【Sequel Day】 とある日の悪魔と司祭長
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「ふんふんふ~ん♪」
キッチンからとてもいい香りがする。
覚醒する寸の感覚。あぁ、これは夢なのかもしれないと悟った。
まだ眠たい、まだ目を覚ましたくない。そう暗示をかけて、己に目を覚ますなと言い聞かせる。
ジュウジュウと聞こえる何かが炒められる音、香ばしいそれは食欲をそそるようだった。
寝返りを打って、枕を抱える。まだ、まだもう少し、ここにいたい。
「おにーちゃーん!」
まだ。
まだ。
「もぉ……そろそろ起きないと会社遅刻するだろうに」
想像できる。テキパキと済ませた朝食の準備、お昼のためのお弁当。
カラフルな入れ物と黒を基調にした入れ物が並んでいるところを。
「おにーちゃーん!起きてるー!?」
どこか遠く、愛しい者の声がした。
そのあとから、こちらに近づいてくる足音。あぁ、夢が覚めてしまう。
覚めるな。頼むから、覚めないでほしい。
もう少しだけ、もう少しだけここに……――。
「ほぉぉおら!起きろぉぉぉ!」
「――ぅわわ……っ」
「朝だぞー!ご飯できてるぞー!」
遠慮なしに入ってきた存在が、おれが抱きかかえていた布団を捲りあげ、投げ、奪ってしまう。
――夢は、覚めてしまった。
いや、これは夢だろうか。
どちらなのか、検討もつかぬまま……。
Sepuel Day Ⅶ
「今日のお弁当は、ハンバーグが入ってるよ!朝からちゃんとこねて作ったんだっ」
「それは楽しみだなー。いつもありがとね、エトワール」
シックな手拭いが宙をパサリと舞う。
途端に、力を加えられてテーブルに広げられたそれは、おれの弁当箱を包んでいく。
手際よく、見慣れた姿に変わったものを仕事用の鞄とは別に手提げにいれた。同じくして、彼女もスクールバックとは別の小さな可愛らしい手提げにそれを入れる。
「お兄ちゃん、そろそろ料理くらいできるようにならないと行き倒れるよ?」
「やろうと思えばできるよ~?ただ、お兄ちゃんはエトワールのご飯が食べたいんだよー」
「まったくもう……。いつまでも甘えてたらだめだよ?私、あと数日でこの家出るんだから」
「――わかってるよ~」
よく似合っているセーラー服を着ている姿をみるのも、もう少しだけ。
白い線が入った襟を靡かせ、紺色のソックスを履いた細い脚がローファーへと指先をいれていく。
そんな彼女の後ろ姿を見ながら、俺はコートを着た。同じようにして革靴に足を突っ込んでマフラーを巻いた。
春先、まだまだ寒い季節。
目の前の愛おしい存在は、もうすぐ高校を卒業する。
卒業式である明日は、有給を使っておれも会社を休むことにした。
上司である金髪碧眼の男は、娘の卒業式に出席できなかったことを後悔しているらしく、潔く申請を通してくれたのは本当にありがたい。理解ある男であり、仕事もできる者を上に持ったおかげでおれは愛しい愛しい妹の卒業式に臨むことができる。
「あまり遅くならないように帰ってくるんだよー」
「わかってるよ。お兄ちゃんもあんまり残業しないで帰ってきてね」
「もちろんだよー。家でエトワールが待ってるって思ったら、仕事なんてすぐ終わるから~」
「あははっ、終わるんじゃなくて蹴っ飛ばしちゃうの間違えだった!なんて言わないでね?」
「そんなこと言わないよ~」
いつもの踏切、交差点。
こちら側も、あちら側も坂道が悠々と聳えており、険しい人生を物語っているようなこの場所が、おれとエトワールの別れ道だった。
いつもここで、学校へ向かうエトワールと、会社に向かうおれとは背を向けて離れる。
こうして毎日、毎日、彼女と歩く道が大切で愛おしくて仕方なかった。
――これがなくなると思うと、やはり……切ない。他県の受験など力付くでやめさせてやればよかったとも思う。
だけど、愛しいエトワールのことを思えば。彼女の願う道をおれが潰してしまうなんて許せなくて。
「それじゃあ、お兄ちゃん。行ってきます!」
「いってらっしゃい」
大きく手を振った彼女。
赤いスカーフ、青の襟、白い線、ベージュのセーター。
あまり丈をあげるなと注意し続けたスカートの丈は、結局三年間長くなることはなかった。
色白くのびる脚も、綺麗な髪も。
全てが、おれが守っていく存在であると語る。
「エトワール……」
早くに親を亡くしてから、おれは彼女を男で1人で、兄として父として育ててきた。
過保護と言われても、守るべき彼女を何かと天秤にかけることなどできない。すべてにおいて、何より最優先にしてきた……宝物。
年が離れていたからこそ、できたことも、できなかったこともあるけれど。
彼女が高校を卒業する今、毎日が幸せだったと言えることが、おれは、おれ自身が誇らしかった。
――気付いたら、そこでぐにゃり、と視界が歪んだ。
焦ることも、嘆くこともせずに、おれはそんな世界をただ眺めていた。
次にきちんと視界が開けて、気が付いた時はおれは学校の体育館にいた。
「右の者は、高校過程を卒業したことを証明する」
「おめでとう!」
「おめでとー!」
蕾だったはずの桜は、いつのまにか色付いて咲いていた。そして舞っていた。
おれの愛しい存在を、祝福するように。
「……――」
笑顔まみれで、でもどこか寂しそうで、頬に雫を伝わせて笑っている彼女を、おれはただただ美しいと思った。
たくさんの友達と、たくさんの思い出を共有した校舎から離れる時。
おれにもそんな思いを抱いた日があったことを思い返してみて、笑ってしまう。
だってあの時も、エトワールのことを考えていたのだから。
「……おめでとう」
いつ、どこにいても。どんな時代にあったとしても、おれはエトワールのことを考えて動いているよ。
自分でも、呆れてしまうくらいに。
「卒業おめでとう。エトワール」
呟きが彼女に届いたのだろうか。
卒業証書の筒を抱えたまま、彼女がこちらに振り返る。
綺麗な髪の間から覗く瞳がまだ濡れていて、いますぐ拭ってあげたかった。
友達に何か言葉をかけてから、こちらに駆けてくる愛しい存在に、おれはいつかを思い出す。
幼い日、こうしておれの姿をみつけては駆けてきたエトワール。
しゃがんでやらなきゃ抱き着くことすらできなかったあの子が、こうして少女になり、美しく人生を謳歌していく。そんな姿を近くで見ていられることが嬉しい。
どうしてだか、幼い日と同じくしゃがんでやりたくなって前屈みになる。
笑顔で走ってくる彼女を、思いっきり抱きしめたかった。
よく、ここまで大きくなったね。立派になったね。おめでとう。ありがとう。
伝えたくて仕方なかった。
だけど。
「―――……っ」
また、ぐにゃりと視界が歪む。
手が触れる、寸のところで彼女が笑顔で駆けてくる姿は……なくなった。
パチパチとスパークする視界。見えるものがあるのに、抽象的すぎて目で捕えられないというべきか。
ぐにゃぐにゃしたものを描く世界に、おれは瞳を強く閉じた。
ハッ、として目を開けた時。それはもう既に次のシーンであった。
いつもの踏切、坂に囲まれた場所。
今日は同じ方角へ歩いていく。
「忘れ物はなーい?」
「ないよ」
「喉は乾いてなーい?」
「ううん、大丈夫」
「ちゃんと風邪薬は持ったー?」
「お兄ちゃん、このやり取りもう3回目」
「だってお兄ちゃんは心配なんだよー。エトワール、体調すぐ崩すだろー?」
「それは小さいときの話でしょ?私、もう18になったんだよ?」
白いマフラー。薄い色したピンクのPコート。ショートパンツにニーハイで飾られた脚は、さっきから道行く男を振り返らせる。
その度に、睨みを利かせていれば彼らはおれを兄ではなく彼氏だと勘違いしているに違いない。
「私のことより、お兄ちゃんが自炊できなくて倒れないかが心配だよ」
「だったら、これからもおれと一緒にくらせばいいじゃーん」
「おにいちゃん、今更そんなこと言わないでよ……」
はぁ……とつかれた溜息。これで7回目。
わかってる。わかってるよ。寂しいから、こうして困らせる発言を何度もしてしまっていることも。
優しい君が強く突き放すことができなくて、今更ながらに迷い始めていることも。
そしておれが、エトワールが決めたことならばと思っていた決意を撤回してしまうんじゃないかというところまできていることも。
大きくまとめられた荷物。彼女はこれから、おれの部屋を出て、他県にある大学へ夢を叶えるために進学する。
希望に満ちた未来へ進むために、ここを巣立とうとしている。
脱ぎ捨てた制服、纏ったものは大人びて見えて、先日の卒業式とは別人だった。
「もう、ここでいい」
大きな荷物だから、とホームまで持っていくつもりだった。
けれど、愛しい存在は改札の前でその願いに断りを入れた。
「どーして?」
「ついてこられても……きっと切なくなるだけ」
「いやだよー。お兄ちゃんこうみえて寂しがり屋なんだから、最後の最後まで一緒に行かせてよ~?」
「こうみえて、じゃなくても寂しがり屋だし。最後って言ったら新居の部屋までついてきちゃうでしょ」
「ばれた~?」
既におれと目を合わせることをやめたエトワール。
俯いた顔が次に上がる時、彼女はスマートフォンを翳しておれの許可なく改札を潜り抜けてしまった。
ひっかかるだろう、と思っていた荷物は器用にスルりと通り抜けて、彼女はおれの手を――離れた。
「エトワール……っ」
「もう平気。これ以上一緒にいても、私が寂しくなるだけだよ」
「そんな「お兄ちゃん、寂しがり屋だけど図太いから、案外心配してないよ」
「どうしてそんなこと言う……――」
「―――」
ザァァと、風の音が響く。
そこから先の言葉は、まったく聞こえなかった。
ただただ、形のいい唇が言葉を描くだけ。
“わたしがいなくなった世界でも、前をみて生きてくれるって信じてるから”