52. 想願
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慶応三年 師走。
時間とは時に残酷に過ぎ去るものである。
小鞠が消え、平助が羅刹となってからまた時間が流れた。
時代は今、大きく唸りをあげている。日本という国が変わろうとしている。
火蓋を切ることになる“鳥羽伏見の戦い”まで、もう一月もきっていた。
天満屋事件を越え、再び屯所に戻ることになった斎藤は結局のところ茜凪とゆっくり話す時間もなく隊務に追われ続けていた。
顔をきちんと合わせてやれなかったのは、旭に言われたことが満更でもないと思っていたのも理由である。
柄にもなく、内心どこかで動揺している自分がいたからだ。
どう考えても茜凪は人間ではないし、鬼ともまた違う種族だ。
烏丸や狛神も新選組と既に懇意にしていて、信頼関係も生まれていたけれど、これから始まる人間同士の戦いに彼らを巻き込んでいくのかと言えばそれは頷きたくないのが本音だ。
鬼という存在が、薩摩や長州には絡んでいる。だからといって、幕府側が羅刹以外の人外……――戦闘を好む、この好戦的な生き物を巻き込んでいいかといえば違うのだ。
もしこのまま、斎藤の傍に茜凪がいたとして。烏丸や狛神が傍にいたとして。これから起きるであろう戦いに、彼女たちを傍においたまま挑むのか。
もし。もし、羅刹や変若水がまた用いられる場面を彼女が目の前にして、手を出さずにいてくれる保証はどこにあるというのか。
きっと、ない。
茜凪は新選組のために、その手で人間を殺めてしまうのではないだろうか。
人ではなく、新選組の者でもないのに。
斎藤は不動堂村から移った、屯所として構えられている伏見奉行所まで来て空を見上げる。
曇天は再び雪を生み出しそうだった。
「……」
心の奥底で抱えた恋心も何もかも、顔にも言葉にも出さずにしまいこんだ。
しまいこんだものの中には、今置かれた状況に対する悩みも含まれた。
誰にも、何も言うことなく。斎藤はただただ時を流した。
本当ならば、心を聞いてやるべきだ。支えてやるべきだ。
だって、薄情じゃないか。
あれだけ傍に居て、己は支えてもらったくせに。
茜凪が小鞠のことで晴れない雲を心に抱えたままであるにも関わらず、彼女は斎藤に頼る素振りも時間もねだってはこなかった。
本当なら、斎藤から寄り添ってやるべきだと思った。
旭の言葉が、ここまで自身を動揺させると思っていなかった。
どうすることが、彼女や妖にとって一番いいことなのだろう。
このまま機会を逃せば、どちらに転んでもいい結果は生まれることはない。
どうにか、しなければ。
「斎藤さん」
物思いにふけりながら、感情を表に出さずに見上げた空。真横から声が届くまでほんの僅か。
知った女の声で呼ばれたので首を傾ければ、そこにいたのはどこかの料亭の主だった。
「菖蒲……」
「すみません。お仕事中にお声をかけてしまって」
厚手に着物に身を包んだ彼女は、それでもどこか寒そうだった。
珍しく一人で出歩いているようだったが、気付いた背後には見守るように物陰から水無月の視線が飛んでくる。
恐らく、菖蒲自身は水無月が来ていることに気付いていないだろう。
「今、少しだけお時間いいですか?」
「……」
どこか強気な睨みが飛んでくる。
彼女もまた美しいと思えるほどの美女だが、何とも思わなかったのは心に決めた女がいたからなのか。
斎藤は視線を逸らすことなく悩ましげに刹那考え、頷いた。
「手短に頼む」
「斎藤さんの返答次第です」
何を言われるのか、わかっていた気がする。
関わったのが仇だったのか。宿命か、運命か。
巡り出した関係は、彼らを苦しめる枷になった。
第五十二片
想願
「北見 旭?」
「はい」
天満屋に理由がわからぬまま暫く預けられていた茜凪が祇園に戻ってきた。
依然、空元気という言葉がよく似合う状態だったけれど、それでも再会した烏丸と狛神に茜凪は自分が遭遇した出来事を説明していた。
「旭さんが……どうして」
「狛神、お前知り合いなのかよ?」
旭のことは、避けては通れない道だと思った。
だからこそ、あったことをそのままに告げてやれば烏丸はやはり旭の存在を知らなかったようだ。
対して返答を返してきたのは、狛神であり、旭と面識があるような面持ちで言葉を発する。
「親しくはねぇし、会ったのも数回だがな。藍人の姉さんだ」
「え!?」
「はい。旭は男装していますが女であり、彼女は藍人の実の姉にあたる方です」
「嘘だろ……」
烏丸に至っては、藍人に姉がいたことすら知らなかったようだ。旭の存在を知り、驚愕の表情を隠せない彼はそのままに話は進んでいく。
「旭は、左手で剣を振るえる妖を探していました」
「それが茜凪の兄さん……環那さんが仕えた術を発動する条件だからか?」
「そこまで詳しくはわかりませんが……。兄さんが使った術が必要になる上で、左利きじゃないと使いこなせないという風に聞こえました」
「なんだよ、お前の兄貴って一みたいに左利きだったのかよ?」
話についていけなくなりつつある烏丸が、茜凪に素朴な疑問を投げつけた。
しかし、記憶の片隅に残る藍人から聞いていた兄の話に“左利き”なんて文字は出てこなかった。出てきたのであれば、斎藤と初めて対面した時に何かしら縁を感じている気がする。
「いえ……そんな話、聞いた覚えはありませんが……」
だが、旭は確実に環那のことを話していた。“左手で剣を振るえる者”として認識していたということ。
これは、己の兄について何かしら調べなければならないのかもしれない。
「もし、旭さんが対立している敵が小鞠にとどめをさした相手なら、旭さんから情報を聞き出せるかもしれないな」
「それに、俺たちが知ってることも教えてやれる。一石二鳥だが……」
「問題は、彼女がこちらに協力を求めているのか、そして協力してくれるのかどうかということです」
左手で剣を振るえる者がいないと判明した時点で彼女は退く様子を見せていた。
“欲しがるな”と言った彼女の一言は正論であり、答えは導き出すものだということも理解できる。
だが……。
「……」
―――気持ちが、前に向かない。
何が鍵になるのかわからない感覚。鍵穴に合う鍵を探しても探しても見つからず、探すことを諦めている自分がいるのではないかと恐ろしくなった茜凪。
どうにかしたい。だが、どうにかするためにどうすればいいのか、方法がわからなかった。
死人が戻ってくるわけではないのだから。
「とりあえず、旭って奴について爛に文出して聞いてみる」
烏丸はその点、きちんと前を見据えていた。
腰をあげ、自室にある紙と筆のもとにすぐに向かおうをしている。
重たい腰をあげることが出来なかったのは、茜凪だけだ。
「なら、俺様もとりあえず探してみるか。つい最近接触してきたばっかなら案外まだ京にいるかもしれないしな」
「おう。ならそっちは頼んだぜ、狛神」
「はいはい。めんどくせーけど頼まれてやるよ」
「茜凪は……もし調べられるようなら、お前の兄貴について確認しといてくれるか?」
烏丸が投げかけた言葉は、優しさが滲んでいた。
口調もいつもと変わらないが、身を案じているのが声でわかる。つまり、それほど今の自分の弱さが見抜かれているということ。
心配ないよ。
言葉を声としてきっちり返してやれる自信がなかったから、笑顔をつくって貼り付けた。
「わかりました」
眉が下がり、きっと困ったような笑顔になっただろう。
狛神と烏丸の視線が一瞬だけ切なげに泳いだのを見逃さない。失敗したと悟る。
だけど、二人とも微かに笑みを返して何も言わずに部屋を出て行った。
「……私、ばかですね」
自分が情けなくてぽろりと零れた。
菖蒲にも色々と誤魔化すのが限界だろう。居候としてしばらくここにいた小鞠が戻らない時点で何かを察しているはずだ。
「……ほんと、弱くて……――」
いやになる。
声にならずに消えた最後は、誰の耳にも届かなかった。