その香は欲を誘う
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初めて煙草の味を知ったのは、キスだった。舌を入れられた瞬間の、明らかに身体に悪そうな鈍い苦味とピリリとした刺激。思わず眉をしかめ口を離した私を、ランサーは「お子ちゃまだな」と笑った。むくれて睨みつけたら、さらに笑われてしまった。吸えないのでなく吸わないだけ。子供扱いはしないでほしい。そう言うと今度は頭を撫でられてしまった。子供扱いは嫌だけど、頭を撫でられるのはそんなに嫌じゃなかった。
やがて二人の時間を重ねるうちに、煙草に対する抵抗は少しずつなくなっていった。街中で煙草の匂いを嗅ぐと、吸う時の横顔が過ぎったり、コンビニでレジ奥の陳列棚にいつも吸う銘柄のパッケージをそれとなく探してしまったり、雑貨屋でおしゃれな喫煙グッズを見かけるとどんなものが好みなのかと考えるようになってしまった。
それでも、キスの時に流れ込む味だけは、どうにも好きになれなかった。
*
大きめの窓の向こうで紫煙が揺れている。
家具に匂いがつくのは嫌なので、私の部屋にいるときだけはベランダに出てほしいと付き合い始めに約束したのだ。古いアパートなので、しっかり閉め切ったはずのサッシからは少しだけ匂いが漏れていた。
数分後、揺れる紫煙が空中に消え、彼がこちらに戻ってきた。先程まで微かだった匂いが、棘のある鋭いものに変わる。
ソファに座ったまま「おかえり」と出迎えると、ランサーはおう、と短く答え、以前私が贈った革製の携帯灰皿と、煙草と百円ライターをテーブルに置き、ソファに腰掛けた。至近距離で鼻腔を刺激され、身体が密かに熱を帯びる。
ランサーとの時間は、常に煙草の残り香と共にあった。手を繋ぐ時、抱きすくめられた時、そしてキスをする時。褥で情を交わしている最中も、汗から微かに香った。そうして甘い記憶に刻まれた煙草の匂いは、私にとって情欲を唆る芳香となっていた。
……けれど、ランサーには、その事実を悟られたくなかった。
はやる気持ちをごまかそうと、テーブルに置かれた箱を手に取った。マールボロ、通称赤マル。パッケージの特徴的な柄は、女性の唇をイメージしたデザインだと、どこかで読んだ。吸っている本人はそんな事は知らないだろうし気にもしないんだろうけど。両手で蓋を開けると、中身はもう残り少なかった。おもむろに一本取り出し、観察してみる。フィルター部分にはオレンジ色の紙が巻かれている。葉っぱの詰まった白い部分は、嗅ぎなれたものとはまた違った匂いがした。
「何してんだ。お前も吸いてぇのか?」
私の様子を疑問に思ったのか、ランサーが声をかけた。空気が揺れ、残り香にまた心がかき乱される。別にそういうわけじゃないよ。緩みそうになる頬を強ばらせ、必死に平静を装う。
「でも今、すげえ物欲しそうにしてるぜ」
予想外の、しかし図星を突く言葉に身体が固まる。心臓の音が、外に聞こえそうなほどうるさく鳴り出した。バレるような素振りは見せていないはずなのに、どうして。「なんのこと?」絞り出した声は、明らかに震えている。
「オレが煙草を吸うといっつもそういう顔するよなァ」
見透かしたような笑みを浮かべ、ランサーは顔を覗き込んできた。もしかして、隠せていると思っていたのは私だけだったのか。ランサーの言うことが本当だとしたら、ずっと顔に出ていたことになる。頬が一瞬で熱を帯びる。息が苦しくて、言葉が出ない。羞恥に耐えられず、きゅっと唇を引き結び顔を逸らすも、ふいに頬に手を添えられ、肩がびくりと震えた。指先からは濃い煙の匂いがして、それが煙草を持っていた手であることに気付く。私がその匂いに疼く事を、わかっていてやっているのだろうか。だとしたら、たちが悪いにも程がある。
煙草の箱はもう片方の手で回収され、テーブルに置かれた。その手は腰に回され、ぐっと身体を寄せられる。頬に添えた手でおとがいをあげられ、視線がかち合う。じっと見据えられ、目を逸らせない。
親指の腹で唇を撫でながら、ランサーは私の欲望を言葉にした。
「お前が欲しいのは、こっちだろ」
もう逃げ場はなかった。観念して、ゆっくり頷くと、すかさず唇が重ねられた。思わずぎゅっと目を閉じる。
はじめは、互いの唇の感触を確かめるように、優しく合わせるだけのキス。そして唇を合わせたままゆっくりと開かれ、隙間からぬるりと滑り込むように舌が入ってきた。同時に、苦手な煙の味が流れ込んでくる、と思わず身構えたが、今日は不思議とそれが嫌じゃない。それどころか、もっと欲しいと感じてしまっている。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ふいに唇を離されてしまった。二人の間に唾液が糸を引く。途切れて唇の端に垂れた糸を、ぺろりと舐め取られた。湿った唇から急速に熱が失われ、物足りなさで胸がいっぱいになる。
「やらしい顔だ」
そう言って、ランサーは満足げに目を細める。恥ずかしくてたまらないのに、口に残った味と匂いに身体の奥が疼いてしまう。
「……うるさい」
悔しくて、今度はこちらから口付ける。その瞬間、私の中でなにかのスイッチが入った。相手の口内に満ちるそれを味わうように舌を絡め、歯茎の裏や頬の粘膜をていねいに舐め取る。まるで舌が独立した意思を持っているかのようだった。そして、二枚の舌の間で混ざり合ったねっとりとした唾液を口に含み、そのまま小さく喉を鳴らして飲み込むと、欲しかった味を身体に取り込んだ満足感が広がった。
認めたくはないけれど、私は確かにこれを、美味しい、と感じている。
「今日は積極的だな。煙草の味、苦手じゃなかったか?」
「……そのはず、なんだけど」
こんなことは初めてで、自分でも戸惑っている。けれどやっぱりほんの少しの間すら惜しくなり、また口付ける。あんなにも不味いと感じた味が、今はもっと欲しくてたまらない。歯止めが、効かない。
(ああ、これは……いつの間にか、癖になっていたみたいだ)
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