ひとつまみ
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「う、そ……でしょ……?」
メロスは激怒した。
という文が有名である小説が世の中には出回っている。誰しもが一度は読んだことがある小説だろう。
友人であるセリヌンティウスを人質として捕えられつつも、彼は己が正しいと信じた道を進みつつ、大切な人の一生に一度しかない記念の日を祝うため、死ぬ気で走り続ける話だ。
それはもう途中に出てくる川やら山賊やら、作者の鬼畜さには驚いたが、ハッピーエンドで終わる話だ。あれはあれで感動する。
だけど、今、私が冒頭で発した言葉はかの有名な小説の結末に驚いたわけではない。
目の前で、私の質量を示す数値が先週よりも3㎏増加していることに驚いたのだ。
「た、確かに飲み会続きだったし、夜食とったりしたけど……3㎏って……!」
メロスが走るよりも先に、私が走らなければならないと悟ったのは奇しくもこの時だった。
私――なまえは、都内の大学に通う成人女性である。
お酒を飲めるようになってから、既に2年が経過しており、大学生最後の時間を有意義に過ごしていた。
就活は夏前には終わっていたし、卒業もなんとかなりそう。やることは多いけれど、学生として、自分にとって一番自由な時間を使えるこの年を大切に過ごしたいと思っていた。
だからこそ、飲み会やサークル、レクリエーションには積極的に参加してきたつもりだ。
それが仇となったのもわかっている。友達が増えたのと同時に、大学に入学してからこの4年で少し体重も増えてしまったから。
驚くべきは今日の数値だ。1週間前まではこんな体重なかったのに、まさかこの数日で3㎏も吸収してしまっているなんて。
「どうしよう……先輩、帰ってくるのに……」
サァ……と同時に血の気が引く。
何よりもの心配事は、心から想っている彼氏が明日、帰国することだった。
私の彼氏・斎藤 一は、大手企業に就職した同じ大学の先輩。
現在は会社の短期留学制度を使って、技術的な知識を学びに海外にいる。会えないのは数か月だけだったが、もちろん寂しさは募るばかり。時間は有り余れど、大学生の私には海外にいる彼氏のもとに会いに行ける程金銭的な余裕はなかった。
――その彼氏、はじめ先輩が……明日、帰ってくる。
空港までお迎えに行って、そのあとは都内をぐるりと回りつつ、会えなかった時間を埋めあうつもり。
もちろん……その、夜の営みも……予定していたけれど、このままじゃ予定変更コースはまず間違いない。こんなお腹に肉つけたままの状態で、彼の前で裸になるなんてまず無理だ。無理、絶対無理、だったら切腹させてくれ。
「はじめ先輩……それじゃなくても細マッチョだからなぁ……」
長年の剣道で鍛えられた彼の体は細く小柄そうに見えて、意外とガッチリしている。
あの切れ長の瞳が伏せられて、あの体と体温に押し倒されて……。
って!私、冷静になるの!彼が勉強して知識を蓄えている間に私は脂肪を蓄えてたなんて笑えないんだから!
「と、とりあえず……この3㎏をなんとかしてからじゃないと……」
体を重ねるのは無理です。
自分に言い聞かせて、私はそっと食べようとしていた夕ご飯のからあげ弁当を冷蔵庫にしまうのでした……。
◇◆◇◆◇
「斎藤!おかえり!」
「おかえり、一君」
お昼過ぎに到着した飛行機は、無事にはじめ先輩を私のもとに返してくれた。
出迎えに一緒に来てくれた沖田先輩や、はじめ先輩の同僚の永倉さんがゲートから現れた彼の姿を見て大きく手を振っていた。
私もつい嬉しくてニコニコと笑ってしまったのだけれど、どうにもお腹周りの肉が気になる。3㎏増量したことが彼に立ち姿だけでバレてはいないだろうか。看破されるのではないか、愛想つかれて海外に戻るなんて言い出したらどうしよう。というより、外国の女性はスレンダーで魅力的だからとか言われたら言い返せる自信なんてない。え、どうしよう。
「あぁ。ただいま」
ついに目の前に現れた愛しい彼氏は、変わらず優しい笑みを向けてくれた。
視線を合わせるだけで嬉しくて、頬が緩んでしまう。
着痩せする服装を千鶴ちゃんと一緒に選んでもらったけれど、どうにか誤魔化せた……かな?
「おかえりなさい、先輩」
「あぁ」
目を合わせて、変わらない彼の反応。なんとかなったかも。
そのまま空港を散策して、仕事の話を沖田先輩と永倉さんとはじめ先輩はしていた。私は後ろからついて行くだけだったんだけれど、どうにも彼氏の立ち姿が気になって仕方ない。
また……少し、体が鍛えられているような気がした。
「ほら、なまえちゃんもしっかり食えよ!」
「そうそう。夏バテしないためにもね」
たまたま入ったカフェでお昼を兼ね、お茶することになり、男性陣はサンドイッチやコーヒーを頼んでいたけれど、私はどうも気が乗らなくて。
「そ、そうですね……。で、でもお腹すいてないんで……あんまり……」
サイドメニューにあるサラダだけ頼むことにしたのだった。
「……」
――空港でのひと時は長くも短くもなかった。
お茶をしたあとすぐ、永倉さんと沖田先輩とは別れた。
会社から留学後の休暇として、先輩は連休をいただいていた。
私もバイトがちょうど休みであり、結局のところ先輩の部屋に戻ってくることになる。
この部屋に来るのも久しぶりで、お揃いのマグカップや通いなれた部屋に飾られている私好みのぬいぐるみなどがとても目立つ。どう考えても彼の好みではないから。
送られてきた大量の荷物を片づけながら、先輩は“太った”という事実を隠している私に対して何かを見破ろうとしている視線を絶やさない。
「なまえ」
「な、なに……?」
いつ、そのことを切り出されるのか。別れ話にまで発展するのはどうしても留めなければならない。
どう言い訳をするべきか。いや、彼は言い訳するような人間を好むはずなんてないから、どっちにしても私の負けなのだ。太った私が悪い。豚になった私が悪い。食べたのも私、摂取したのも私なのだから。
「何故、そんなに怯えている」
「お、怯えてなんかないよ……?」
「……」
彼の観察眼がすごいことなんて、知っているんだから。怯えてしまうのも仕方ないでしょう!
まして触れられでもしたら、どれだけ太ったのかがわかってしまうし、とにかく3㎏落とすまでは、彼とは自然な距離を保たなければならない。
怪しくもなく、不自然でもない絶妙な距離を……――。
「なまえ―――」
なんて、考え事をしていたら彼の手が伸びてきた。
あぁ、やっぱりまた鍛えたんだね。締り具合が渡航する前よりよくなっているし、更にイケメンになった気がする。こんな人の彼女でいていいのだろうか。3㎏増量パーティーしてしまった私が。
包まれて、温もりに守られて、それを望んだいた私がいたのだけれど、パッと“メロスが激怒した”の冒頭から走れなまえなんてくだらないキャッチコピーが浮かんでくる。
「あぁあああ!そうだはじめ先輩!この間、近所の後輩にもらった美味しい紅茶があるんだけどね~!」
ぐるり!とわざとらしく、彼の腕をすり抜けて、鞄に入れてあった手土産の紅茶を取り出しに行く。
京都のお土産でもらった桜の紅茶。これがまた美味しいのだ。
……太ったことを隠して痩せようとしている己が、まさか誤魔化すためにまた食べ物を使うなんて、馬鹿げているとも同時に感じたのは嘘ではない。呆れてしまったくらいだ。
「……」
「桜の紅茶ですよ?珍しいですよねー!」
彼の部屋であるこの場所は、どこに何があるのかはだいたい熟知していた。
やかんに水をはり、手際よく沸騰させてからパックにお湯を注ぐ。
背後で交わされた腕の行き場に困りながらも、先輩が近付いてくるのが気配でわかった。
どうせ手短なところで距離を保つだろうと思っていた。だって、不用意に触れたり、ベタベタする彼氏ではなかったから。
なのに、気配はとどまることなく距離を詰めて、最終的に真後ろまでやってきた。
シンクと彼の胸板に挟まれるのは安易に予想できたから、急いで抜け出す。
「ほ、ほら先輩!出来ましたから、飲みましょう?」
「……………。」
無言の訴えをその通り無視しつつ、触れさせることを許さずに、私は再び彼の横を抜けてテーブルクロスがひかれた箇所へ。
お揃いのマグカップにほどよい温度で注がれた桜の紅茶を用意すれば、先輩もそっちに気が向くと思っていた。
のだけれど。
「……なまえ」
「先輩、角砂糖いれなくていいんですよね?私、今日は控えようと思うんですけど」
「なまえ」
「桜の紅茶はこのままの方がいいかな?ミルク入れると分離するとかありますかね……?」
「……」
「あ、そうだ先ぱ―――」
徹底的に無視を続けた私が悪いんだと思う。
摺り足で近付いてきた彼の速度が速すぎて、私は振り返り際に詰められた距離に驚くことになる。
見上げた視線、懐かしいと感じるくらいに離れていた時間と温度、逃げていた体が、捕まった。
「ん……っ」
「……」
いつもはこんな荒々しくないのに、帰国後初めてのキスはとても激しかった。
その態度が、寂しいって言われているようで、どことなく嬉しくなったのも頭の端っこで処理していく。
薄く開いた蒼い瞳が、私のことを捕えていた。
「……何故、避ける」
「……っ」
「離れていた時間で、あんたの心が離れたということか……?」
「違……っ」
「じゃあ、何故……」
それはとても悲しそうな顔だった。
私が彼の腕を、行為を、言葉を無視して避けたせいで、彼が傷ついたのだと悟る。これは3㎏云々の話より重要だ。私にとっての死活問題に繋がるだろう。
「……太った……から」
「……は?」
「だから………太ったの……」
彼が傷つくのはいやだ。
だからこそ、素直に告げてやったのだ。
私が、もはや子豚の領域に到達しているということを。
嘲笑われるか。悲しまれるか。はたまた別れの言葉か、英語ペラペラなナイスバディーな女の登場か。
どれでも覚悟を固めたつもりではいたが、返ってきたのは意外にも可愛らしい笑い声だった。
「フ……」
「ちょ……やっぱり笑うんだ!?」
くすりと微笑んで、見事に私を抱き寄せた年上の彼氏。
もう付き合い始めて何年も経っているのに、こうして抱き寄せては頬を少し赤くする彼が可愛くて仕方ない。
「だから、昼食をサラダだけなどにしたのか」
「そ、それは……」
「触れられることも避けて」
「だ、だって……!」
言い訳がましく口をもごもごと動かしたけれど、安堵しきった顔で笑う先輩の表情に何も言えなくなる。
別れでも、悲しみでも嘲笑いでもなくて、彼は増量パーティーすらも呑み込んでくれるようだった。
「あんたを肥満と感じたことは一度もない。今も、そうとは思わない」
「で、でも3㎏だよ……」
「痩せすぎず、太りすぎず、健康的でいられるのが最も好ましい。今が標準くらいではないのか?」
「でも、細い子の方が魅力的でしょ?」
「その考えは、廃れるべきだとは思うがな。それに個人の好みも関係あるだろう」
「……」
「帰国早々、あんたの態度がおかしいから何かと思えば……」
未だにくすくす笑う先輩。
私にとっては頭を抱えるくらいの問題だったのに、先輩は何もかも小さな問題だというくらいに笑顔を向けてくれていた。
……冷静になれば、言われる気もしていたんだ。それに、受け入れてしまう気もしていた。だからこそ、自分が誰よりも人一倍に気にしていかなければならないのだとも思った。
「俺は、今のままのなまえを……大事に思っている」
「……それって、私に甘くない?」
「……確かに見てくれは大切だが、それだけが人間全てを決めるものではない」
「中身で好きって言ってくれてるってこと?」
やっぱり彼の胸板は更に鍛えられている気がした。
温かくて優しい居場所。私が大好きな腕の中、見上げた先に照れた愛しい人がいる。
ぎこちなく目を伏せて頷いてくれた彼に、私の我慢の糸が切れた。
3㎏は落とさなきゃいけないよ。わかってる。でも、それが終わるまで彼に抱き着いちゃだめなんて。触れちゃダメなんて。我ながら無理なことに挑もうとしていたよね。3日もいかずに坊主になっちゃったよ。
ぎゅーって抱き着いて、彼が帰ってきたことをようやく実感する。
言葉なく抱き締め返されて、耳元で頬ずりするくらいに擦り寄って、甘くて優しい声で彼が囁くの。
「ただいま」
対になる言葉を返してから、私の体はそのままソファーに沈められたのだった。
ひ と つ ま み
「ひゃぁっ……!」
「……きもちいい」
油断したのは私だった。
肌蹴たシャツの隙間から忍びこんできた彼の指先が、腹部を撫ぜたと思ったら、ぷくりとそこをつまみ上げる。
確かに普段さらさない分、触っていればスベスベ肌で気持ちのいい箇所かもしれないけれど、いくら緩い力でつまんでいるからといって、私が驚かないはずもない。ついでに許すはずもない。
「はじめ先輩のばか!」
前言撤回。
やはり元の体重に戻るまで、彼には色々と我慢してもらおうと思う。
***
転職して3ヶ月目。
この時期って体調を崩しやすかったり、気の緩みからストレスが爆発する季節だと言われております。
そんな私、ストレスが過食に向かい太りました(笑)
なーんてことから、思いついたこのネタ。はじめくんにお肉つままれて~なんて想像しつつ、この話書いてたら萌えつつも、かなり焦りを感じました。
彼、健康体ならいいとか本気で言いそうですよね(笑)
それじゃダメなんですよ!乙女としては!もっとちゃんと彼に「痩せろ豚」って言われたら、絶対痩せる気が強まる!
……でも、そんなこと言い出したら彼ははじめくんじゃなくてディア○ヴァのシュ○さん的な空気になりそうですねw
まとまりありませんが、書いてて楽しい拍手でした。
今月もよろしくお願いいたします!
梅雨ですね、お体に気を付けてお過ごしくださいませ。
2014.06.14 有輝