016. Belladonna
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ねっとりとした何かが意識の淵を通り過ぎていく。
掴みかけようとしたけれど、どうにも上手くいかなくてやり過ごした。
嗅覚が懐かしい香りを捕える。あぁ、落ち着く。まるで包み込んでもらっているような気分。
五感のうち、嗅覚が先に動くことなんてなかなかないだろうねとどこかで自分が笑っていた。
それから、どれくらい経っただろうか。
チクタクチクタクと進む針の音が響いてきた。
目を開けたのに、飛び込んでくる色が黒ということは恐らく夜なんだろうと思う。
色を捉えて、瞬きをしたところでやっと気付けた。自身は今、目を覚ましたか。と。
何度か瞼が仲良くし、ぱちぱちと開閉させてみた。
視界に映る天井は白く、上から何か吊るされていた。自身の趣味で集めたくるくると回転するオブジェ。太陽や星、月がうまくバランスを取りながら回り続けているのが見える。それは時を流す神のように。手を休めることはない。
まだ覚束ない視線で間取りを確認する。
今眠っているベッド。サイドにはチェスト。奥にクローゼット。ベッドに沿うようにある大きな窓。カーテンは開け放たれたままで、月光漂う怪しげな光が見えた。
首だけ動かして左に見えた窓。今度は右に動かせば、奥に廊下へ繋がる扉が見える。
そう、この世界の出口。
「レガー……ロ」
ぽつりと出た声がやけに掠れて響く。
腹立たしい。また弱くなってしまったみたいでなんだか納得できなかった。
首を色々な角度に動かしながら部屋を見渡し、み度思い返す。間違いない、ここはファミリーの館にある、ユエ自身の部屋である。
オリビオンに戻るはずだったのに、あの禁書の契約者たち……スペールやルッスに遅れを取り、そしてシャンデリア相手に戦った後、意識を手放したということか。
ほとほと嫌気がさしてしまう。
ベッドサイドに普段はその位置にない椅子があった。
そこにかけられたのは血に染まったままの団服。腹部の箇所には銃痕があり、そこから血痕も伺える。
団服の中にインナーは着ていたけれど、今はそれだけなのだろうかと疑問が過ぎった。
利き手である右腕を動かし、かけられた布団に隙間をつくる。見えたのは白いワイシャツで、血の痕はついていなかった。
「ルカ……?」
ルカが手当てしてくれたのだろうか。
確かに、最後……あの場にルカがいたのは見えた気がするけれど。いや、はたまたジョーリィかもしれない。
どちらにしてもいいが、とにかくユエは体を動かそうと起き上がることにした。
「っ~~~……!!!!」
声にならない痛み。喘ぐかと思うくらいの激痛。
鉛が腹を貫通したのだ。当たり前だが、銃弾とはこんなに痛いものなのかと初めて知った。
同時に、この痛みに包まれて死んだ友人を思い返すと胸が切なくなる。
なんとか声を上げず、静かに上半身起き上がることに成功したが、暗闇の孤独な部屋でユエは痛みに耐え、次の動きをするのに数分の時間を要してしまった。
大丈夫。誰の気配もない。オリビオンに帰るのならば、今がチャンスだ。幸い時刻は午前3時半。こんな真夜中に誰かが見回りをしているはずもない。
ゆっくりと深呼吸をし、声がなるべく漏れないようにしながら呼気を荒げつつ足をベッドから床へと下ろす。
足を動かすだけでも右の腹部に痛みが走る。寸でも動けば電撃が打たれるマシーンでも装着している気分だ。
そこでもうひとつの痛みに気付く。腹部に比べたらどうってことないのだが、右膝にも弾痕があることに。
「あの時……」
セラの放った弾。ルッスが透過し、総督邸でユエは2発の弾丸を受け止めることになる。
ひとつは腹部を貫通し、ひとつは右膝を傷付けるものだった。
このまま歩いて館を抜けられるかどうかも不安だが、行かなければならない。
爪先だけをつけていた床。しっかりと踏みしめるために立ち上がり、前へと歩き出す。
ひたり、ひたりと音がして冷たく足音が響いていく。誰もいない、この部屋に。
チェストに手をつきながら、ゆっくりと踏み出したユエは思わず腹部に手を当てて立ち止まった。数歩歩いただけでもう脂汗が滲むほどの鋭い感覚。痛みに耐える感覚と、別でユエは手をついたチェストに埃がたまっていないことから”誰かが気にして掃除をしてくれていた”ことを悟る。
だから思ったんだ。今すぐここから立ち去らなければいけない。やっぱり甘えちゃいけない。
いつか本当に帰還する日のために。
椅子にかけてあった血だらけのナポレオンデザインの団服を荒々しく手にして、ユエはもう一歩前へと踏み出した。
扉まであと数歩というところまでやってくれば、チェストはもう手が届かない。
体を壁に預け、ドアノブに手を伸ばし、懸命に触れられるようにする。
ドアノブに触れたとしても先はまだ長い。館の廊下は続くし、まずドアノブを回したとて、体をその外まで持っていかなければいけないのだ。
どこで、誰が見ているかなんてわかったもんじゃない。早く、早く出ていかなければ。
ここはユエが恋い焦がれたレガーロなのに、まるでどこかの牢から脱獄を試みる死刑囚の気分だ。
「はやく……」
ドアノブに手が届いた。
体をあと一歩前へ出せば、ドアを開けることが成立する。
先程よりも大きく体を動かしたからか、ふわり、とユエの体を包む匂いが芳醇に香った。これは、ユエが持つ匂いではない。
そして、この匂いを誰が持っているか。ユエはよく知っていた。
「……」
いや、部屋には誰もいないはずだ。
あのいつも感じられる気配はない。そこでハッと我に返る。
見下ろした胸部。身を包む白のワイシャツが大きいことがわかれば、持ち主が誰であるかなど即座に検討がついた。
「……っ」
だめだ。早く、戻らなければ。オリビオンに。
捕まったら最後だ。きっとここから抜け出せない。
そう、脱獄がばれればその場で殺されるだろう。間違いなく。
ドアノブを引き寄せて、ガチャリと音を立てた扉の先へ。
見慣れているけれど、懐かしいと思うあの廊下へ。
飛び出して消えるはずだったのに……。
それは叶わなかった。
―――ガンッ!と痛々しい主張。
引こうとしたドアが押し返され、廊下の姿が見えなくなる。
まるで背中の向こう側から手が伸びてきて、ドアを固定するように押しているみたいだ。
そしてそれは”みたい”で終わらないことは予測できた。しかし、いつからいたというのか。気配も何も感じられなかったし、目を覚ましてから幾分が時間も経過しているというのに。
「その傷でどこへ行く気だ」
「……ッ」
声が聞こえてようやく気配を感じ取る。
ワイシャツの匂いに隠されていたとも言えるが、それは言い訳にしかならない。
大アルカナの能力は、大アルカナには効きにくいという。だからこそユエにはデビトがどこに隠れたって探し切れる自信と目があった。
だが、8ヶ月という月日が経過した今。いや、彼からすれば2年と半年になるそうだ。それだけ時間が経った今、ユエはデビトの気配に気付くことすらできなくなっていた。
ガラスが割れるような音。
紫の音を放ち、ぴったりと寄り添って背後に現れた男はワイシャツの持ち主でもある……デビトだった。
「答えろよ。ユエ」
「……」
「たった一歩、前に進むだけで激痛に汗滲ませてるくせに。どこへ向かう気だ」
蹴りのひとつ、仕掛ければ形勢逆転で逃げ切れるだろうかと考える。
が、読めていたらしくデビトは左手でドアを押さえ込み、右手はわざと傷の上を通るように左腰をがっつりホールドしてきた。敢えて力を込めているのか、傷に彼の腕が触れ、痛みに呼吸が止まってしまう。
「っ……」
「上から触れただけでコレだ。この怪我で動き回る方がオカシイだろうが」
「……、放して」
「断る」
「放して……ッ」
痛みにうまく動けず、暴れれば間違いなく傷跡の刺激は避けられない。
震える脚、反発する心。顔を見たら終わると思い必死に目を瞑って視線を床に落としてやった。
「あと少しでも処置が遅れてたら命に影響があったとか言われたらなァ。流石に退けねェだろ」
「そんなことないし……ッ!実際に今こうして立ってるじゃん!何も問題ないってば……!」
「誰のおかげだと思ってんだ」
「うるさいな……!とにかく行かせて!放してッ!」
一体いつからここにいたのかはわからなかった。
きっと最初からいてくれて、ユエが目を覚ました時にどう動くのかを見張っていたのかもしれない。
ユエが強情に諦めないものだから、デビトの左手がユエの二の腕を掴み暴れるのを抑え込む。
痛みより、デビトから逃げること優先したユエは傷にデビトの腕が当たるのも気にせずに辛そうな声をしながら彼を突き放そうとした。
「だいたい挨拶なしに出ていけると思ってたなら大間違いだゼ。お前の考えることは読めてンだよ」
「助けてくれたことには感謝してる!でもあたしは今やらなきゃいけないことがあるの!1分1秒も無駄にできない!」
「ならきちんと傷を治してから動いた方が最善だろーが」
「デビトには関係ないよッ!!」
もう痛いというのは傷の話だったか。
心の話だったか覚えていない。
形振り構わず振り切って、デビトの腕から抜け出したユエはドアに背中を預けて振り返る。
見たら後戻りなんてできないとわかっていたはずなのに。
目尻から飛び散った雫が勢いに負けて宙を舞う。
その先、男が複雑そうな顔して立っていた。
「ーーーー」
伸びた髪。新調された眼帯もスーツも、8ヶ月前……2年半前とはぜんぜん違う。
なのに向けてくれる視線の色も熱さも、想いもまるで変わってなくて。
会えて嬉しいって気持ちと、触れていいのかって気持ち。怪我をしているのに動こうとしている愚かさへの憤り。デビトの中でそんな気持ちが渦巻いた顔をしているのがみえた。真っ暗闇なのに、やけにハッキリと見えたんだ。
ガンっ、と背中にドアが当たる。
黄金色した瞳に射抜かれて、ユエは息を呑んだ。
会いたくて、会えなかった人が目の前にいる。
だけど会いたくなかった人でもある。会っちゃいけない人でもある。
すぐに視線を逸らせばよかったのに、絡まって、囚われて、動けなくて。視線を外すのが随分を遅れてしまった。
「関係なくねェ」
「……っ」
「違うのか?」
細々と聞こえた。
寂しげに揺れてた。聞きたかった声はそんなものじゃないとユエの心が悲鳴をあげる。
「お前にとっては、違うのか……?」
弾き返してから、距離が生まれた。
手は伸ばせば届く距離だが、デビトがその一歩を埋めてこない。
もちろん、ユエもドアに寄りかかったまま踏み出すことはなかった。
「ユエ」
切なげに声を呼ばれる。
悲しそうな顔をしているのかと思う。違う、と視線だけでも渡したかったからユエは迷いながらも顔をあげた。
静かな動きで対峙すれば、デビトの顔が見えてくる。
だけど、予測した悲しそうな顔ではない。
強さを見せてくれる、男らしい彼がいたんだ。
ユエを信じて、自身の心を信じてる、気持ちを信じてるデビトの姿がそこにある。
「……ーー」
ぼろぼろと内側から虚勢が崩れていく。
眉間に寄った眉、下がる紅色。一体どこからやり直せばこのダンジョンが攻略できるだろうかと考えた。
……最初からやり直しても、このラスボスに勝てる気がしない。
「だって……」
だから口から素直な気持ち。
言い訳。
ぽろぽろとユエの声で、落ちていく。
「だって……怖いんだもん……」