39. 嚆矢
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その日、不穏な空気を感じていた妖はたった一人だけだったかもしれない。
「畜生……ッ!」
上洛するための街道。
その上空をとんでもない速度で翔る妖がいることに、人々は気付くはずもない。
「普通にしてたら気付くはずなんてねぇ……ッ、クソ!間に合ってくれ……!」
陽が沈む。
沈みかける前に飛び立った彼、どれだけの速さで飛んだとしても京に辿り着くのは黎明の刻になるだろう。
心から願った。何も起きていないことを。
最悪な結末だけを避けるために、漆黒の妖―――烏丸 凛は飛び続けたのだ。
それからほどなくした陽も完全に沈んだ時刻。
重丸を連れていた狛神は、彼を家に帰そうと道を歩いていたのだが……。
「……やっぱり、おら、ねえちゃんと話したい」
「あ?」
「やっぱり、話さなあかん……。これ以上、待たせてたらだめや!ちゃんと聞いてほしいんや!」
「お、おいちょっと待てよ」
「狛神のにいちゃん、送ってくれてありがとな!でもおら、これから茜凪ねえちゃんに会いに行く!」
祇園から更に北にあるはずの重丸の家を目指していたのだけれど、唐突に振り返り、駈け出した重丸。
どうやら、吹っ切れたようで、拙い言葉であったとしても茜凪に事の事実を告げ、全ての答えを求めようとしているようだ。
「おい、今から行くのかよ……!?あいつ、今日は新選組の屯所に出向いてるから、きっと遅くまで戻ってこないぞ!」
「ええんよ!おら、新選組の屯所まで行くから!」
「嘘だろ、今何時だと思ってんだよ……」
たったかと駆けていく重丸。
それだけを残して角を曲がり、消えて行った彼に狛神は溜息をついた。
「ったく……。俺様は茜凪や烏丸の馬鹿と違って、そこまで京の立地に詳しくねえんだぞ」
不動堂村の屯所と言われても、行ったこともないし、位置がどこにあるのかもいまいち掴めないままでいた。
重丸は京生まれの京育ちであろうから、迷うこともないのかもしれないけれど。
だからといって、あの元服前の男児をこんな夜遅くに一人で出歩かせるわけにもいかない。
盛大な溜息をついてから、角を曲がった重丸を追うためにゆっくり歩き出した狛神だったが……。
「だいたいお前、新選組の屯所は西本願寺から不動堂村に移動してるの知ってるのか?どこだかわかってんのかよ」
角を曲がった先にいると思っていた。
曲がった先の一本道に、人間で少年の走る速度なら見えなくなるはずもないと思っていたし、正直それもありえない。
だが、狛神が話しかけながら目を向けた先に重丸の姿はなかった。
「はぁ!? なんでいねえんだアイツ……!」
京の地理には疎いと言い出したばかりなのに、京で生まれ育った裏道をよく知る少年は既に消えていたのだ。
狛神は信じられないという顔を残して、もう一度ガクリと肩を落とす。
根気よく探すというよりかは、彼の匂いを妖としての体質で追うのがいいだろうと思い至る。
「ったくめんどくせえ……。たまにこうして人助けするとろくなことが起きやしねえな」
善心から話を聞いてやると言えば、彼は頑なに抱えた何かを話すことを拒んだ。
恐らく、茜凪でなければ言えないことなのだろう。
結局、河原で泣きべそかいていた重丸に甘味をご馳走してやり、陽が完全にくれたので送ってやれば最後の最後でこれだ。
日頃の狛神の行いが悪いのかもしれない。
「ふざけんなよな。俺は一応、神と一緒に祀られる妖だぞ……」
狛神家は神と共に祀られる妖であることは間違いない。
妖の姿になれば、色々な力を使えるし、人の姿でいるときも妖術などは使える。しかし、彼の一番の力は“人の願いを叶えること”が出来る能力だった。
とはいっても、その能力は狛神の妖として今生で一度しか使えないものである。現に彼は、誰の願いも叶えたことがないままであった。
人間に対して呆れという感情も持ち合わせている彼からしてみれば当然かもしれない。
だからこそ、彼にとって新選組のような人間は一目置く理由になっていたのだ。
「面倒極まりないが、それとなく屯所になりそうな場所らへんまで行ってみるか……」
歩き出した狛神も四半時後、感じることになる。
異変を携えた何かが、この京に訪れたことを……――。
第三十九片
嚆矢
「それじゃあ、また近いうちに寄らせていただきます」
「あぁ。気を付けて帰れよ」
「はい」
狛神と重丸が市中で別れてから半刻後ほどのことだった。
茜凪が沖田と話しているうちに、屯所で開かれていた話し合いはひと段落して、土方の手が空いたらしい。
土方に斎藤の傍にいることが出来たこの数か月の礼を告げ、茜凪が斎藤を支えるという与えられた命令もこれまた解除されたのだった。
土方と茜凪も色々話をしたけれど、特にこれといって何もなく日常会話に近かった。
斎藤の傍にいる間だって、彼と話をしたり甘味を食べたりしたけれど、彼の隊務の話や誰と斬った張ったをしたのかなんて聞いていない。
隊務に関係している事柄は茜凪の耳まで届いていなかったからだ。
土方は最後まで誠実な瞳で礼を告げてくれていたけれど、お礼が言いたかったのは茜凪の方だ。
こうして平和とはいえない時代であれど、彼の傍で平穏な時間を過ごせたのは、土方の命令があったからだと思っている。
―――いうならば、これが平和ボケだったのだろう。
だからこそ、この時は不穏なものに気付くことが出来なかった。
土方に玄関口で別れを告げて、茜凪は着物姿のまま祇園へと帰ろうと足を伸ばしていた。
三件目になるこの不動堂村の屯所はとても立派で、広々としている。
門前までいくのも一苦労だ。
完全に陽が暮れて、時刻としては皆が床に入り始める頃だ。
土方は送りをつけると言っていたけれど、断ったのは茜凪だった。
自分は妖であるし、人でない分襲われたとしてもなんとかなる。
油断は禁物だと自覚しているけれどこうして政が揺れ動く中、どうしても送り人をつけるために新選組の人手を割きたくなかったのだ。
しかし。
「帰るのか」
門前まで来て、門をくぐったところで背後から話しかけられた。
振り返れば、木刀をいくつか手に持った斎藤が佇んでいる。
「はじめ君……」
「もう遅い。送ろう」
「いえ、大丈夫です……!」
見つかってしまった時点で、こう言ってくれるとは思っていた。
だからこそ、彼に会わずに帰ろうとしていたのに。
「女の一人歩きは危険だ」
「さっき副長にもそう言われて、全力で断ってきたところなんです!」
「副長の判断は正しい。何かあってからでは遅い」
「もう……。副長至上主義だし、変なとこ頑固だから会わないようにしてたのに」
「何か言ったか」
「いえ、何も!」
とりあえず話題を逸らさなければと思い至り、彼の手に収められていた木刀を見つめる。
「稽古ですか?」
「あぁ。総司や左之、新八とな」
彼も久しぶりの仲間の手合せで、どことなく嬉しかったんだろう。
漂う空気から、張り詰めていた厳しさは感じられなかった。
「なら、そのまま湯に浸かられた方がいいです。汗かいたままですと風邪ひきますし」
「いや、風呂よりもあんたを送り届けることの方が重要だ」
「大丈夫です。ここからそんなに距離もありませんし」
「茜凪、あんたはまたそうして己のことを―――」
「はじめくん」
今日は引き下がるもんか。
決めていたといってもいい顔で、木刀を抱えたままの斎藤の顔を覗きこんだ。
一瞬だけたじろいだ彼の瞳を見つめてから、事実を伝える。
「少し、疲れた顔してますよ」
「……っ」
「私は大丈夫です。だから、どうか休んでください」
「しかし……」
「大きな隊務を終えたあとです。少しくらい気を休めて、また次の任務に備えるべきなのが新選組幹部としての務めではないでしょうか?」
「…」
「女を送り届ける暇なんてありませんよ」
彼の気持ちだけで十分嬉しかったからこそ、きつい言葉で告げてやった。
実際、斎藤は疲労を感じているようにも見える。
それは、成すべきことを成せたという緊張感からの解放があるからかもしれない。
本当なら折れてくれない彼だけど、今日は勝利を確信した。
随分と長い長い間を置いたあと、彼は細い息を吐いて頷いた。
「……………わかった。ならば今日は送っていけぬ」
「はい。構いません」
「だが、俺が行けぬのなら他の者を―――」
そこまで言いかけて、斎藤の声はとどまった。
声を留めるしかなかったというのが正しい。
唇に触れた細い指先。
それ以上は何も言わずに休め、と言われているような気がした。
「ありがとうございます」
「……っ、茜凪」
「また、近いうちに寄らせていただきます」
最後の笑顔は、本当に最後の笑顔になったかもしれない。
素直に微笑んでくれた彼女は今後……姿を消すことになる。
―――長く遠い戦と距離が、二人を離れ離れにする。
一礼をして、茜凪はそのまま屯所を出た。
唇に残った感覚を追いながら、斎藤は目を伏せ頬を赤らめる。
余裕なんてない。
告げてはならない想いを飼い慣らして、武士としての道を全うする。
いつか想いを告げる日がきたとしても、それは今ではない。
斎藤は目を閉じて一呼吸おいてから、屯所の中へと姿を消したのだった……。