 行けばいいんでしょ、行けば!!」
怒りと喜びという相反する感情で目が回りそうになりながら、私は半ばヤケクソ気味に返事をした。
*
私たちが出かけると教会には誰もいなくなるので、門のところに戻る時間を書いた貼り紙して教会を出た。平日の昼間の教会など、おそらく誰も来ないだろうけど、念のため。
教会から新都駅まで歩き、深山町方面行きのバスに乗る。はじめは久しぶりの二人きりでの外出になんとなく浮き足立っていたが、バスが冬木大橋を渡る頃、窓の外に見える橋の色から激辛麻婆豆腐を思い出し、罰ゲームへの恐怖が再び湧いてきてしまった。
「ねえ、参考までに聞きたいんだけど、できるだけ辛さを感じないで食べられる方法、とかないかなぁ」
「ないな」
「やっぱりそうかぁ……。はあ、やだなあ……」
盛大に肩を落とし、今すぐバスを降りたい衝動に駆られていると、助け舟が出された。
「だが美味く食べる方法ならある」
「あるの? っていうか今無理って……」
「辛さを感じず美味く食べる方法はない、と言ったまでだ」
「出た、回りくどい言い回し……。でも綺礼のことだから、あえてそう言ってわざと私に辛い思いをさせるんじゃ……」
「それはそれで愉快ではあるが、私の数少ない好物だからな。わざわざ不味く思われるように仕向けてなんになる」
「な、なるほど……。よっぽど好きなんだね……麻婆豆腐」
綺礼が、麻婆豆腐をたまにふらっと食べに出かけているのは知っていた。常日頃から激辛料理を食べるほど好きというわけではないが、どうも、無性に食べたくなるらしい。そういうものなのだろうか。私は辛いの苦手だから、理解できないけれど。っていうかやっぱり、好物少ないんだね、綺礼。
そうこうしているうちにバスは深山町についた。
件の店「紅洲宴歳館 泰山」は、バス停からしばらく歩いたところにある商店街の中にある。こじんまりとしていて、町の中華料理屋といった店構えだ。私たちを出迎えたのは、どう見ても子供だろうとつっこみたくなるチャイナ服の女店主。綺礼とは顔見知りらしく、珍しく連れがいることに驚いていた。
店主に注文を伝え席に着くと、綺礼がテーブルに肘をつき、さて、と切り出した。
「多くの人間が勘違いしているが、真に美味い激辛料理とは、ただ辛いだけの料理ではない。辛さの先に、必ず旨味がある。辛さとは即ち痛みだ。そして痛みにはいずれ慣れるもの。麻婆豆腐の旨さとは、辛さに慣れた先にある。だから、食べずしては始まらんのだ」
表情はあまり変わらないのだが、なんとなく、声音にいつもより少しだけ張り切っているような色がある。どうやら彼のやる気スイッチを押してしまったらしい。
綺礼の言うことには妙に説得力があった。というかこの巨躯に、地の底から響くような声と落ち着いた話し方で言われれば、根拠などなくても納得してしまいそうになる。だが、納得しようが苦手なものは苦手だ。それに尤もらしい言い分に聞こえるが、辛いものが苦手な人間にとっていちばん重要な問題が見逃されている。
「まず最初の一口を食べることに抵抗がある場合は?」
「気合いで耐えろ」
ここに来てまさかの根性論。そういえば綺礼ってば、我慢とか苦行とか鍛錬とか大好き……じゃなくてそういうものに進んで身を投じる、わかりにくいドMみたいな男だったなあ。私はアンタほど耐久性高くないぞ。
……などと悶々としていたら、奥から先ほどの子供店主がやってきて、胡散臭いカタコトの日本語と共に、私の前に麻婆豆腐が置かれた。
油の光沢、程よい大きさのひき肉、均一に切られた豆腐……丁寧に作られているのがわかる。確かに美味しそうだ。しかし赤い。やっぱり赤い。どう見ても赤い。頑張って見出した美味しそうな要素を全て塗りつぶすような赤。その上、立ち上る湯気が目にしみる気さえする。さながら地獄の釜だ。
「さあ、食べるがいい」
やっぱり無理だ。気合とかあっても無理。せめて胃薬でも持って来ればよかった。あるいは、ランサーに死にかけた時の極意でも教わっておけばよかったかな……。
「……何をしている。早く食べねば冷めてしまうぞ」
「うう……辛そう」
「実際、辛いぞ。フッ、最初の一口に抵抗があるのなら、私が食べさせてやろうか」
「それは結構です!!」
「恥ずかしいのか? 遠慮するな」
「違うよ!? あーもう、わかった食べるいただきます!!」
売り言葉に買い言葉、煽られるがままに最初の一口をレンゲですくい、ええいままよ、と口の中に放り込んだ。
口当たりは肉の旨味と豆腐の食感が来て、一瞬イケるかも、と思った。しかし次の瞬間、凄まじい辛さが容赦なく口の中に広がる。辛い。すごく辛い。っていうかもはや痛い。辛さとは痛み。綺礼の言うことは間違ってなかった。これを罰ゲームにしたランサーを恨むし、軽率に乗ったあのときの自分も恨む……!!
「っあー!辛ぁ……口の中がビリビリする」
「耐えろ。じきに慣れる。水は飲むなよ」
「水飲んじゃダメなの……!?」
「水を飲めば、辛味が苦味に変わる。余計に食べられなくなるぞ」
「ひええ、それはやだあ……でも、うう、辛いよお……」
「耐えろ。そして食え。その先にこそ旨みがある」
綺礼の口元が僅かに歪んでいる。あ、これアレだ。嬉しい時の顔だ。私が悶える様がそんなに面白いか。そうか。それはそれとして、見られているとなんだか恥ずかしいので、そんなにまじまじと見ないでもらえませんか?
それにしても辛い。私の味蕾が悲鳴を上げている。これが麻痺すれば美味しく感じるようになる、と言うけど、それってなにか、一種の自傷行為めいたものを感じる。もしかして、これも綺礼の苦行好きの一環だったりするのか。
辛さに耐えて麻婆豆腐を頬張りながら、私はふと綺礼の分が運ばれてきていないことに気づく。しかし綺礼はそれを気にするそぶりも見せない。
「あれ、綺礼の分は?」
「私の分はじきに来る。お前が辛さに悶える表情を堪能してからいただくつもりだ」
「悪趣味……」
思わず悪態を吐く。しかし、普段鉄面皮なこの男の嬉しそうな顔を見ると、不思議と苦しい気持ちが失せた。多分今、彼は彼の喜びを味わっている。その顔を見せるということはつまり、私には気を遣わない、そういうことなんだろうか。
彼の歪みについては、知っている。初めてギルガメッシュから聞かされた時は驚いたけど、不思議と嫌いにはならなかった。なんとなく納得感があったし、元々何事にも愉しみを見出せず苦しんでいた人だったから、それくらいは許されるだろうとも思った。まあ、死を望まれるのは流石に少し困るけど。
こんな風に思う私も、どうかしてるんだろうか。でも、血は繋がってないけど、家族だから。家族の喜ぶ顔は、嬉しいものでしょ。
それに一応、歪なだけで彼なりの愛はあるのだ。共に暮らしているとそう感じる。彼は自分を時に非人間だと言うけれど、そういう所も含めて人間らしいと思う。結局のところ、お人好しなのだ。そう言っても喜ばないだろうからあえて本人には伝えないけど。
そんなことを考えているうちに、辛さに慣れてきたのか、肉や油の旨味だけが感じられるようになってきた。
「うん、だんだん美味しくなってきたかも……!」
「…………」
「あ、今あからさまにつまらないって顔した」
「……そのようなことはない。さて、私もいただくとしよう」
はかったかのようなタイミングで、綺礼のぶんの麻婆豆腐が運ばれてきた。綺礼は手慣れた様子でレンゲを手に取り、勢いよくたいらげていく。普段は寡黙な綺礼が、ハフハフと音を食べながら貪るように食べる様は、教会の食卓では絶対に見られない光景だった。
そうしてあっという間に二人とも麻婆豆腐を完食。私は無事罰ゲームを完遂することができた。舌はヒリヒリするし、少し汗もかいてしまったけど、どこか清々しい気分だった。罰ゲームではあったけど、結果として綺礼の喜ぶ顔も見られたし、なんだかんだ美味しかったのでよしとしよう。これで奴らには何も言わせまい。
商店街からバス停へ向かう途中、綺礼の口角が微かに上がっているように見えた。
「ねえ綺礼、美味しかった?」
「ああ、ここの味は変わらないな」
「じゃなくて、私と食べたら、より美味しく感じたとか」
私の質問に、綺礼の頬が一瞬ピクリと動く。けれどすぐ無表情に戻ってしまった。
「………ないな」
「ふーん、そっか。……まあ、もし一人が寂しかったら、また付き合ってあげてもいいよ」
予想していた返答が得られなかったのが悔しくて、らしくなく駆け引きなど挑んでみる。
「食べたくなったら、次からは一人で勝手に行くがいい。お前が寂しさに耐えられればの話だがな」
駆け引きは呆気なく終わった。何十年と貼り付けた鉄面皮はそう簡単に剥がれるものではないらしい。やはり、慣れないことはするものじゃないな。そもそもこの男に、心理戦を挑んだ私が馬鹿だった。
ああ、そうだ。綺礼の言う通り、私は寂しがりだし、理由はどうあれ久しぶりに出かけられたのを柄にもなく喜んでしまった。綺礼はいつも、何故か人の核心をついてくるから困る。
「はあ、意地を張った私が悪かったです。久しぶりにご飯一緒に食べられて嬉しかった。だから、またこんな風に誘ってよ」
「フッ……無理をするな。素直なのがお前の美徳だ」
そう言って綺礼は私の頭を撫でた。綺礼には、"素直"の美しさなんて、"解る"のだろうか。胸の中に、撫でられた嬉しさと共にかすかな痛みが去来する。しかし、すぐに振り払った。
「いいだろう。では次は店主にもう一段辛くしてもらうよう頼んでおこう。そうすればまた、お前の反応が愉しめるからな」
「え……!? もしかして、綺礼のが時間差で出てきたのって、わざわざ別で作ってもらってたからなの!?」
「ああ、そうだとも。むしろ辛さが苦手なお前への配慮のつもりだったのだが」
「でも、次行ったらもっと辛いの食べさせられるんでしょ?」
「もちろんだ」
「やっぱ前言撤回!! 絶対綺礼とは一緒に行かない!!!」
綺礼の表情が少しだけ緩んだ気がした。心做しか眩しそうにも見える。怒ったような声音の裏で、私の心が図らずも躍る。
隣を歩きながら、幼い頃のように綺礼の手を握った。本当になんとなく、深い理由はない。ただ、懐かしくなっただけ。
「なにをしている、依久乃」
「なんとなくさ、並んで歩くと昔を思い出しちゃって。璃正さんとこうして3人で歩いてたなーって」
「……そうだな」
振りほどかれるかと思いきや、綺礼は意外にも握り返してきた。私は驚いて見上げるが、身長差のせいか表情はよく見えない。綺礼の節くれだった手は他の人と変わらず温かく、先ほど振り払った胸の痛みが、また蘇る。
「……そうだ。夕飯の買い物して帰ろう。晩御飯、何がいい?」
「お前の好物を作るといい。昼は付き合わせたからな」
「んーじゃあ、そうだなぁ。からあげにする! 今日は特売だから、もも肉買っていい?」
「ああ、いいだろう」
辛いもので身体が温まったせいか、足取りが軽い。平日に揚げ物は手間がかかるからあまりしないのだけど、今日は少し機嫌がいいから多分大丈夫だ。
帰ったらちゃんとランサーに、罰ゲームを果たした報告しないとな。ギルガメッシュは言い出しっぺのくせに私を裏切ったので、晩ごはんのからあげを一つ少なくしてやるんだ。
*
ちなみに後日、ランサーと、ついでにギルガメッシュは、辛さを最大まで上げた泰山の麻婆を令呪つきで食わされた。
私もその様子を観察させてもらったので溜飲は下がったけど、綺礼の表情が私の時より愉しそうだったのがちょっと悔しいのは、何でだろうな。
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