14. 番傘
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慶応三年 六月 雨季。
ついに梅雨入りをした京は、じめじめとした湿気に包まれ毎日を過ごしていた。
「雨……」
雨が降ったり、止んだりの毎日。こうなると番傘が常に必要なように感じられたが、荷物を考えるとそうもいかない者もいるのだ。
シャラシャラと飾り同士が重なり鳴る音を耳元で聞きながら、茜凪は料亭の別宅に備え付けられた窓から外を眺めていた。
「はじめくん……」
呼んだ名前は、茜凪がとても慕っている男の名前だった。出てきた声は切なく、甘く聞こえただろう。
本人は無自覚だろうが、己が抱いている感情がただの好意ではないことには緩やかにだが気づき始めていた。
「今日、寄ってくれるって言ってましたけど……」
左耳の上あたりについた簪を受け取った日から、十日程経過していた。
毎日、大事に使われている簪は今日も音を鳴らして茜凪の存在を知らせている。
飾りの一つに鈴がついているので、歩けば必ず音が鳴った。それを聞いていた烏丸と狛神が“斎藤に飼われた狐”だなんて言っていたので、一発ずつ殴っておいた。
自分自身のことはいい、斎藤をバカにされたような言い方が気に食わなかったのだ。
それから数日経ったある日。
平助が今、京を離れているため、夕餉を共にとる者がいない斎藤。どうせならということで彼は料亭にしばらく立ち寄ることを決めてくれていた。それを伝えに来てくれたのだったが、生憎その時は重丸と壬生寺で稽古をつけて、顔を合わせることができなかった。
貰った簪は、心から宝物のように扱っていた。本当ならば、使わずに飾っておきたいのだけれど、それじゃあ簪の意味を持たない。細心の注意を払って、毎日身に着けていた。
自然と思ったのは、お返しがしたいということ。しかし、彼は物欲に乏しいのは気付いていたし、思いつくものは片っ端から、彼の誕生日に渡してしまった。
何か違う、もっと別のもの。心が籠った、茜凪にしか渡せないものを。彼を守れるようなものを。
考えや願いとは裏腹に、考えれば考えるほど“あげたいもの”と“あげられるもの”が噛みあわない。頭をひねらせつつ数日過ごしたのがここ最近の茜凪の日課だった。
そして今日。降り出した雨を見つめて、彼が料亭に夕餉を摂りに来ると約束していたのを思い返していた。
「……」
時刻は間もなく深夜と言っても過言ではない時刻。少し遅めの夕餉になるとは聞いていたけれど、なんだか心配になってきた。
窓をもう一度見返せば、雨脚は強まる一方。
「遅いってことは、高台寺にはいらっしゃらないんだろうな……」
約束の刻限は決めていなかったけれど、いつもふらっと現れる時刻に彼は来なかった。つまり隊務が立て込んでいるということ。出先であるならば、傘を持っていないんだろうな……と思えば、茜凪の体は勝手に動き出していた。
「あ、おい、茜凪」
別宅の部屋から出てきた茜凪に気付いて、烏丸が廊下で声をかける。
「どこ行くんだよ?こんな遅くに」
「ちょっとそこまで」
「え?」
別宅の玄関で、使い慣れた紫紺の番傘と、黒い無地の番傘を手にする。小窓から除いて、料亭に客が誰もいないことを確認してから茜凪は雨の道へと恐れなく飛び出したのだった。
「あぁ……そっか、一が来るって言ってたな」
烏丸が頭の片隅で数日前、自分が聞いた約束を思い返し、納得する。
夜も更けていて、天候も悪い。ついて行ってやろうかと思ったが、それは野暮ではないかと烏丸なりに考えて……玄関先で帰りを待つことにしてやった。
「雨の中の逢引きか」
くすりと笑んだそれは、幸せそうであったことを茜凪は知る由もない。
第十四片
番傘
外に出て驚いたのは思いの外、ザァザァ降りの雨が強いということ。嵐とまでは言わないけれど、これはこれで足元が危ない。泥濘に取られないようにして、茜凪は慎重に高台寺の付近まで足を進めていた。
「……」
――この雨の中、普通に探したって見つからないし、高台寺に足を踏み入れる気はない。
伊東と面識という面識はないけれど、仮にも屯所に身を置いていたのだ。高台寺に立ち入って、新選組と関わりがあったことを突き詰められ、斎藤に迷惑をかけるのだけは避けたかった。
もしかしたら、この雨で外に出るのを断念したのかもしれない。そう信じたかったけれど、斎藤の性格ならば、来れなくなったことを連絡してくる気もする。
だから。
茜凪は高台寺に一番近い大通りで、傘を差して佇んだ。一度、瞳を伏せて――瞼をあげる。
開かされた色は翡翠色から茜色へと変わり、彼女を取り巻く空気が変わる。普段頼ることはしない直観能力を使い、彼の居場所を追えるところまで追ってみた。
影法師との戦い以来、呪いは受けているものの妖力は開花していくばかり。溢れ出すほどの力を制圧できる精神力が備わっていたのが有り難かったが、本当に化物なのだと自覚させれるのだった
しばらくして、高台寺の方角に彼の気配がないことに気付く。つまり、まだ帰っていないということ。
東西南北見渡して、気配があったのは祇園から西の方角だった。
歩みを進めて、なんとか察知していける気配を辿れば、随分先にある一軒の茶屋の軒下に人影が見えた。
「はじめくん……っ」
力を解いて、目の色を元に戻し、着物に泥が跳ねない程度の駆け足で近付いた。
雲に隠れた月を探すような横顔は、何の感情も移っていなかった。儚く見えるのは確かなのだけれど、悲しいや、諦めは見えない。強いて言うなら、どことなく寂しそうだった。
「―――……」
近付きつつ、見惚れていたら自然と足が止まってしまった。
ただ雨を見つめているだけなのに。月の光を探しているように見えた横顔。暗い世界を彷徨っているようで。
「はじめくん……」
「っ、茜凪……」
チリンと鳴った鈴の音と、かけられた声に斎藤が視線を寄越した。目が合った刹那、茜凪は救われた気がしていた。蒼い瞳に宿ったのが、寂しさに負けない意志の強い光だったからである。
「どうした……?何故あんたがここにいる」
近付いて、同じ茶屋の下に来れば、斎藤は濡れていないことが確認できた。雨が降ってきたから、ここで雨宿りをしていたのだろう。
「傘を届けに……」
「俺に……?」
「はい……」
きょとん、とした顔。それもそうだろう、よく場所がわかったな、と誰もが思うこと。だけど、斎藤は何も聞かないでいてくれた。
「今日、店に来る約束をしていたと、烏丸から聞いて……」
「……」
「来るならいつもと同じくらいの刻限に来ると思っていました。でも、はじめくんが現れなかったので、隊務が長引いているんだと……」
「……」
「雨はさっき降り出したので、濡れてしまってないかと……思って」
斎藤は微かに驚いていた。しかし、間を置いて息を吐き、視線を逸らしながら口角を少し上げたのだ。
「あんたは俺をよく見ているな」