これを恋と呼ぶわけにはいかない
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
今日のメインは牛肉のステーキ。付け合せにはマッシュポテト、にんじんのグラッセ、クレソン。お肉の焼き加減は見事なレア。紺色の丸いプレートに、断面のきれいな赤色が映える。程よい歯ごたえに、噛めば噛むほど肉汁がじゅわりと染みでる。とてもじゃないけど、わたしがスーパーで適当に買ってきた肉とは思えない。
「お店で食べるお肉みたい。本当なんでも上手に作るよね」
口に含んだ肉をよく噛んで飲み込み、小さなダイニングテーブルの向かいに座っているアーチャーに称賛の言葉を贈ると、彼はワインを一口含んだ後、得意げな表情で口を開いた。
「口に合ったようで何よりだ。ちなみにスーパーの肉をレアで仕上げるには冷たいまま焼くのがコツなんだ。フライパンは中温、サッと焼き目をつけてしばらく休ませる。脂は、バターがいい。それもすましバターがベストだ。このすましバターというのは──」
ああ、始まった。この男は褒めるといつも長々と蘊蓄を語り出す。わたしはそれに興味がないし、その事も伝えているのに、だ。だから普段は感謝は述べるが味の感想は言わないようにしているのだが、今日のは期待値を超えた美味しさだったのでうっかり言葉が漏れてしまった。肉と付け合せの組み合わせを楽しみながら聞き流しつつ、話題を変えようと適当に頭の中のトピックを探る。
「ねえ。そういえば、料理が上手い男はセックスも上手いって雑誌で見たんだけど……アーチャーもそうなの?」
料理というキーワードで脳内検索に引っかかった話題を適当に投げつけると、アーチャーは何を言われたのか上手く飲み込めないという表情になった。そして一秒ほどのタイムラグの後、眉根を寄せ、盛大にため息を吐いた。
「……それを直接私に聞くのか君は」
「いいじゃん、教えてよ。お聞かせください! ……なんつって」
気づけば最後のひと切れになったステーキをフォークで刺して、マイクのようにアーチャーの口元に差し出す。もちろんあげる気は毛頭なく、食べようとしたところを引っ込めてやるつもりだったのだが、不意に手首を掴まれてしまった。しかしアーチャーは先端の肉には見向きもせず、こちらをじっと見つめるばかりだ。
「そんなに気になるなら、ここで試してみるかね」
初めに浮かんだのは「何言ってるんだこいつ」という言葉だった。しかし冷静な頭とは裏腹に、心臓の鼓動は何故か早くなる。呼吸も浅くなり、喉に何かが詰まっているように言葉が出ない。沈黙に耐えられず手首を引いてみたが、ビクともしなかった。こちらを見つめる鈍色の瞳は、心做しか欲を含んでいるように見えたが、どうにも真意を読み取ることはできない。それなのにこちらの動揺は見透かされているのような気がするのだから困る。観念してゆるゆると目を逸らすと、喉のつかえがとれて空気が通った。
「……え、遠慮、しとくよ」
「聞いておいて、それはないんじゃないか」
「別に他意はないし。何深読みしてんの」
もう一度手に力を入れて引くと、今度はすんなり解放された。大きく息を吐きながら視線を戻すと、フォークの先に肉がない。わたしが食べるはずだったそれは、しっかりアーチャーの口の中で咀嚼されている。
「あっ、食べた!」
「差し出してきたのは君だ」
「あげる気なんてなかったもん!」
動揺から、大人げなく声を荒げてしまった。
「まあ、気が向いたらいつでも声をかけてくれ」
言いながら、アーチャーは自分の皿から先程と同じ大きさに切った肉を渡してきた。詫びのつもりなのだろうが、添えられた台詞が最悪だ。せっかく美味しいお肉なのに、台無しである。
ああ、イライラする。人の肉を奪っておいてなおいやみったらしい目の前の男にも、こんな奴に動揺した自分にも。
「ねえ、好きでもない女にそういうこと言うのやめなよ」
「そういうこと、とは」
アーチャーは、本気でなんのことかわからない、という顔をした。
「だから、気が向いたら声かけろとか」
「ふむ。では好きな相手にならいいのかね」
「いいんじゃない? 好きな子いるの?」
その問いに特別な意図はなかった。売り言葉に買い言葉で、興味もなかった。
色気のないこいつのことだ。どうせいないだろうし、もしいるなら応援はしないまでもからかってやろうくらいに思っていた。しかし。
「君だ、と言ったらどうする?」
返された言葉に、一瞬頭が真っ白になった。先程のもそうだが、この男はたまに本気か冗談かわからないことを言う。
「なにそれ告白のつもり? 全っ然、信用できない」
ふざけた男の思わせぶりな言葉を一蹴し、男が寄越した肉を思いっきり乱暴にフォークで突き刺して、がぶりと食べた。わたしのはらわたがどれだけ煮えくり返っていても、お肉は美味しかった。憎らしいほどに。肉は数回噛んだだけで飲み込めるやわらかさになってしまい、苛立ちを和らげるには至らなかった。
何故かね、などととぼけた問いを返してくる目の前の鈍感な男に、肉をごくりと飲み込んで、フォークの先を向けながらはっきりと理由を告げる。
「だってアーチャー、誰にでも優しいじゃん」
男でも女でも、基本的に頼まれごとは断らないし、おまけに見返りを求めない。この男は、ちょっと度が過ぎるくらいのお人好しだ。親しくなるとむしろ小言や皮肉が増えるが、それすらも、こちらを思いやってのものだとわかる。でも、その優しさが誰にでも平等に向けられるものだから、信用出来ないのだ。
「私は別に、誰にでも優しいつもりはないのだが」
「うわ、無自覚とかないわ……きみはその優しさで何人もの女の子を勘違いさせてるの、気付いてないの?」
「なるほど、特に親しくもない女性からよく連絡先を聞かれるのは、そのせいか……」
アーチャーは顎に手を添え、今後は接し方に気をつけよう、などと独りごちながら、満更でもなさそうな表情だった。お前それ絶対気をつける気ないだろ。くっそ。爆発しろ。
「だがな、その点に関しては君も大概だぞ」
「へ?」
どうしてこちらにブーメランが返ってくるのかさっぱりわからず、間抜けな声を返してしまう。
「常日頃から私の部屋に上がり込み、私の作った料理を食べ、あまつさえ食事中に、その……そういう行為の話題を振るなど、勘違いするなと言う方がおかしいだろう」
アーチャーに言われて、初めて気付いた。先程の問いは本当にただ料理で思いついた話題を振っただけだった。それに女性誌なら割と普通に出る話題だ。なるほど、女性誌で出るということは、確かに男性に振る話題としては不適切だったかもしれない。わたしはたまに空気が読めないとか、倫理観や貞操観念が欠落してるとか言われることがよくある。自覚はないが、きっと何度も言われるのだからそうなのだろう。ここは素直に謝っておこう。
「ごめん、次から気をつける。でもアーチャーに友達以上の感情はないし、さっきの質問に言葉以上の意味はないよ」
そう言うとアーチャーはまた複雑そうな顔をした。そんな彼を尻目に、最後に食べようと皿に残しておいた人参のグラッセをほおばる。甘さもちょうどいいし、柔らかくて美味しい。糖分は心を落ち着ける。ゴクリと飲み込んで、さらに言葉を続けた。
「友達というか、利害関係……? わたしは料理下手くそで、アーチャーは料理上手。わたしは食べるのが好きで、アーチャーは食べてもらうの好きでしょ」
「利害関係と言うのは、双方にメリットがある状態の事を言うんだぞ」
「え? あるでしょメリット。アーチャーは人に尽くすこと自体が見返りじゃん」
わたしの言葉に虚をつかれたのか、アーチャーは一瞬固まったあと、頭を抱えてため息を吐いた。
「……はあ。依久乃。私は君にどう扱われようと気にしないが、君が誰に対してもそういう態度ならば、いつか嫌われるぞ」
何それ、と思った。アーチャー自身は気にしないのなら、いいんじゃないのか。余計なお世話だ。自分に焦点の合っていない忠告に、グラッセで落ち着いたはずの苛立ちがまた顔を出す。
「もう嫌われてるよ。陰ではひどい言われよう。鈍感なアーチャーくんは知らないだろうけど」
心の棘をそのまま突きつけるかのように皮肉を投げると、アーチャーはしまった、と言った表情で「すまない」と素直に謝ってきた。いつもなら皮肉には皮肉で返してくるのに、思っていた反応と違い、調子が狂う。どうしてそんなに辛そうな顔をするの。わたしが嫌われてることなんて、きみにとってはどうでもいいはずでしょ。
「え、やだ。謝んないでよ。ここは鈍感で結構、とか言うとこじゃん……」
「しかし、君のそばにいながら気づけなかった私は……」
「いや嫌われてる事は気にしてないし……。むしろアーチャーのそういう鈍感なとこが、一緒にいて楽なんだって」
「だからそんなに気にしないで」と、空になった皿にフォークとナイフをきれいに並べて渡した。自分で刺した棘を自分で抜く、なんて。一体なんなんだ、忙しいなわたしの心。
一応、気にしていないのは本音だ。わたしは自分が大事だと思った人以外はどうでもいい人間なので、どうぞ勝手に嫌ってくださいという感じ。嫌われている事実を知っているのは、たまたま給湯室でわたしの陰口が話題に上っているのを通りがかりに耳にしてしまったからだ。彼女らはわたしに直接言う気はないらしく、今のところ嫌がらせなどはない。そしてそういう女性は往々にして男性に気付かれないように上手くやるのだ。だから男性陣の中でも、特に鈍感なアーチャーが知らないのも無理からぬ事だった。
そんなことよりデザートお願いね、とわたしが言うと、アーチャーは苦い表情のまま皿を受け取り、手際よくテーブルの上の食器をまとめて立ち上がった。
「なあ、デザートを用意する前に、ひとつ聞かせてくれないか」
「なに?」
「君は先程、その気がないと言ったが。逆にどうすればオレに本気になる?」
とっくに終わったと思っていた話を蒸し返され、面食らう。自分から振っておいてなんだけど、どうやらわたしはこういう話題において自分に矛先が向く状況が苦手らしい。何故か思考が上手く働かなくなるのだ。鈍ってしまった頭で、なんとかこの状況から逃れる言葉をひねり出す。
「うーん……アーチャーには無理だよ」
「何故だ」
「わたしが好きなのは、わたしを殺せる人だから」
「なに……?」
「わたしを殺して、死体を埋めて、完全に隠蔽して。その罪を背負って一生独りで生きていけるだけの、覚悟のある人」
アーチャーが本気だろうが冗談だろうが、こちらには少なくともその気がないことをはっきりと伝える。わたしはこれでも自分の面倒くささをちゃんと自覚している。あえて引かせるために荒唐無稽なたとえをしたと思われるならそれでもかまわないが、実のところ本気でそう思ってもいた。アーチャーは、しばらく沈黙したあと皮肉げに笑った。
「君は闇が深いな」
「ははっ、お互い様でしょ」
わたしも同じように笑顔で皮肉を返す。自分が一番大事じゃないきみだって似たようなものだよ、と。ああ、互いを思いやるよりも、こういうしょうもない自己否定の皮肉で笑い合える方が、わたしたちらしいと思うよ。少しだけ緊張が解けたのか、互いに大きく息を吐いた。
「ね、こんな人いるわけないでしょ。それに、もし仮に居たとしても、わたしなんかのために殺人 やっちゃうんだーって思ったら冷めちゃう」
「難儀なものだな」
「そう、難儀なの、わたし。だから、こんなめんどくさい女は、はじめっから誰にも望みがないの」
諦観の言葉に悲哀の色はない。なぜならそれはわたしにとって当たり前のことだからだ。「ほら、わかったら早くデザート」もうこんな話題はたくさんだ、という顔でアーチャーを促す。承知した、とまるでウェイターのように慇懃に礼をしたが、顔を上げるとまたわたしの目をしっかりと見つめてこう言った。
「依久乃。ここでひとつ忠告を。次から嘘をつく時は、視線の動きに気をつけた方がいい」
嘘というのがどれを言っているのか本気でわからず、なんのこと、と聞き返してしまう。
「先程の『好きな相手』の話だ」
「な、別にうそじゃな」
「うそじゃない、無自覚だった」
「なん、」
「なんで、わかるの」
わたしの言葉は、丁寧にアーチャーに奪われた。悔しいことに、言いたいことは一言一句ぴったり一致していた。
「それなりに多くの時間を共にしているのでな」
そう言ったアーチャーの表情は、すべてお見通しだとでも言いたげだった。しかし、本当に、誓って、嘘のつもりはなかったのだ。それなのに何故か言い返せなかった。先程までのモヤモヤとした苛立ちがまた湧き上がり、今度はそれに悔しさの熱が加わる。ああもう、むかつく、むかつく、むかつく。キッチンに向かうアーチャーの背中に、「うっさいばか」と投げつけるように呟く。
「図星を突かれると雑になるのもな。他人は君が不可解だから嫌うのかもしれないが、私から見ればこれほどわかりやすい人間もいないと思うぞ」
わざわざ振り返ってそう言われたので、バカにされたような気分になり、わたしは椅子の上で膝を抱え込み顔を伏せた。アーチャーのばか。ばか。ほんと、ばか。
パタパタという足音が数歩したあと、シンクに食器を置く音と、水が流れる音がした。続いて冷蔵庫が開いて閉まる音。しばらくすると、こぽこぽとお湯が沸騰する音が聞こえた。紅茶のためのお湯だろう。淹れている間に洗い物を終わらせる算段のようだ。手際がいいな。主婦かよ。沈黙に耐えかねてちらりとアーチャーの方を見やると、カウンター越しに目が合いそうになったので、慌てて逸らした。
しばらくして、アーチャーが木製のトレーを持ってこちらに戻ってきた。トレーからデザートとティーセットがゆっくりと下ろされ、テーブルに並べられていく。白いココットに入れられた手作りのカスタードプリンにはバニラビーンズが入っていた。その本格的な出来に、私より仕事してるくせにいつ仕込んでるのかとツッコミを入れたくなったが、口をきくのが癪で、言葉を出すのをぐっと堪える。並べ終えたアーチャーは、すかさずバーナーを取り出し、カスタードプリンの表面を炙っていく。カスタードプリンではなくクレームブリュレか。そういえば、先日わたしからリクエストしたのを思い出した。表面が泡立ちながら焦げていく様子を見ると思わず心が躍り、香ばしい香りに絆されそうになったが、その仕上がりに満足気なアーチャーの顔を見たら、またむしゃくしゃが甦ってきたので、黙った。アーチャーはわたしのことなど気にも留めてない様子でテキパキとバーナーを片付け、紅茶をカップに注ぎ、それが終わるとポットにコゼーをかぶせ席に着いた。
「待たせたな。リクエストのクレームブリュレだ。紅茶はいつも通りノンカフェインのものを用意した」
甘い香りと立ち上る湯気に思わず喉を鳴らす。端的に言って、とても美味しそうだ。というかアーチャーが作る料理が美味しくなかった事なんて、ない。しかし、わたしはモヤモヤが消えず、膝を抱えたまま唇を尖らせ、本能的な欲求とは裏腹に拒絶の言葉を述べた。
「……いらない。アーチャーなんかきらい」
「そう拗ねてばかりいると、君のぶんも食べてしまうぞ」
アーチャーがわたしの方まで手を伸ばし、たった今出来上がったばかりのクレームブリュレの表面を、デザートスプーンでカツカツと軽くつついた。
「それ割ったらマジで絶交だから」
そう間髪入れずに言い放ち、スプーンをスプーンで跳ねのける。膝を解いてスプーンを取り跳ね除けるまでおよそ0.5秒。できたてのクレームブリュレのパリパリを割る事は食べるものの特権である。それを奪うことはなんぴとたりとも許さない。なめるなよ、食べ物の恨みは怖いんだぞ。アーチャーのふざけた言にむしゃくしゃしていた心の天秤は、クレームブリュレのパリパリを割られかけた事で一気に傾いた。アーチャーはわたしの様子を見て目を丸くしたあと、軽く吹き出した。
「それは困るな。しかし、君はいらないと言ったではないか」
「それとこれとは別、っていうかやっぱ食べる」
「ああ、わかった。すまない、調子に乗った私が悪かった」
「アーチャーのぶんくれたら許す」
「それくらいならお安い御用だ」
冗談のつもりだったのにアーチャーはなんの疑問もなく、それどころか笑顔で即答してきた。そのせいで先程まで燻っていた怒りがピークに達したらしく、わたしは思わず声を荒らげてしまった。
「ばか!! ほんとそういうとこ癪に障る!」
「何故だ! 寄越せと言ったのは君だろう」
「それがわからない奴だから怒ってるの!!」
誰に対しても優しい上に、本来得るべき報酬すらあっさり手放してしまう。自分を顧みないその危うさ。慇懃で皮肉屋なくせに、肝心な皮肉が全然通じない。ああもう、本当に腹が立つ。アーチャーは本気で「何故怒らせたのかわからない」という顔をしたので、わたしはもう怒りを通り越して呆れ、ため息をついた。
おいしい料理を作ってくれた相手からデザートまで奪うほどわたしは薄情じゃないし、仮にそうであったとしてもそれはきみが食べる権利を主張するべきものなんだよ。
「はあ……ほら、いいから一緒に食べよ」
「前言撤回、やはり君は不可解だ」
「こんなの不可解でもなんでもないし」
クレームブリュレの表面をスプーンの先で割ると、パリッと軽い音がして、ほどよいもったり感のカスタード部分が顔を出した。口に含むと、パリパリふわふわの楽しい食感とともに、卵と生クリームの風味がふわっと広がる。その甘さのおかげか、さっきまでのイライラが徐々におさまっていった。食べているあいだ一言も交わさなかったけれど、アーチャーが先程の怒りについて考え込んでいる様子を見ていると、少しだけ溜飲が下がった。
クレームブリュレを完食し、紅茶を飲むとすっかり冷静になった。カップに口をつけながら、なんとなく、ここまでの流れを反芻してみる。もし仮に、万が一、アーチャーがわたしに対して本気だったとしたら、わたしは結構酷いことを言ったのかもしれない。そう思うと申し訳なさに少し胸が痛んだ。その想いに応えられないことにも。けれど、やっぱり無理なものは無理なのだから、ここでハッキリ言っておくべき、それでこの関係がこじれるとしても、それが誠意だと思う。
ほどよい温度になった紅茶を一口、ごくりと飲み込み、気合いを入れようと深呼吸をしてから切り出した。
「……あのさ、一応ちゃんと言っとくね。仮にアーチャーがわたしのこと好きだとしても、わたしはアーチャーの想いに応えられない」
ゆっくりと、丁寧に、できるだけ冷たくならないように言葉を置く。しかし、わたしの深刻さをよそに、アーチャーは何食わぬ顔で返してきた。
「ん? 私がいつ『君が好きだ』と言った?」
「えっ、だって、さっきそんな空気出して……」
「『どうすれば本気になる』とは聞いたが『君が好き』とは一言も言っていないぞ」
「好きな子は、って聞いたら『君だ』みたいなこと言ったじゃん」
「……あれは例え話だ」
わたしは一気に脱力した。なんだかもう疲れ果てて怒る気すら起きない。気を揉んだ時間を返して欲しい、そう思った。少しだけ胸の奥が痛むような気がするのはきっと気のせいだろう。
「……あっ、そ。じゃあどうでもいいや。安心した。そりゃ、アーチャーがわたしに本気になることなんてないよね」
「どうだろうな。感情がどうなるかなどは、私にも、君にもわからないことだ」
この期に及んでまだそういうことを言うとか、本気で勘弁して欲しい。わたしはすかさず否定する。
「それはないよ。わたし、アーチャーとの関係こじれてご飯食べられなくなる方が嫌だから」
そう、アーチャーには本気にならないけど、このご飯の味は離れ難いのだ。できればこの心地よいポジションを確保していたい。たとえずるいと言われようとも。
「……そうか。君にそう思ってもらえているなら、私はそれで満足だ」
「なら、ある意味では私たち両思いなのかな?」
「……捉えようによっては、そうかもしれないな」
アーチャーはなにか言いたげだったが、これ以上は言っても無駄と悟っているような、けれどどこか安心したような、そんな顔をしていた。含みのある物言いの真意が気になったが、これ以上なにか聞いて話をこじらせてもいけない。そう思いつつ、コゼーを外しティーカップに二杯目を注いでいると、アーチャーが再び口を開いた。
「で、まだ味の感想をもらっていないのだが」
アーチャーはこちらの空になったココットに視線を向けている。わたしは思わぬ言葉に虚をつかれ、紅茶を注ぐ手元が狂いそうになったがなんとか踏みとどまった。いつも、美味しいのは当然と言わんばかりに、わざわざ味の感想を求めることなどしないのに。
「え、普通においしくて食べちゃった。ごめんね。でも、わたしが何も言わない時は美味しい時だって、アーチャー知ってるじゃん」
「それは、そうだが。それでも先程は、言ってくれたじゃないか。……オレだってたまには、言葉が欲しい時くらいある」
気のせいか、いつもどこか気取っているような男が、この時は珍しく拗ねているように見えた。これはもしかして、アーチャーが、見返り求めたということだろうか。
「……何を笑っている!?」
自覚はなかったが、どうやら口角が上がっていたようだ。自分のためには何も求めない男の、あまりにささやかな要求に、わたしは何故かすこぶる嬉しくなってしまったらしい。ならば、精一杯の賞賛の言葉を贈るとしよう。
「ううん、なんでもない。美味しかった! とーっても美味しかったよ!! ……セックスのテクが気になるくらいには」
調子に乗って付け足した余計な一言に、アーチャーは顔を覆い、最低だな、と言った。しかしその言葉に呆れはあれど、嫌悪感はなかった。むしろ少しだけ嬉しそうに聞こえたのは気のせいではないかもしれない。
「でもなんやかんや、そんなわたしのこと嫌いじゃないんでしょ」
「……ああ、実に不本意ながらな」
アーチャーはため息とともに笑った。わたしもまた釣られて笑い、改めて思いを告げる。
「好きだよ、アーチャー。友達としてだけど」
「ああ、私も君が好きだよ。……友達としてな」
笑顔でありながら、どこか互いを牽制するような視線を送り合う。そこにときめきなどというものはきっとないし、こんなものは恋とは呼べない。でも、わたしたちにはこれくらいの距離感がちょうどいいのだ。だってこれ以上近づくと、うまく息ができなくなってしまうから。
次の話→それが恋じゃなけりゃなんだってんだ
「お店で食べるお肉みたい。本当なんでも上手に作るよね」
口に含んだ肉をよく噛んで飲み込み、小さなダイニングテーブルの向かいに座っているアーチャーに称賛の言葉を贈ると、彼はワインを一口含んだ後、得意げな表情で口を開いた。
「口に合ったようで何よりだ。ちなみにスーパーの肉をレアで仕上げるには冷たいまま焼くのがコツなんだ。フライパンは中温、サッと焼き目をつけてしばらく休ませる。脂は、バターがいい。それもすましバターがベストだ。このすましバターというのは──」
ああ、始まった。この男は褒めるといつも長々と蘊蓄を語り出す。わたしはそれに興味がないし、その事も伝えているのに、だ。だから普段は感謝は述べるが味の感想は言わないようにしているのだが、今日のは期待値を超えた美味しさだったのでうっかり言葉が漏れてしまった。肉と付け合せの組み合わせを楽しみながら聞き流しつつ、話題を変えようと適当に頭の中のトピックを探る。
「ねえ。そういえば、料理が上手い男はセックスも上手いって雑誌で見たんだけど……アーチャーもそうなの?」
料理というキーワードで脳内検索に引っかかった話題を適当に投げつけると、アーチャーは何を言われたのか上手く飲み込めないという表情になった。そして一秒ほどのタイムラグの後、眉根を寄せ、盛大にため息を吐いた。
「……それを直接私に聞くのか君は」
「いいじゃん、教えてよ。お聞かせください! ……なんつって」
気づけば最後のひと切れになったステーキをフォークで刺して、マイクのようにアーチャーの口元に差し出す。もちろんあげる気は毛頭なく、食べようとしたところを引っ込めてやるつもりだったのだが、不意に手首を掴まれてしまった。しかしアーチャーは先端の肉には見向きもせず、こちらをじっと見つめるばかりだ。
「そんなに気になるなら、ここで試してみるかね」
初めに浮かんだのは「何言ってるんだこいつ」という言葉だった。しかし冷静な頭とは裏腹に、心臓の鼓動は何故か早くなる。呼吸も浅くなり、喉に何かが詰まっているように言葉が出ない。沈黙に耐えられず手首を引いてみたが、ビクともしなかった。こちらを見つめる鈍色の瞳は、心做しか欲を含んでいるように見えたが、どうにも真意を読み取ることはできない。それなのにこちらの動揺は見透かされているのような気がするのだから困る。観念してゆるゆると目を逸らすと、喉のつかえがとれて空気が通った。
「……え、遠慮、しとくよ」
「聞いておいて、それはないんじゃないか」
「別に他意はないし。何深読みしてんの」
もう一度手に力を入れて引くと、今度はすんなり解放された。大きく息を吐きながら視線を戻すと、フォークの先に肉がない。わたしが食べるはずだったそれは、しっかりアーチャーの口の中で咀嚼されている。
「あっ、食べた!」
「差し出してきたのは君だ」
「あげる気なんてなかったもん!」
動揺から、大人げなく声を荒げてしまった。
「まあ、気が向いたらいつでも声をかけてくれ」
言いながら、アーチャーは自分の皿から先程と同じ大きさに切った肉を渡してきた。詫びのつもりなのだろうが、添えられた台詞が最悪だ。せっかく美味しいお肉なのに、台無しである。
ああ、イライラする。人の肉を奪っておいてなおいやみったらしい目の前の男にも、こんな奴に動揺した自分にも。
「ねえ、好きでもない女にそういうこと言うのやめなよ」
「そういうこと、とは」
アーチャーは、本気でなんのことかわからない、という顔をした。
「だから、気が向いたら声かけろとか」
「ふむ。では好きな相手にならいいのかね」
「いいんじゃない? 好きな子いるの?」
その問いに特別な意図はなかった。売り言葉に買い言葉で、興味もなかった。
色気のないこいつのことだ。どうせいないだろうし、もしいるなら応援はしないまでもからかってやろうくらいに思っていた。しかし。
「君だ、と言ったらどうする?」
返された言葉に、一瞬頭が真っ白になった。先程のもそうだが、この男はたまに本気か冗談かわからないことを言う。
「なにそれ告白のつもり? 全っ然、信用できない」
ふざけた男の思わせぶりな言葉を一蹴し、男が寄越した肉を思いっきり乱暴にフォークで突き刺して、がぶりと食べた。わたしのはらわたがどれだけ煮えくり返っていても、お肉は美味しかった。憎らしいほどに。肉は数回噛んだだけで飲み込めるやわらかさになってしまい、苛立ちを和らげるには至らなかった。
何故かね、などととぼけた問いを返してくる目の前の鈍感な男に、肉をごくりと飲み込んで、フォークの先を向けながらはっきりと理由を告げる。
「だってアーチャー、誰にでも優しいじゃん」
男でも女でも、基本的に頼まれごとは断らないし、おまけに見返りを求めない。この男は、ちょっと度が過ぎるくらいのお人好しだ。親しくなるとむしろ小言や皮肉が増えるが、それすらも、こちらを思いやってのものだとわかる。でも、その優しさが誰にでも平等に向けられるものだから、信用出来ないのだ。
「私は別に、誰にでも優しいつもりはないのだが」
「うわ、無自覚とかないわ……きみはその優しさで何人もの女の子を勘違いさせてるの、気付いてないの?」
「なるほど、特に親しくもない女性からよく連絡先を聞かれるのは、そのせいか……」
アーチャーは顎に手を添え、今後は接し方に気をつけよう、などと独りごちながら、満更でもなさそうな表情だった。お前それ絶対気をつける気ないだろ。くっそ。爆発しろ。
「だがな、その点に関しては君も大概だぞ」
「へ?」
どうしてこちらにブーメランが返ってくるのかさっぱりわからず、間抜けな声を返してしまう。
「常日頃から私の部屋に上がり込み、私の作った料理を食べ、あまつさえ食事中に、その……そういう行為の話題を振るなど、勘違いするなと言う方がおかしいだろう」
アーチャーに言われて、初めて気付いた。先程の問いは本当にただ料理で思いついた話題を振っただけだった。それに女性誌なら割と普通に出る話題だ。なるほど、女性誌で出るということは、確かに男性に振る話題としては不適切だったかもしれない。わたしはたまに空気が読めないとか、倫理観や貞操観念が欠落してるとか言われることがよくある。自覚はないが、きっと何度も言われるのだからそうなのだろう。ここは素直に謝っておこう。
「ごめん、次から気をつける。でもアーチャーに友達以上の感情はないし、さっきの質問に言葉以上の意味はないよ」
そう言うとアーチャーはまた複雑そうな顔をした。そんな彼を尻目に、最後に食べようと皿に残しておいた人参のグラッセをほおばる。甘さもちょうどいいし、柔らかくて美味しい。糖分は心を落ち着ける。ゴクリと飲み込んで、さらに言葉を続けた。
「友達というか、利害関係……? わたしは料理下手くそで、アーチャーは料理上手。わたしは食べるのが好きで、アーチャーは食べてもらうの好きでしょ」
「利害関係と言うのは、双方にメリットがある状態の事を言うんだぞ」
「え? あるでしょメリット。アーチャーは人に尽くすこと自体が見返りじゃん」
わたしの言葉に虚をつかれたのか、アーチャーは一瞬固まったあと、頭を抱えてため息を吐いた。
「……はあ。依久乃。私は君にどう扱われようと気にしないが、君が誰に対してもそういう態度ならば、いつか嫌われるぞ」
何それ、と思った。アーチャー自身は気にしないのなら、いいんじゃないのか。余計なお世話だ。自分に焦点の合っていない忠告に、グラッセで落ち着いたはずの苛立ちがまた顔を出す。
「もう嫌われてるよ。陰ではひどい言われよう。鈍感なアーチャーくんは知らないだろうけど」
心の棘をそのまま突きつけるかのように皮肉を投げると、アーチャーはしまった、と言った表情で「すまない」と素直に謝ってきた。いつもなら皮肉には皮肉で返してくるのに、思っていた反応と違い、調子が狂う。どうしてそんなに辛そうな顔をするの。わたしが嫌われてることなんて、きみにとってはどうでもいいはずでしょ。
「え、やだ。謝んないでよ。ここは鈍感で結構、とか言うとこじゃん……」
「しかし、君のそばにいながら気づけなかった私は……」
「いや嫌われてる事は気にしてないし……。むしろアーチャーのそういう鈍感なとこが、一緒にいて楽なんだって」
「だからそんなに気にしないで」と、空になった皿にフォークとナイフをきれいに並べて渡した。自分で刺した棘を自分で抜く、なんて。一体なんなんだ、忙しいなわたしの心。
一応、気にしていないのは本音だ。わたしは自分が大事だと思った人以外はどうでもいい人間なので、どうぞ勝手に嫌ってくださいという感じ。嫌われている事実を知っているのは、たまたま給湯室でわたしの陰口が話題に上っているのを通りがかりに耳にしてしまったからだ。彼女らはわたしに直接言う気はないらしく、今のところ嫌がらせなどはない。そしてそういう女性は往々にして男性に気付かれないように上手くやるのだ。だから男性陣の中でも、特に鈍感なアーチャーが知らないのも無理からぬ事だった。
そんなことよりデザートお願いね、とわたしが言うと、アーチャーは苦い表情のまま皿を受け取り、手際よくテーブルの上の食器をまとめて立ち上がった。
「なあ、デザートを用意する前に、ひとつ聞かせてくれないか」
「なに?」
「君は先程、その気がないと言ったが。逆にどうすればオレに本気になる?」
とっくに終わったと思っていた話を蒸し返され、面食らう。自分から振っておいてなんだけど、どうやらわたしはこういう話題において自分に矛先が向く状況が苦手らしい。何故か思考が上手く働かなくなるのだ。鈍ってしまった頭で、なんとかこの状況から逃れる言葉をひねり出す。
「うーん……アーチャーには無理だよ」
「何故だ」
「わたしが好きなのは、わたしを殺せる人だから」
「なに……?」
「わたしを殺して、死体を埋めて、完全に隠蔽して。その罪を背負って一生独りで生きていけるだけの、覚悟のある人」
アーチャーが本気だろうが冗談だろうが、こちらには少なくともその気がないことをはっきりと伝える。わたしはこれでも自分の面倒くささをちゃんと自覚している。あえて引かせるために荒唐無稽なたとえをしたと思われるならそれでもかまわないが、実のところ本気でそう思ってもいた。アーチャーは、しばらく沈黙したあと皮肉げに笑った。
「君は闇が深いな」
「ははっ、お互い様でしょ」
わたしも同じように笑顔で皮肉を返す。自分が一番大事じゃないきみだって似たようなものだよ、と。ああ、互いを思いやるよりも、こういうしょうもない自己否定の皮肉で笑い合える方が、わたしたちらしいと思うよ。少しだけ緊張が解けたのか、互いに大きく息を吐いた。
「ね、こんな人いるわけないでしょ。それに、もし仮に居たとしても、わたしなんかのために
「難儀なものだな」
「そう、難儀なの、わたし。だから、こんなめんどくさい女は、はじめっから誰にも望みがないの」
諦観の言葉に悲哀の色はない。なぜならそれはわたしにとって当たり前のことだからだ。「ほら、わかったら早くデザート」もうこんな話題はたくさんだ、という顔でアーチャーを促す。承知した、とまるでウェイターのように慇懃に礼をしたが、顔を上げるとまたわたしの目をしっかりと見つめてこう言った。
「依久乃。ここでひとつ忠告を。次から嘘をつく時は、視線の動きに気をつけた方がいい」
嘘というのがどれを言っているのか本気でわからず、なんのこと、と聞き返してしまう。
「先程の『好きな相手』の話だ」
「な、別にうそじゃな」
「うそじゃない、無自覚だった」
「なん、」
「なんで、わかるの」
わたしの言葉は、丁寧にアーチャーに奪われた。悔しいことに、言いたいことは一言一句ぴったり一致していた。
「それなりに多くの時間を共にしているのでな」
そう言ったアーチャーの表情は、すべてお見通しだとでも言いたげだった。しかし、本当に、誓って、嘘のつもりはなかったのだ。それなのに何故か言い返せなかった。先程までのモヤモヤとした苛立ちがまた湧き上がり、今度はそれに悔しさの熱が加わる。ああもう、むかつく、むかつく、むかつく。キッチンに向かうアーチャーの背中に、「うっさいばか」と投げつけるように呟く。
「図星を突かれると雑になるのもな。他人は君が不可解だから嫌うのかもしれないが、私から見ればこれほどわかりやすい人間もいないと思うぞ」
わざわざ振り返ってそう言われたので、バカにされたような気分になり、わたしは椅子の上で膝を抱え込み顔を伏せた。アーチャーのばか。ばか。ほんと、ばか。
パタパタという足音が数歩したあと、シンクに食器を置く音と、水が流れる音がした。続いて冷蔵庫が開いて閉まる音。しばらくすると、こぽこぽとお湯が沸騰する音が聞こえた。紅茶のためのお湯だろう。淹れている間に洗い物を終わらせる算段のようだ。手際がいいな。主婦かよ。沈黙に耐えかねてちらりとアーチャーの方を見やると、カウンター越しに目が合いそうになったので、慌てて逸らした。
しばらくして、アーチャーが木製のトレーを持ってこちらに戻ってきた。トレーからデザートとティーセットがゆっくりと下ろされ、テーブルに並べられていく。白いココットに入れられた手作りのカスタードプリンにはバニラビーンズが入っていた。その本格的な出来に、私より仕事してるくせにいつ仕込んでるのかとツッコミを入れたくなったが、口をきくのが癪で、言葉を出すのをぐっと堪える。並べ終えたアーチャーは、すかさずバーナーを取り出し、カスタードプリンの表面を炙っていく。カスタードプリンではなくクレームブリュレか。そういえば、先日わたしからリクエストしたのを思い出した。表面が泡立ちながら焦げていく様子を見ると思わず心が躍り、香ばしい香りに絆されそうになったが、その仕上がりに満足気なアーチャーの顔を見たら、またむしゃくしゃが甦ってきたので、黙った。アーチャーはわたしのことなど気にも留めてない様子でテキパキとバーナーを片付け、紅茶をカップに注ぎ、それが終わるとポットにコゼーをかぶせ席に着いた。
「待たせたな。リクエストのクレームブリュレだ。紅茶はいつも通りノンカフェインのものを用意した」
甘い香りと立ち上る湯気に思わず喉を鳴らす。端的に言って、とても美味しそうだ。というかアーチャーが作る料理が美味しくなかった事なんて、ない。しかし、わたしはモヤモヤが消えず、膝を抱えたまま唇を尖らせ、本能的な欲求とは裏腹に拒絶の言葉を述べた。
「……いらない。アーチャーなんかきらい」
「そう拗ねてばかりいると、君のぶんも食べてしまうぞ」
アーチャーがわたしの方まで手を伸ばし、たった今出来上がったばかりのクレームブリュレの表面を、デザートスプーンでカツカツと軽くつついた。
「それ割ったらマジで絶交だから」
そう間髪入れずに言い放ち、スプーンをスプーンで跳ねのける。膝を解いてスプーンを取り跳ね除けるまでおよそ0.5秒。できたてのクレームブリュレのパリパリを割る事は食べるものの特権である。それを奪うことはなんぴとたりとも許さない。なめるなよ、食べ物の恨みは怖いんだぞ。アーチャーのふざけた言にむしゃくしゃしていた心の天秤は、クレームブリュレのパリパリを割られかけた事で一気に傾いた。アーチャーはわたしの様子を見て目を丸くしたあと、軽く吹き出した。
「それは困るな。しかし、君はいらないと言ったではないか」
「それとこれとは別、っていうかやっぱ食べる」
「ああ、わかった。すまない、調子に乗った私が悪かった」
「アーチャーのぶんくれたら許す」
「それくらいならお安い御用だ」
冗談のつもりだったのにアーチャーはなんの疑問もなく、それどころか笑顔で即答してきた。そのせいで先程まで燻っていた怒りがピークに達したらしく、わたしは思わず声を荒らげてしまった。
「ばか!! ほんとそういうとこ癪に障る!」
「何故だ! 寄越せと言ったのは君だろう」
「それがわからない奴だから怒ってるの!!」
誰に対しても優しい上に、本来得るべき報酬すらあっさり手放してしまう。自分を顧みないその危うさ。慇懃で皮肉屋なくせに、肝心な皮肉が全然通じない。ああもう、本当に腹が立つ。アーチャーは本気で「何故怒らせたのかわからない」という顔をしたので、わたしはもう怒りを通り越して呆れ、ため息をついた。
おいしい料理を作ってくれた相手からデザートまで奪うほどわたしは薄情じゃないし、仮にそうであったとしてもそれはきみが食べる権利を主張するべきものなんだよ。
「はあ……ほら、いいから一緒に食べよ」
「前言撤回、やはり君は不可解だ」
「こんなの不可解でもなんでもないし」
クレームブリュレの表面をスプーンの先で割ると、パリッと軽い音がして、ほどよいもったり感のカスタード部分が顔を出した。口に含むと、パリパリふわふわの楽しい食感とともに、卵と生クリームの風味がふわっと広がる。その甘さのおかげか、さっきまでのイライラが徐々におさまっていった。食べているあいだ一言も交わさなかったけれど、アーチャーが先程の怒りについて考え込んでいる様子を見ていると、少しだけ溜飲が下がった。
クレームブリュレを完食し、紅茶を飲むとすっかり冷静になった。カップに口をつけながら、なんとなく、ここまでの流れを反芻してみる。もし仮に、万が一、アーチャーがわたしに対して本気だったとしたら、わたしは結構酷いことを言ったのかもしれない。そう思うと申し訳なさに少し胸が痛んだ。その想いに応えられないことにも。けれど、やっぱり無理なものは無理なのだから、ここでハッキリ言っておくべき、それでこの関係がこじれるとしても、それが誠意だと思う。
ほどよい温度になった紅茶を一口、ごくりと飲み込み、気合いを入れようと深呼吸をしてから切り出した。
「……あのさ、一応ちゃんと言っとくね。仮にアーチャーがわたしのこと好きだとしても、わたしはアーチャーの想いに応えられない」
ゆっくりと、丁寧に、できるだけ冷たくならないように言葉を置く。しかし、わたしの深刻さをよそに、アーチャーは何食わぬ顔で返してきた。
「ん? 私がいつ『君が好きだ』と言った?」
「えっ、だって、さっきそんな空気出して……」
「『どうすれば本気になる』とは聞いたが『君が好き』とは一言も言っていないぞ」
「好きな子は、って聞いたら『君だ』みたいなこと言ったじゃん」
「……あれは例え話だ」
わたしは一気に脱力した。なんだかもう疲れ果てて怒る気すら起きない。気を揉んだ時間を返して欲しい、そう思った。少しだけ胸の奥が痛むような気がするのはきっと気のせいだろう。
「……あっ、そ。じゃあどうでもいいや。安心した。そりゃ、アーチャーがわたしに本気になることなんてないよね」
「どうだろうな。感情がどうなるかなどは、私にも、君にもわからないことだ」
この期に及んでまだそういうことを言うとか、本気で勘弁して欲しい。わたしはすかさず否定する。
「それはないよ。わたし、アーチャーとの関係こじれてご飯食べられなくなる方が嫌だから」
そう、アーチャーには本気にならないけど、このご飯の味は離れ難いのだ。できればこの心地よいポジションを確保していたい。たとえずるいと言われようとも。
「……そうか。君にそう思ってもらえているなら、私はそれで満足だ」
「なら、ある意味では私たち両思いなのかな?」
「……捉えようによっては、そうかもしれないな」
アーチャーはなにか言いたげだったが、これ以上は言っても無駄と悟っているような、けれどどこか安心したような、そんな顔をしていた。含みのある物言いの真意が気になったが、これ以上なにか聞いて話をこじらせてもいけない。そう思いつつ、コゼーを外しティーカップに二杯目を注いでいると、アーチャーが再び口を開いた。
「で、まだ味の感想をもらっていないのだが」
アーチャーはこちらの空になったココットに視線を向けている。わたしは思わぬ言葉に虚をつかれ、紅茶を注ぐ手元が狂いそうになったがなんとか踏みとどまった。いつも、美味しいのは当然と言わんばかりに、わざわざ味の感想を求めることなどしないのに。
「え、普通においしくて食べちゃった。ごめんね。でも、わたしが何も言わない時は美味しい時だって、アーチャー知ってるじゃん」
「それは、そうだが。それでも先程は、言ってくれたじゃないか。……オレだってたまには、言葉が欲しい時くらいある」
気のせいか、いつもどこか気取っているような男が、この時は珍しく拗ねているように見えた。これはもしかして、アーチャーが、見返り求めたということだろうか。
「……何を笑っている!?」
自覚はなかったが、どうやら口角が上がっていたようだ。自分のためには何も求めない男の、あまりにささやかな要求に、わたしは何故かすこぶる嬉しくなってしまったらしい。ならば、精一杯の賞賛の言葉を贈るとしよう。
「ううん、なんでもない。美味しかった! とーっても美味しかったよ!! ……セックスのテクが気になるくらいには」
調子に乗って付け足した余計な一言に、アーチャーは顔を覆い、最低だな、と言った。しかしその言葉に呆れはあれど、嫌悪感はなかった。むしろ少しだけ嬉しそうに聞こえたのは気のせいではないかもしれない。
「でもなんやかんや、そんなわたしのこと嫌いじゃないんでしょ」
「……ああ、実に不本意ながらな」
アーチャーはため息とともに笑った。わたしもまた釣られて笑い、改めて思いを告げる。
「好きだよ、アーチャー。友達としてだけど」
「ああ、私も君が好きだよ。……友達としてな」
笑顔でありながら、どこか互いを牽制するような視線を送り合う。そこにときめきなどというものはきっとないし、こんなものは恋とは呼べない。でも、わたしたちにはこれくらいの距離感がちょうどいいのだ。だってこれ以上近づくと、うまく息ができなくなってしまうから。
次の話→それが恋じゃなけりゃなんだってんだ
1/1ページ