―――心が侵食されていく感覚が分かる。
真っ白な半紙の上に墨汁を一滴落として、そこからじわじわと黒が広がり、白を侵す。
時間が経てば侵食が止まると思いきや、勢いは増すばかり。
どんどん白を黒に変えて、半紙の隅から隅まで闇にしていく。
やがて半紙は真っ黒になり、液体によって溶かされる。溶かされた箇所から立体的にグググ……と意志を持った化け物が起き上がってくるんだ。


『辛いのか？』


『ならば全て壊せばいい。心のままに』


そう化け物は私に問いかけた後、答えを与えるのだ。


『憎くて憎くて仕方ないのだろう』


『許せなくて仕方ないのだろう』


『それはそうだ。大切な者を失い、愛する者と引き離され、信じていた友から裏切られた』


『生きていることが辛いだろう？　ならもう理性を保ち、生きることをやめたらどうだ』


黒い化け物はやがて蛇の形になり、舌を出しながら闇の中へ心を引きずり込もうとする。


「（つらい……。生きていることが）」


ぽつり、と本音が漏れた。
一度零れた思いは、どんどん手のひらから落ちるように雫となって黒に混ざる。


「（藍人を失った時、いいえ……それ以上に小鞠を失ったことがつらい……）」


それは、守れなかった自分を許せない。


「（烏丸に嘘をつかれたこともつらい……）」


それは、嘘をつかせた自分への信頼のなさが許せない。


「（はじめくんと離れることが……こんなに苦しいなんて、思わなかった）」


あいしている。という感覚がわからない。
難しい、と思う。
どんな状態を愛だというのか。


だけど、傍を離れ戦いに挑む彼が、どんな状態に身を置いているのか。
不安でたまらない。
もし、妖の羅刹に殺されたら。
もし、彼が羅刹化したら。
もし、彼が命を落としたら……―――。


なにもなければ。烏丸からの依頼がなければ、傍にいれたかもしれない環境。
彼を見守ることしかできなかったとしても、彼の最期が知らない場所で訪れたら、私は……。


そう考えれば考えるほど、蛇の化け物は真っ赤に目の前で姿を変えていく。
溶岩に煮られたような赤みを帯びて、熱により風が起きるように私を取り込んでいく。


「これが……」


―――憎しみ。怨み。相手を許せずに、破壊したいという衝動。


蛇の舌に巻き取られ、距離が詰められていく。
私の心が飲み込まれていく。そのまま丸呑みにされるのかもしれないと意外にも冷静な脳が悟っていた。


脳では真っ赤な光景と蛇が面白そうに笑っている姿が見えていた。


なのに、切り替わった視界は烏丸が諦めに似た表情を浮かべていた。
その彼を、友を、胸倉掴んで手繰り寄せ、喉元に刃を突き付けている自分。


私は、烏丸を……殺すのかもしれない。


「（止め……られない……っ）」


本能が暴れている。
指先に籠る力は強くなるばかりでわなわなと震えてしまう。
烏丸の漆のような瞳に、私の瞳が映りこんだ。
妖力が解放され、赤くなっていることがわかる。


バチリ、と脳内で音が響いた。
走馬灯のように感情がごちゃ混ぜになりながら、能力が発動する……―――。
狐の特異な能力により、烏丸の感情や過去の映像が蘇ってきた。


【なら、どうしてそんな顔するんだよ……ッッ！！】


【自分で自分の首絞めて……っ、心に嘘なんかつくんじゃねぇ！】


いつもの、馬鹿だけれど温厚な烏丸からは想像できない激高。
苦しい叫び声を感じる。
一体誰に向かって怒っているのか。こんなに丸出しの感情を向けているのか。


【死なせたくない】


「―――」


次に聞こえ、浮かんだ場面に私は思わず動きを止めた。
震えていた指先は止まり、息を呑む。体は微動だもできずに目を見開いてしまう。


「はじめ……くん……」


【茜凪を……人の戦で死なせたくない。妖として生きる茜凪を、反逆者にも仕立てあげたくもない】


【一……】


【故に、遠ざけてほしい。二度と俺や新選組の前に現れぬよう】


「……―――っ」


聞こえた声、口調。
懐かしさを感じるほど離れていた時間は多くないのに、響く彼の声はひどく恋しかった。


【頼む、烏丸。茜凪を連れて行ってほしい】


―――これは、彼の願いだ。
その願いを託され、烏丸は動いていたのだと理解する。
自然と向けていた切っ先が地面に徐々に向けて下がっていった……―――。




―――茜凪の切っ先が止まりながらも、未だに烏丸を掴み上げる腕は下りていかない。


「茜凪やめろッッ！！」


彼女を止めるために、わざわざ獣化してきた狛神が飛んでくる。
烏丸に対しても叫んでいる狛神の声が聞こえていたが、茜凪は右から左に流してしまう。


「……っ」


斎藤の声が聞こえた。
烏丸の瞳を見つめた際に映りこんだ、彼と彼のやり取り。真実。
そして同じくらい、烏丸の苦しみを感じ取っていた。


「茜凪……」


烏丸が気を失いかけそうになりながら、茜凪の名前を呼ぶ。
切なさと罪悪感をこれでもかと含めたその声に、茜凪は答えられなかった。


「はじめ、くん……」


代わりに出てきた名前で、烏丸は瞬間的に「しまった」と自覚する。
だが、もう遅い。
茜凪に斎藤との約束の場面を見られてしまったと理解した。


【……死ぬなって約束しろ】


「茜凪……おまえ、ちから……を……――」


【死なずに、もう一度茜凪と出会うって約束できるなら、俺は茜凪を里に連れていく。できないなら……―――】


「茜凪……、」


烏丸の獣化が解け、同時に茜凪の名前を呼べば彼女の瞳からは無自覚か涙が零れていた。
たった一筋のそれは、茜凪の瞳を翡翠色に戻し、手にしていた刃を手放すことになる。


「烏丸……あなた、は……」


真実を知った茜凪は、膝を折ることしかできなかった。
狛神が間一髪の状況を逃れたことにまだ生きた心地がしていないような顔をしている。
正直、茜凪が迷わなかったら狛神は間に合わず、烏丸は死んでいただろう。


「はじめくんと……」


茜凪の腕から解放された烏丸は、地に倒れていく。
動きはゆっくりであったが、その後なんとか上半身を自力で起こした。
肩甲骨の辺りは大やけどの傷だ。


「はじめくんの……願い……だった……？」


烏丸は目を見開き、言葉が返せなかった。
口の中がカラカラだ。おまけに血の味もするし、砂を食べている気分。


茜凪に嘘をついてまで隠しておきたかった真実が、暴かれた。
大喧嘩の結末が烏丸の死でも、相打ちでなかったことも救いどころがあるが、烏丸にとっては複雑な気分になる。


「茜凪……」


茜凪の涙を久しぶりに見た。
小鞠の死の際も、烏丸の前で泣くことはなく、心の死を予感したから斎藤に頼っていたのだが……。
茜凪の瞳からは、とめどなくぽたぽたと雫が溢れた。


「烏、丸……わたし……」


「……ごめん、」


「貴方に……謝らない、と……」


涙と一緒に拙く紡がれる言葉に、烏丸は思わず視線を下げ悔しそうに眉をひそめた。
守れなかった。茜凪の気持ちも、一の気持ちも。と烏丸は唇を噛む。


「茜凪……、俺、一を……」


「……っ」


「一の願い、を……」


お互いに歯切れが悪く、茜凪も顔を泣きじゃくりボロボロにしながら俯き、両手に力を込めていた。


「ごめんなさい」


「……、」


「ごめんなさい。烏丸」


やけにそこだけハッキリ聞き取れた。
謝罪の言葉は、重々しく、感情が込められている。
茜凪の心の内を表しており、烏丸の目頭も熱くなった。視界がぼやけ始めて、顔を背けてしまう。


狛神には過程を見ても、まだ状況が理解できなかった。
彼が烏丸の里についてから半刻も経たずに起きた事件だ。
とりあえず今は、友人二人が命を懸けた喧嘩を終結させたことで良しとしよう。


「とりあえず、二人とも立てよ。手当すんぞ」


「……」


「それからしっかり説明してもらうからな」


いつもより真剣みのある口調で狛神に言われれば、烏丸は薄れそうになる意識を保ちながら頷く。
茜凪はまだ自力で歩けそうだったので、狛神が烏丸に肩を貸して里へと踵を返そうとした。
だが。


「おい、茜凪……」


ふらりと立ち上がった茜凪は、そのまま山頂の向かい側に向かって歩き出す。
狛神に呼び止められたが、彼女は返事をしてくれない。


「茜凪、」


「すみません……頭、冷やしてきます……」


あれだけの全力を出した後だというのに恐ろしいほどにしっかりとした足取りの彼女は、ふわりと体を浮かせるようにして去っていく。
生傷だらけであることは彼女も変わらない。心配した烏丸が狛神に肩を借りながらも振り返ろうと足を止めた。しかし、狛神は戻ることだけは阻止する。


「烏丸」


呼び止められて、烏丸が狛神に視線だけ送る。


「やめとけ」


「でもあいつ……このまま姿消したりしたら………」


「いくら茜凪でも、そんなバカじゃねーだろ」


「……」


「考える時間をやった方がいい。あんだけ血気盛んに殺り合った直後だ、余計に」


狛神からの一言に、烏丸は迷いを振り切るほどには至らなかった。
茜凪がこのまま消えたら。
どこまで直感能力で感知されてしまったのか。
気になりはしたが、気を抜けば遠のきそうになる意識のことを考えると烏丸は里へと体を向けていく。


狛神も天狗の男を見て、その後は何も言わずに歩き出すのだった。