16. 謝意
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「じゃあ、よろしくお願いします」
「あいよ。確かに預かったぜ、お嬢さん」
「はい」
二条城に近い街道には、優れた店が軒を連ねている。
炎の気配と匂い、そして中に佇む職人である男はとても暑そうにしていた。六月の下旬になり、梅雨も真っ盛り。じめじめとした湿気に、この熱気では男が汗をかくのも当然である。
一つ礼を告げて男に頭をさげてから、店に訪れていた茜凪は祇園に帰ろうとしていた。
「だがよぉ、お嬢さん。これ、本当にいいのか……?」
「?」
「だって、この間まで必死になってたじゃねぇか……。それをなんでまた急に……」
これから施すことは、元に戻すことは出来ないんだぞ。と念を押すように職人の男は告げた。また首を滴る汗が下っていく。手拭で首筋の辺りをゴシゴシと拭いた男を見つめながら、茜凪はくるりと振り返った。反動で、贈り物として彼女に授けられた簪が、揺れ、鳴る。
「はい。お願いします」
シャラン、と音を立てたそれ。そして耳元ではついている鈴がチリンとも響き、音同士が共鳴した。
そんな奏に魅了されてか、店主の話題が一度逸れた。
「そうか。にしてもその簪、上等もんだなぁ?この間はしてなかったじゃねぇか」
よく行く団子屋、墨や紙縒りを扱う店、隣家の人。いろんな人に言われてきた言葉。
簪はつい先日まで頭についていなかったし、茜凪もここまで元気ではなかった。思い返して嬉しくなり、番傘を広げてから茜凪は笑う。
「はいっ」
雨が降る町へと繰り出しても、彼女の心だけは晴れていた。
「大好きな人からいただきました」
第十六片
謝意
高台寺月真院。
この六月から、新選組を離隊した御陵衛士が屯所として身を置くようになった場所。その一角で、男は空を見上げていた。
「雨か……」
自身が決めた規則にのっとり行われる稽古を終え、汗を拭ったところで格子の向こう側に見えた景色。どうやら集中をしていたようで、辺りの騒音がすべて聞こえていなかった。ようやく耳に響き始めた音に顔をあげ、雨季なのだから仕方ないと思いながら小さく吐き出してやった。
梅雨が明けるのも、もう近いかもしれない。そうすると次にやってくるのは照り付ける太陽の日差しと、風のない真夏の京。既に何度か経験はしているものの、慣れるのと耐えられるのは別物であり、今年も覚悟をしなければと思う。
止みそうにない雨を見つめてから、男……――斎藤は、この後の予定を確認した。
今日は伊東との食事もない、隊務も終え、明日は非番。
そうなるともはや外へと出て酒を食らうしかないという思考になっている己を叱咤してやったものの、事実それ以外に怪しまれず時間を潰す方法がなく、斎藤は傘を片手に外へと出ることにしたのであった――。
――向かう酒屋で毎度、島原にするか、祇園にするかは迷っていた。
しかし島原に出くわし、新選組の者と接触してしまうのも面倒であり、結局向かう場所は島原から多少離れた祇園になるのも常だ。
祇園の門をくぐり、まだ雨の中、目指すべき場所と言えばやはり菖蒲の料亭になりつつあることも否定する気にならなかった。
まだ辿りつくには程遠いが、着実に茜凪がいるであろう場所へと足を進めていたその時だった。
「わ……ッ!?」
「…っ」
民家と民家の間の角から誰かが急いで飛び出てくる。ここは裏道のはずなので、好んで使うものは少ないだろう。
ましてこんな雨の日に傘を差して歩いて通れる道としては、なかなか好かれるものではない。
油断し切ってはいなかったので、現れた影を敵かと思い、柄に手をかけたのも事実。しかし、きちんと時間を置いて脳が認識したのはよく知る顔だった。
「茜凪……っ」
「はっ、はじめくん……!?」
こんなところから出てきたことも珍しかったが、声と表情も珍しかった。彼女にしてはとても焦っていて、声が裏返った。思わず凝視してしまい、動きを止めれば気まずそうに彼女がバッと視線を逸らす。
「ぐ、ぐ偶然ですね。あはは」
「そう……だな」
「は、はじめくんどこに行くのですか?」
妙に噛み、尚且つ白々しい。
「俺はあんたらの所で夕餉を摂るつもりだったのだが……」
「え」
「出かけるのか?」
まただ。一瞬顔が引きつった。いつもなら、どちらかというと喜んでくれるというのに。
「そ、うですね……?」
「……?」
「は、はじめくん今日は、その……うちの店はやめた方がいいですよ!」
「何故だ」
「えっと……、ほら、雨のせいで魚が美味しくないって……」
「別に魚を好んで食べに行っているわけではない」
「お、お肉も上等なのが、とっ取れなかったって聞きましたし……」
「肉だけを食すと体に悪い。野菜を中心とした献立であれば文句はない」
「や、野菜は旬じゃないものだったなぁ~確かっ!」
「ならば豆腐があればそれでいい」
「と、豆腐は売り切れました!」
「晩酌を楽しもうと思ってもいる」
「お酒はうちで取り扱ってませんっ」
「いい加減にしろ」
「う……」
必死なる茜凪の抵抗も無駄であり、斎藤がピシャリと言い放つ。茜凪の顔からは、斎藤とこんなところで遭遇することが予想外だったらしく、焦りと困惑しか見えなかった。
何かを隠している。
「じゃ、じゃあ私が先に行って、みんなにはじめくんが来ることを伝えておきますね!」
「何故先にいく必要がある」
「ほ、ほら準備とかありますし!」
「待たされることを苦とは感じん。行ってからで構わぬ」
「え、えっと……」
やはり茜凪は間者に向かない。これだけボロが出ていることを見れば、逆に先刻の戦いで新選組に接触した時、完璧に妖の秘密や目的を最後の最後まで隠し通したことに感動してしまう。それだけ思いがあったということなのだろうが。
「茜凪」
「うぅ……」
「何故、それほど動揺している。俺が料亭に向かってはならぬ理由があるのか」
「……」
雨粒が足元に落ちるのをゆっくり見つめていた。茜凪は斎藤と顔を合わせることなく、じっと動きを止めている。
どれほど経っただろう。雨が少しだけ弱まった刹那、茜凪がスゥ…と顔をあげ、翡翠の瞳を一瞬だけ斎藤に向けた。それと同時。
「逃げるが勝ちです!」
「な、待てッ」