桔梗に並ぶ蓮の夢
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―――深淵に立った感覚がした。
痛みによる覚醒を促す意識と休息を要する意識の狭間で、なまえは顔をしかめた。
やがて淵から一歩前に踏み出そうと手足に力を入れたが、まだ自由は手に入れられなかった。
思い通りにいかない苦しさに、眉間が寄り添うのも感じたがどうにもできない。
苦しい。
どうしたものかと考えながら、辺りを見回す。
真っ白な世界。一つの濁りもない世界。
色を持つ者はなまえのみであり、世界の一点になっていた。
視覚の次は聴覚が目覚める。
ちりん、と控えめだが、間違いなく聞き慣れた音がした。
普段から髪に挿した簪の飾りの音だ。
これは、心を寄せる男からもらったものであり、命よりもなまえにとっては重いものだった。
ただひとつの、なまえと彼が一緒にいた―――思い出以外の―――証だった。
あぁ、風に揺れて簪の鈴が鳴ったんだ。
なまえは思い、指先でそれに触れる。
あまり触って絡まったりしたら大変だと思いながらも、触れた指先を離すことはできなかった。
「なまえ」
次いで懐かしい声、愛おしい音程が響く。
真っ白の世界で振り返り、なまえは声の持ち主……―――斎藤がいるであろう方角を向いた。
刹那、一面は色を取り戻す。
「どうした。具合でも悪いのか」
「―――はじめくん……?」
慶応三年 初夏。
嵐山に菖蒲の友人へ料理を届けた日から間もない頃。
非番の日、斎藤は偶然なまえと市中で出会い、共に目的地へ歩を進めていた。
なまえが突然ぼーっとし始めたのを見て、斎藤は歩みを止める。
聡明に見えつつもお転婆ななまえが大人しく鳴りを潜めているのが不思議だったようだ。
なまえは真っ白の世界から、突然初夏の京に移動してきた感覚であり、まだ正気を保つことができない。
一体なにが起きているのだろう?
さっきまでの世界はどこなのだろう。
視界をきょろきょろとさせてみるが、今瞳に映るのはよく知った京の町・祇園だ。
「近頃は暑さで体調を崩す者も多い。もし無理をしているのならば付き合う必要はなかろう」
「え……?」
―――あぁ、そういえば重丸のところへ行く途中だったと思い出す。
重丸のところへ剣の稽古に向かった烏丸が、午後からは川辺で避暑をしようと誘ってくれたのだ。
約束の時間を守るため、集合場所でもある鴨川の通りを歩いていた時。
刀剣商で熱心に刀をみていた斎藤を見かけ、彼にも一緒に行かないかと声をかけたのだ。
「重丸は残念がるだろうが、あんたが体調を崩すよりいいだろう」
斎藤は静かな声でなまえを諭すように告げてくる。
彼の出立ちは決して薄着ではないのに、見ているだけで涼しくなれそうな、蒼が似合う男だと心から思った。
冷気を放っているというか、凛としていて美しく、強さを魅せる……そんな風に感じる。
どうしてだろう。
目頭が熱くなって、涙が零れそうになった。
「なまえ……?」
必死に堪えて唇を噛み締めるなまえは、斎藤にとってさぞかし不思議に写っただろう。
なまえが、今にも泣きそうになるので、だんだんと斎藤の表情も焦りに変わっていく。
そんなに調子が悪いのか。
それとも重丸に会えないことが辛いのか。
または約束を反故にしてしまうことへの後悔なのか。
どれに当てはまるのかと考えながら、斎藤はまだ小さく声をかけながら首を傾げていた。
わたわたとした、困り顔の彼を見るのは久しぶりな気がした。
懐かしい。愛おしい。
なまえは思わず泣き笑い、一筋の雫を零しながら心で想う。
「(あぁ、私は……このお方のことが本当に好きなんだ)」
慌てふためく表情も、白と黒を象徴する後ろ姿も。
人とは違う右差しも、それを貫ける心持ちも。
すべてに憧れ、惹かれる。愛おしくてたまらない。
「なにゆえ今笑うのだ……。ど、どこが痛いか言ってくれなければ……」
まだ何か問い質してくる彼に、なまえはまた笑ってしまう。
あぁ、そうだ、この頃は平和だった。
ずっと続けばいいと思っていた。
彼の御陵衛士としての仕事が無事に終わって、近藤さんの命が守られて、彼はまた浅葱色をその身と心に掲げて京を護るんだと信じていた。
そして、なまえが帰る居場所は祇園の小料理屋であり続けると信じていた。
「俺は口がうまい方ではない……。あんたが察してほしいことも、理解できておらぬのかもしれん……」
「……」
「だが俺は……あんたの涙は……、できれば見たくはない」
溢れた涙の理由がわかる。
これは夢だ。
慶応三年 七月に起きた出来事を追想しているだけだ。
実際、この日この時―――なまえは涙を見せることはしなかった。
斎藤と一緒に烏丸と重丸のもとへ行き、剣の稽古をした。
避暑として柳の下で鴨川を眺めた。
他愛のない話をして、夕暮れ時に帰宅した。
別宅から、斎藤が御陵衛士として帰路につくのを見届けた。
平凡な、なんともない一日だった。
特に語らう思い出ではなかった。
だが、この夢が教えてくれる。
今、現在のなまえにとっては、この一日はとても幸福な時間であったと。
過ぎ去り、手放してから知る。
幸せとは、いつだってそうだ。何事もない日にこそ、幸せがあふれているもの。
「―――……っ、はじめくんは、蒼が似合いますね」
ようやく出て来た言葉は、斎藤にきちんと届いていた。
脈絡のない一言に、斎藤はなまえの涙を拭おうと取り出した手ぬぐいを思わず地に落としてしまう。
「は……?」
「蒼い炎みたいです」
地に落ちた手ぬぐいを拾い上げることも忘れ、なまえの顔を凝視する斎藤。
彼が瞬きを二つしたあとに、なまえは言葉を続けた。
「冷気みたいな、涼しい色の中に強さを持っていて、美しくて綺麗です」
「な……」
「でも涼しいだけじゃなくて、炎みたいに熱い志が通っていて、まるで蒼い炎なんです」
矛盾してますね。と付け足したけれど、それはあべこべだと言いたいわけではない。
地に落ちた手ぬぐいを拾い上げ、彼を見上げた。
先の言葉も悪い意味では伝わらなかったようで、斎藤も気分は害していないのだろう。
証拠に、目の前の男は視線を逸らして頬を僅かに染めていた。
「なにゆえ……」
「素敵だなって、いつでも、今でも思ってます」
―――夢の中でも。
声に出来なかった一言で、なまえの涙はまた零れた。
どうしてこんなに悲しいのか。
どうしてこんなに寂しいのか。
問いかけて、その度に出てくる答えはただひとつ。
「(貴方を、心からお慕いしています……)」
会いたい。
古い和歌に出てくる恋の詩に共感できるようになったのは最近だ。
身をも焦がすほどの恋情だと、離れてから肌で深く痛感する。
彼はなまえにとって憧れで、心を向ける存在だ。
風が吹く。
またちりん、と簪の音が鳴る。
斎藤の白い襟巻きが靡いた。
あと少しだけ、彼を視ていたい。傍にいたと感じたい。
夢よ覚めるな、と暗示をかけたなまえ。
願いの丈は強かったが、それでも次に奏でた斎藤の音は、なまえを覚醒へと一歩近づける。
「―――……あんたは紅がよく似合う」
息を、呑んだ。
逸らしていた視線がぶつかる。
蒼い目と翡翠色に隠された、茜色が。
「あか……ですか?」
紅い。
あかい。
伸びて来た斎藤の指先が、なまえの髪に触れる。
飾られた簪を。
それごと慈しむようになまえの髪を梳いていく。
繊細な細くて、でも男性の手。
左手にこめられた、想いごと受け止めた。
「この簪を贈るとき、そう思った。あんたに似合うのはこの色だろう、と」
「……」
「泥の中から芽を出し、天に向かって大輪を咲かせる―――紅い蓮だ」
「……っ」
「蓮のような生き様のなまえを、美しいと心から思う」
降下してきた指先が、何度も何度も涙を拭ってくれた。
一歩、踏み出したい。
その胸に飛び込んで行けたら、どれだけ幸せか。
夢だからこそ、許してくれないだろうか。
実現しなかったやりとりの中ですら、斎藤の一番近くへ寄り添いたい。
また一歩、覚醒へと近付く。
「なまえ」
見上げた斎藤は微笑んでいた。
年の瀬の別れが正解だったともいえるような、安らかな笑顔だった。
「あんたを想う。想い続ける」
「……っ」
「誰よりも強く、深く……なまえだけを」
反射的に瞼を閉じた刹那。
次に開いたときはもう真っ白な世界に辿り着く。
褒美の時間は終わりだと言われた気がした。
神々のいたずらか。
狐に化かされたか。
なまえは頬にあった最後の温度を忘れたくなかった。
「(思い返してほしいなど、思ったことなんてないのに……)」
もし、この夢が願望を表しているのだとしたら。
深層心理で斎藤から、愛の言葉を望んでいたのだとしたら。
なんて滑稽なのだろう。と、なまえは心で自嘲した。
甚だ身勝手な恋情。
憧れは、随分前に進化していたのかもしれない。
「―――……朝、ですか」
五感が完全に自由になる。
瞼を押し上げて見えたのは、森の中、断崖絶壁近くの光景。
東の空から朝陽が登る時間だった。
なまえはついに眠りから目覚めた。
今は―――現実は、慶応四年 二月だ。
烏丸の里で絶界戦争の調査をしている最中に、烏丸 凛の嘘が発覚。
狛神 琥珀を巻き込み、一戦交え終えたのは数日前のことだ。
狛神は軽症だったが、烏野は背中に大火傷を負い、なまえは生傷が絶えない中傷。
お互いに負傷しなまえの勝利に近い引き分けという結果に終わった大喧嘩だった。
その後、狛神が持って来てくれた情報をもとに、風間のもとを尋ねる道中。
獣化し消耗の激しい狛神を気遣い、野宿で休息をしたのが昨夜のことだと思い出す。
ふと、瞼がかさかさしているのに気づいて触れた。
どうやら涙を流したのは現だったらしい。
乾いた箇所から乾燥してきているのを感じて、ため息混じりに呼吸をする。
今は真冬だ。
寒さはなかなかに厳しい。
天候こそ崩れていないが、気温はいつ氷の結晶を生み出してもおかしくない。
おまけに風まで吹いて来て、ちりん。とまた簪の鈴を鳴らした。
「なまえ」
鈴の音と重なりながら、斎藤の声が聞こえた気がした。
芯のある安らかな低音で呼ばれる名前は、自分のものなのに特別に思える。
思わず朝陽から目を逸らし、振り返った。
いるはずなんて、ないのに。
「……っ」
そこには、未だ木の幹に体を預けて眠りについている烏丸と狛神がいるだけ。
人も妖も小動物の気配も感じない。
もちろん、名前を呼んでくれた斎藤の姿もなかった。
「はじめ、くん……」
ふと、大切にいつでも身につけていた簪に触れた。
縮緬と金の鈴でできていると聞いた紅い色の蓮は、とても高価なものらしい。
なまえにとっては高価かどうかが問題ではない。
斎藤がなまえのためにと、考えて贈ってくれた気持ちが何より嬉しくて、大切にしていた。
いつも肌身離さずにつけていたのは、この簪に似合う女でいたかったから。
僅かばかりの、見せびらかしたい気持ちもあったが。
だが何より強い動機になったのは、近くに、傍にいたいという気持ちが強かったから。
だが……―――。
「ずっと……」
なまえは、髪をほどき、簪を外す。
この先の行く道を先読み、肌身離さずにつけていて壊れるかもしれないと思ったからだ。
ずっと、いつまでも、変わらずに傍に置きたい。
大切にしていきたい、証。
たとえ行く道が違えて、今後一生、決して交わらないとしても。
あの一閃のような穏やかな日々の想いが、変わらずにここにあると信じたい。
「貴方の蒼に似合う、紅が似合うままの私でいるために」
―――戦い続ける。役目を果たす。
心に刻みつけた。
懐に簪を仕舞い込み、伸びたおかげで一つに結えるようになった髪を括る。
高いところで留れば、視界は良好だ。
「必ず」
―――そして、またこの簪を髪に飾られる日を取り戻す。
すべて終わった最後に、許されるのならば貴方に会いに行きたい。
どうして烏丸に頼み、願い、遠ざけたのか。
それが斎藤の心なのか。
心に添う答えなのか。
思い返して、もらえているのか。
―――いや。
そんなことはどうでもいい。
貴方に会えるならば、それだけで幸福だ。
さぁ、慶応四年 如月 十八番目の一日が始まる。
始まったばかりの西国への旅を思い、なまえは息を吸い込むのだった。
桔 梗 に 並 ぶ 蓮 の 夢
***
新年あけましておめでとうございます。
旧年は大変お世話になりました。
執筆を再開し、細々とまた更新しておりますが遊びに来てくださる方がいることがとても嬉しいです。
お久しぶりの短編に、はじめくんの誕生日SSを捧げます。
2021年の書き納め、2022年最初の更新です。
本編がのろのろ続いているので、シリアス展開のまま時代が進まずにどういった話で誕生日をお祝いするか迷いました。
14年と15年ははじめくんの視点でしたので、今回はなまえの視点から。
旧暦だと1月1日、現在の暦では2月18日生まれになる彼。
2022年内には完結を目指して、お仕事と両立させながら執筆して参ります!
今年も私なりのペースにはなりますが、遊びに来てくださると嬉しいです。
本年もよろしくお願いいたします。
2022.01.01 有輝
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