64. 運命
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慶応四年 卯月。
ついに新選組に大きな震撼を与える事実が巻き起こる。
そして波紋は妖である茜凪たちも届くのであった……―――。
『くぅ〜ん……』
「ん……」
耳元で囁かれる音がする。
聞こえる声は人のものではない。人語を介さずに、唸りをあげる存在に茜凪は目を擦り上げた。
「ん……狛神の、仕い……?」
だんだんと見慣れて来た、狛神が使役している犬だ。
しめ縄を揺らしながら焦った表情で茜凪の顔の周りをうろうろしている。
様子からして、急ぎ伝えたいことがあったのかもしれない。
身なりを整えたり、顔を洗う前に狛犬の足に巻きついていた文を解く。
目を通せるように、まだ起き上がれていない脳みそからの指示で指先を動かした。
ぺらり、と紙特有の擦れる音がする。
見えた文字に―――茜凪は一瞬にして覚醒した。
「―――……え?」
処理が追いつかない。
理解が続かない。
どうしてだ。という疑問が喉の奥から襲ってくる。
結論を先に伝えて来た狛神の文章。
経緯らしきものが続いているので先へ先へと目を通して―――最後まで読み切った時。
物凄い勢いで茜凪の部屋の障子が開いた。
「茜凪ッッ!!」
声の主は烏丸 凛だ。
いつもなら声をかける前に開けるなと講義するところだが、今はそうも言ってられない。
それほどの衝撃が狛神からの文章で伝わって来ている。
「烏丸……」
一人では抱えることが難しいと判断し、立ち尽くしている烏丸へ文を渡そうとする。
が、彼も同じものを持っていたこと。
髪を結い上げる前に現れていたことから、同じ事実を受け入れようと努力しているのがわかる。
「これ……!」
「あぁ……」
狛神から記されていたもの。
それは、【新選組の近藤 勇が、新政府軍へ投降した】ということ。
「なんで……下総国に陣を移して、会津に向かってたんじゃ……!」
「……このまま捕縛のみで済めばいいが」
烏丸からの一言はとても重々しかった。
新選組の戦いについて、茜凪たちも詳しいわけではない。
特に接点を持つ前に起きた禁門の変や長州征伐については、噂程度でしか聞き及んでいない。
それでも今の新政府は薩摩と長州が中心にいる。
新選組の今までの活躍が長い因果として蓄積されていてもおかしくないだろう。
「どうする?」
烏丸は茜凪へ決断を託すようだ。
それもそうだ。
彼らが今戦うべき相手は詩織たちで、政に関わる新政府軍ではない。
だが、新政府軍も羅刹を率いている。
そして―――新選組に最も近く心を寄せているのは、自分より茜凪だと彼は判断したようだ。
「狛神に会って話を聞ければと思います」
「……」
「もし……もし、近藤さんが新政府軍に本当に投降したのだとしても、助け出すことは……できませんが……」
―――茜凪の脳裏に、胸の奥に、蘇る言葉があった。
“俺の命を奪う者が薩長軍の人間であったのなら、どうする”
“見殺しにできる覚悟があったか”
“傍にいて人の戦の最中、妖の羅刹を滅するというのは、誰かの死に際と向き合うことになる。例えそれが俺であろうとも”
“人同士の戦であると受け入れず、見殺しにする覚悟がなければ、それは妖にとっての反逆行為に値しないだろうか。俺が死する定めを、あんたの存在で覆せば痕跡が残らないか?”
―――斎藤からの言葉が今、重くのしかかる。
政に触れるわけにはいかない。
近藤を助け出すことは敵わない。
だとすれば、江戸に赴くのは辛くなるだけではないだろうか。
再起の時をかけて、今はまだ各々の体を回復させるべきではないか。
思考を巡らせてはみたものの、茜凪には“狛神に会う”という選択肢以外が見つからなかった。
「……わかった」
むしろ烏丸は、彼女の絞り出した一言だけで理解を示してくれた。
烏丸とて同じ気持ちだ。
新政府軍へ乗り込んで近藤を助けることはできない。
ひとつの時代の終わりであり、一人の武士の生き様が語られている最中だ。
自らの手で結末を変えることはできないと悟った上で江戸へ行くのは……―――彼にとっても後悔をしないための手段である。
「支度してくる」
「私も狛神へ返事を書いたらすぐにします」
「江戸の関所は厳重な警戒らしいから、慎重にな」
「はい」
急ぎ支度へ取り掛かる二人。
春霞の里から去る日はこうして急遽訪れたのであった……―――。
第六十四華
運命
「雪平、また連絡します」
「承知しました。お気をつけて」
正装に身を包み直し、茜凪と烏丸が春霞の里を発ったのは、狛神の仕いが来てから一刻後であった。
赤と白の着物、青と黒の着物を着こなした二人を雪平は送り出す立場となる。
先に江戸へ向かうことを決めた二人に対し、雪平は然るべき準備をしてから後を追うという話になった。
茜凪からしてみれば、雪平がどんな準備をしてくれていたのかはわからなかっただろう。
要は根回しであり、爛や水無月への伝達はもちろん、環那と最後に接触ができないか……機会を図っていたのだ。
「俺も後ほど合流いたします」
頷きをひとつ残し、茜凪は獣化した烏丸に掴み上げてもらう。
彼の背中の傷は正直まだ完治とは言えない。
が、回復は少しずつしてきているため途中までは飛んで行こうと決め、箱根山から江戸市中を目指していけるところまで滑空することにした。
太陽が姿を現した。
光が降り注ぐ中、茜凪と烏丸は大空へと羽ばたいていく。
「狛神……」
―――……一方、仲間へ文を出した妖犬は人生最大とも言える葛藤に悩まされていた。
「クソが……ッ!」
一体、どうしてこうなったのかと思考を巡らせる。
見えない経緯の部分まで考えても仕方はないのだが、狛神自身が今できることをしようと、朝靄に包まれる江戸市中を駆け回っていた。
新政府軍から姿を隠しつつ、とある男を探し続ける。
そう、沖田を探しているのだ。
―――事の発端は数日前に遡る。
狛神が沖田と植木屋で再会をし、言葉を交わした夜から狛神は沖田と共に寝食を共にしていた。
建前としては、江戸の情報収集。
新政府軍と接点がある詩織一派が、羅刹を率いて江戸に来た場合の伝達係を買って出ようと思っていた。これは嘘ではない。
が、本音は沖田の容体を見守りたかった。とも言える。
市中へは使役した狛犬を張り巡らせ、狛神は植木屋で日中寝ている沖田の発作が起こらないか看病を続けていたからだ。
情報収集をするのであれば、狛神とて町へ出歩いていた方が感じられるものは多いはず。
怠っている訳ではないが、選択肢の中に入らなかったのは、自身の生き様について考えを巡らせていたのもある。
そうさせたのも、皮肉にも沖田という存在だ。
一日。また一日と時間だけが過ぎていく。
日没後には毎日、使役した狛犬たちは色々な情報を持って来てくれた。
戦には関係ない江戸での流行り物についてから、新政府軍と旧幕府軍の衝突。
上野の寛永寺にて謹慎を続ける慶喜公のこと。
江戸城が無血開城され、江戸の町は戦火から遠のいたこと。
「江戸城が無血開城ってことは、こりゃ本格的に江戸にも新政府軍が陣を置くな……」
そうなると妖としても少々やりづらい。
関所は今より警備が強化されるだろう。
さすがに妖と言えど限られた物資の中、結界術など何度も張れるものではない。
詩織の軍勢が江戸を攻めてこない可能性が濃厚になる。
次に狙われる場所、彼女たち一派が手中に収めたい本陣はどこかを考えた時―――自然と尾張が頭に浮かぶ。
どちらにしても江戸を離れる際に関所を穏便に通過できないと、妖という身も絡んで厄介だ。
「(沖田と決着をつけるにも時間の問題だな……)」
また頭を悩ませる。時間制限ができてしまった。と狛神は思った。
決着といっても勝敗をかけたものではない。
狛神の心の中にある、妖としての矜持。その決着。
使役していた犬たちを撫で、戻って来た部隊は休ませてやる。
代わりに夜の情報収集を任せる部隊を見送った。
詩織が連れている化け猫を主とした羅刹も、羅刹であることは変わりない。
日中満足に動けるのだとしても、夜を警戒しておかない理由もない。
実際、京にいた頃―――縹 小鞠が辻斬り騒ぎに関わっていたとも聞いている。
「……余計なこと思い出しちまった」
小鞠の顔がちらついた。
特別な仲ではなかったが、彼女の死は狛神にも深く衝撃を与えている。
それからの茜凪の苦しみも、烏丸の苦悩も間近で見て来た。
同じ妖として他人事では済ませない。
色々逡巡させ、ため息をひとつつく。
狛神自身も今日は休むことを決め、居座っていた屋根の上から降りようとした時だった。
『くぅーん』
一匹の狛犬が、遅れて狛神のもとへ戻って来たのである。
「遅かったな」
無事に戻って来たことへ労いつつ頭を撫でてやると、嬉しそうな唸り声をあげてしめ縄を揺らす。
使い魔がくんくんと鼻を鳴らしながら声をあげれば、狛神には新たな情報が与えられる。
その日、これがひとつの運命を動かす一歩となった。
「―――近藤 勇が投降した……?」
狛神にとっては新しい情報だった。
しかし、鮮度としては古かった。
近藤は会津に向かうため、下総国にて陣を構えて徐々に武器を移動させている最中―――新政府軍に投降した。
投降した日付を聞けば、既に二十日ほど前のこと。
江戸城が無血開城された頃には既にこの江戸に連れ戻されていたのだ。
「新選組の奴らも、助命嘆願で動いてるのか……」
狛犬が運んできた情報は、近藤を失った新選組についても含まれていた。
助命嘆願を求め、土方を中心とした数名の隊士が江戸に戻って来ていること。
斎藤を中心に、難を逃れた残存兵は会津へと向かっていること。
羅刹隊となった山南、藤堂も秘密裏に会津入りを目指しているとのことだ。
「それで、近藤 勇が捕縛された先の話は得られなかったのか?」
『くぅ〜ん……』
―――どうやらそれ以上の成果はないらしい。
もっと人が集まるところへ潜入しなければ、最新の話は聞けなさそうだ。
となると、使い魔だけでは無理がある。
夜も大分更け込んだが、狛神は休むという選択肢をここで切り捨てた。
情報をもってきた狛犬には休むように指示し、代わりに夜の情報収集へ出していた狛犬を一匹連れ戻し、短く端的に文を書く。
茜凪と烏丸へ一通ずつ、同じ内容の文章を添えて春霞の里まで伝令を出すのであった。
その後、はだけていた着物を整え、腰に差した刀に手を添えて立ち上がる。
常闇の中に行燈がゆらゆらと見える。
新政府軍の巡回している者たちだろう。
恐れずに飛び込まないと、事が起きてからでは後悔しか残らない。
一目につかないよう、音を立てないように狛神は一気に屋根から市中へと駆け出していくのであった……―――。
「……」
眠れずにいた沖田は、狛神が屋根から飛び立つ微かな音を床の中で聞いていた。
ゆっくりと体を起こし、障子に手をかける。
屋根の上にあると感じられていた気配が消えたことで、沖田の心に一抹の不安が停滞した。
彼が久しぶりに動いたということは、なにかが起きる前触れだと感じていたのだった……。
◇◆◇◆◇
明くる日、太陽が東に昇り切った頃。
ちょうど茜凪と烏丸が狛神からの文を目に通し動き出した頃のこと。
沖田がいる植木屋へ、松本先生が訪ねてくるのであった。
狛神が珍しくいないことに気づいていたが、用があるのは狛神ではなく沖田だ。
医学を学んだ者としての務めを果たそうと、まだ浅く眠りについている顔色の悪い沖田への薬を煎じる。
「どう説明したものか……」
手作業は止めず、ぽつりと吐き出した言葉。
松本先生は顔に陰りを落とし、時たま手を止めてしまう。
―――この時、彼の耳には既に入っていたのだ。近藤 勇が、板橋にて斬首されることが。
沖田にこの事実を伝えれば、間違いなく自らを顧みずに板橋まで飛んでいくだろう。
せめてもの監視役に狛神をと考えていたが、肝心の妖犬がいない。
沖田に近藤の最期を告げずにいるべきかどうかを迷いながら、松本先生は狛神が帰ってくることを願っていた。
一方で待たれているとは知らない狛神は、夜通しで人が集まる場所へと情報収集を続けていた。
酒場はもちろんのこと、立ち食いのそば屋から、甘味処を渡り歩き、名のある道場の張り込みまでを短時間で計画的に行った。
結果―――狛神の耳にも近藤の結末が耳に届いてくる。
板橋にて明日、斬首刑に処されるということが。
土方たち新選組や旧幕府軍からの助命嘆願は受け入れられず、腹を詰めることすら叶わない……と。
「……っ、斬首じゃただの罪人じゃねーか」
人間に肩入れするつもりなんて、微塵もなかったのに。
脳裏でもう一人の狛神が思いながらも、口から出て来た言葉は本音だった。
京の治安維持を務めてきて、多くの功績を残した者を腹切りではなく罪人として裁くとは。
醜い一面を見てしまった気持ちで苦々しくなる。
こうして近藤の処刑が明日に迫っていると知った頃には、既に狛神が植木屋を出てから丸一日が経とうとしていた。
一言も告げずに出て来たため沖田に怪しまれ、近藤の処刑を知られてはあやつが何をしでかすか分からない。
怪しまれないように戻ろうと誓いながら人目を避けて植木屋への帰路へつく。
狛神も背中と胸の傷がまだ疼く中、多少の無理はしなければならない。
問題はこの事実を沖田にどう告げるべきか。
松本先生が数刻前まで同じ悩みを抱えていたことを知らずに、歩きながら開口一番を考え続けた。
もしくは黙って隠し通すべきか―――否、彼の人生に関わる死活問題であることはわかっている。それはあまりにも不誠実だ。
だが一人で新政府軍が蔓延る処刑場に今の沖田が乗り込むことなどできない。たとえ彼が羅刹であっても。
ましてや狛神が助けることもできない案件である以上、伝え方が大いに鍵を握るはず。
一歩の足を止め、大きく深呼吸をしたのち―――狛神はもう一通、茜凪たちへと文を出すことにした。
夕方、彼女たちからの返信は受け取っていた。
茜凪と烏丸の妖力も、相模国から武蔵国へ移動してきているのもわかる。
関所さえ問題なければ、合流までもう少しだろう。
「茜凪たちに急ぎ届けてくれ」
狛犬の中でも最速の者へ文を括り付け、彼女たちへ―――近藤の処刑が明日へ迫っていることを告げる。
関所が簡単に抜けられれば話は別だが、足止めを喰らえば彼女たちは間に合わないだろう。
となると、狛神がしなければならないこと。いや、できることは―――ただひとつだ。
「戻るか……」
覚悟を決めて、植木屋への最後の角を曲がった。
見えた民家の明かりが、真っ暗だったことに狛神はそこで気がついた。
既に陽は暮れたが、夜が更けたというにはまだ浅い時間。
沖田が寝ているのだとしても、部屋の明かりを完全に消して就寝するには早すぎるのではないか……。と考え、背筋に冷たい汗が滲む。
「……っ」
まさか、な。と思いながらも急足になる。
跳ね上がる鼓動。
妖が出せる脚の速さに自然となり、垣根を飛び越えて縁側へ土足のまま上る。
そのまま乱暴に障子戸を開けば、虫の知らせ通りのことが起きていた。
「あいつ……ッ」
部屋の中は蛻の空だ。
刀掛けにあった大小ふたつのそれも、行李の中にしまってあったはずの洋装も消えている。
布団の中は微かに温もりはあるものの、部屋の主が去ってから時間が経っているのを伝えて来た。
枕元には血を吐いた痕があり、万全とは言えない状態であるのも見て取れる。
ふと何がきっかけだったかを冷静に考えた。
沖田が今起き上がって、刀を携えて出ていくとすれば間違いなく近藤の件だ。
だが、ここで床に伏していた沖田へ誰が情報を与えたのだろうか。
薫が来たのか。はたまた詩織や青蛇に侵入されたか。
残っている妖力や気配を探るが、どうやらその読みははずれだ。
部屋を何度かゆっくり見渡して、角の棚に暦が置いてあるのに目が入った。
「医者のおっさんか……ッ」
今日の日付を確認し、松本先生が来る日だったと思い出す。
幕府の御典医だ。近藤の情報を得ていてもおかしくはない。
やられた。
先手を打つつもりで動いたが、後手に回ったと悟る。
奥歯を噛み締めながら狛神は妖力のまま、ありったけの使役している狛犬を召喚する。
沖田の居場所を掴まなければならない。
狛犬の次は、あまり得意ではなかったが懐から何枚かの札を取り出し妖力を込めた。
これも同じく沖田を探す道具となる―――式神だ。
「北見の血じゃねーから、師匠ほどの期待はできねーが……それでも“北見 藍人の弟子”だ」
腕に抱えた札を勢いよく放り出し、江戸市中へと潜伏させる。
特に北の方角へと数を撒き、板橋へ向かうであろう沖田の足取りを掴む算段だ。
式神と使い魔への指示を終えれば、狛神も来た道を戻り出す。
板橋への道のりは、普通に歩けば数刻といったところだ。まだ沖田に追いつけるだろう。
獣化は人目につきやすい為、結界が張れない環境や町中は危険だ。
今できる最高速度で北上を続ける。
「クソが……ッ」
―――そうして冒頭に戻る。
沖田を探しながら板橋までの道のりを走る狛神は、刻一刻と迫る斬首の瞬間までを無意識に数え始めてしまっていた……。