63. 碧葉
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妖力とは、第二の酸素である。
妖力とは、妖にとっての生命力である。
昔、北見に世話になっていた時に文献を読んだことがあった。
当時の茜凪からしてみれば、藍人がいる以上平和な世界が保たれ続けると思っていたし、自身が剣を手に戦う日がくるなんて思ってもみなかった。
だからとは言わないが、妖力についての理解が文献だけでできたとは思わない。
『意識を集中させ、指先まで膜下の隅々まで力を行き渡らせるようにする』
『力は抜く』
『でも妖力は着実に込める』
『ソウソウ』
「……っ」
『やればできるじゃないか』
『呼吸は長く、深く』
『それを実戦でも無意識で出来るように』
「難しいこと言うなぁ……」
『デキテナイカラ弱インダ』
『天狗ヘタクソ』
『茜凪もまだまだ』
『力むな。力まずに力を行き渡らせろ』
「はい……っ」
あの日読んだ文献が、第二の酸素と告げていた訳が少しだけ理解できた。
細胞の一部一部にまで届くように、力まず、心を落ち着かせて力を行き届かせる。
そうすれば柄を握る力はより強固になり、繰り出す剣術は重くなる。
肩の負傷は負ったままでも、今まで以上に鋭い技を繰り出せるようになるだろう。
体の動き、剣術の才能だけではなくて。
体そのもののつくりや肉体自体を強化をする。
両軸で鍛え上げ、詩織を止める手立てにする。
勝利への一歩が見え始めていた。
ここへ連れて来てくれた雪平に感謝しながら臨み、こうして茜凪と烏丸の九頭龍の修行は明けて行くのであった……―――。
第六十三華
碧葉
『修行は以上だ』
『まぁ、よく耐えたところであろう』
『始める前とは見違えるほどだ』
「ありがとうございます」
「なかなか厳しい修行だったからな……。成果を感じるぜ」
慶応四年 四月。
三月末から月を跨いで始まった修行が完了した。
九頭龍への挨拶をし、芦ノ湖の湖底から里へと戻ろうと茜凪と烏丸が入口で振り返る。
師と弟子というには些か見えないが、九頭龍とも小さな絆を築けたと感じていた二人。
七日間、不眠不休の極限状態で挑んだぼろぼろの妖たちに、龍神は言葉を贈るのみだった。
『望むままに戦え。春霞 茜凪』
『己が正しいと思える選択を』
「―――……はい」
深々と礼をし、茜凪はまだ重たい燈紫火に妖力を込める。
応えるように僅かに軽くなる太刀を出口より先―――湖を切り裂くように素振ってみせた。
行きで雪平がしたように湖底が切り裂かれ、道が生まれる。
『振り返らずに行け』
最後の龍の一言に二人は頷きながら、九頭龍の御元を去るのであった……―――。
久々の地上に出た時、朝を迎えた眩い光に包まれていた。
朝靄が漂い、湖面に来光が揺らぐ中、茜凪と烏丸は見知った顔と再会する。
「茜凪様……!」
「雪平……」
どうやら茜凪たちの迎えに来てくれたようだ。
箱根の森は迷いやすいのもあり、彼が里まで引率してくれるならば有難い。
「長引いているので中でなにかあったのかと心配しました……。ご無事でよかったです」
そのまま抱き寄せられるのではないかというほど、真剣な表情で肩や腕に触れてくる怪狸に茜凪は驚きを隠せなかった。
実は茜凪と烏丸の修行は、七日間で完了はしていなかった。
実際には十日ほど時間がかかっており、雪平が茜凪たちを迎えに来た時の表情が芳しくなかったのは心労によるものだろう。
「すみません、心配をかけて……」
茜凪が長身の雪平を見上げながら詫びれば、ようやく安心したように一息つく彼。
これだけをみると、茜凪が心に決めた相手がいると知らなければ―――まるで雪平が茜凪の旦那であるかのように思える。
面白くない。とじとーっと彼女たちに視線を向けたのは、言うまでもなく烏丸だ。
「いい雰囲気のところ悪いんですけどー?」
雪平と茜凪の間に割って入った烏丸が、茜凪を背に隠しながら雪平に注文をつける。
「めっちゃ腹減った!美味い朝飯が食いたいっすっ!」
「はい、承知しております。里に用意してありますので急ぎ戻りましょう」
烏丸がどうしてそんな態度なのか、大人な雪平はわかってくれているようだ。
友達思いの彼に微笑ましくなりながら、雪平は茜凪と烏丸を連れて春霞と朧の里へ戻るのであった……。
◇◆◇◆◇
それから春霞の里で朝餉を済ませた茜凪と烏丸は、七日間―――の予定であった実際には十日間―――の修行を終えて休息をしていた。
戦闘でぼろぼろになった足を労るように薬を塗り、切り傷や擦り傷が絶えない腕や脚にも消毒を重ねる。
その横で大の字になりながら死んだように眠る烏丸に、茜凪は視線を向ければ穏やかな笑みを浮かべてしまう。
これはしばらく起きないだろう、と。
対して茜凪はまだ交戦後の興奮状態にあるようで、疲れているはずなのに眠気が訪れないという状態だった。
昼過ぎの日差しを浴びながら傷の手当てをし、最後に手のひらを見つめる。
女の手とは思えないほど血豆ができており、豆ができるほどの戦闘訓練は久しぶりだったと思い返した。
妖力と呼ばれる性質の理解。
力が込められるようになれば、戦い方の幅は無数に増えると思えたのも事実。
まだ、できることがある。
詩織が獣化するならば、茜凪は燈紫火の持てる力を持って対抗をしなければならない。
掴み取りたい未来のために。
「おや、茜凪様。起きていらっしゃったのですか」
大の字で寝る相棒の横で血豆の手当てを終えた茜凪が顔をあげる。
声をかけてくれた雪平は、まるで今が穏やかな平和な世にあるとでも言いたげに洗濯籠を抱えて現れた。
「(洗濯籠が似合うなぁ……)」
なんてぼんやり思っていると、当人は首を傾げて視線を合わせてくる。
「どこか痛むのですか?」
「いえ、なんでもありません」
疲れているはずなのに、眠れなくて。と続ければ、雪平にも経験があったようだ。
肯定の言葉を投げかけたのち、庭に出て洗濯物を干し始める。
すらっとした体躯から長い手が伸び、いとも簡単に着々と工程を終わらせるのを室内から茜凪は眺めていた。
なんとなく、やることもないので茜凪が雪平を追いかけて庭へと出る。
邪魔かもしれない。ここまで家事も炊事もできる妖は珍しいと思いながら、手伝ってみようと隣に並んで洗濯物を叩きながら伸ばしていく。
「茜凪様、お気遣いなく」
「暇を持て余しているので」
詩織についてのこと。
考えなければならないことは山ほどある。
だが、十日間の修行を終えた今だからこそ少しだけ休ませてほしい。
穏やかな時間の中に身を置きたい。
あの京にいた頃の、小料理屋の日常のように。
「意外と慣れてらっしゃいますね」
「京にいた頃は菖蒲を手伝ってましたから。水無月も上手ですよ」
「そうでしたか。綴殿が洗濯が上手いとは意外です」
「料理の腕もなかなかですよ、彼」
他愛のない会話をしながらも、茜凪は雪平のことを少しずつ―――無意識に―――感じ取っていた。
ふと気付いたことがある。
それは彼の纏う雰囲気が、少しだけ、本当に少しだけ、前より柔らかくなっていたように感じたことだ。
「……」
「綴殿は容姿も美しいですし、料理も家事もできるとなれば女性が放っておかないでしょうね」
茜凪が九頭龍の修行の件で、本気で雪平に頼み込んだこと。
根負けしたと認めた彼が、修行に送り出してくれたと思っていたのだが。
実は違ったのかもしれないと茜凪は思い返す。
重丸を水無月に託して帰還させ、その後修行に臨んだ。
その前に何か彼の心の機微があっただろうか……?と思いを馳せる。
もしかしたら不在の間に、彼が嬉しくなるようなことがあったのかもしれない。
「(私たちがいなくて静かだったから……とか?)」
だとしたら、少々寂しい気もするが。
狛神も今は江戸にいるため、久々の一人の里を満喫できたのかもしれない。
「河童の一族は数はそこそこですが、妖界の中では安定していますからね」
「……」
「水無月さんは純血ではないと聞き及んでいますが、血統的にも申し分ないでしょう」
「でも水無月は菖蒲がいますから、今から彼を振り向かせるのは難しいと思いますよ」
思い返せば水無月も一途だった気がする。
藍人と菖蒲が幸せだった時間は見守り、藍人が亡くなってからは菖蒲が心を決めるまで待ち続けている。
もはや二人の色恋については公認なので、茜凪が今更口を挟む必要もなかったが―――ここのままいけば菖蒲が水無月の正式な女となり、婚姻を結ぶのはみえている。
複雑に思ったこともあるな……としみじみと振り返った。
それだけ藍人の死を受け入れたという自身にも頷ける。
次の洗濯物を取ろうと籠の中に手を入れた時。
視線を籠に移さずに横着をしたせいで、雪平の指先に微かに触れてしまった。
「すみません」
触れた時の温もりが思った以上に冷たくて、茜凪はそこでようやく視線を移す。
洗い物の後だから冷たいのだとしても、まだ春先だ。
喜べるほど温かくはない。
肌荒れしていないかと思い、声をかけながら彼の指先にもう一度―――今度は意識を持って確認をしようとした時だ。
「雪平、あなた手が冷―――」
彼が息を呑む音がした。
触れた右手は拒絶されることはなかったけれど、信じられない。と空気が伝えてくる。
なにか間違いを犯したのではないかと不安に駆られて顔を見れば―――異性に触れられて照れているなどではなく、“触れられる”という行為に対して驚きを隠せない雪平がいた。
「―――冷たいですが、だいじょうぶ……ですか?」
「…………」
間を置き、不自然な長さを保った後に問う。
だが、反応がない。
「雪平?」
「……っ」
二度目の問いかけで、ようやく反応を示した彼。
どこか気まずそうに茜凪の手をもう一方の手で引き離しながら、視線を逸らす。
「大丈夫ですよ。ご存知ありませんか?怪狸は体温が実は低いんです」
「そうでしたか……。不躾な真似をして、すみません」
「……」
「春先ですがまだ水も冷たいので、赤切れになると大変ですからね。労わってください」
「……ありがとうございます」
雪平は視線を逸らしたまま、再び洗濯籠の中を空にしようと奮闘し始める。
茜凪は歯切れの悪くなった彼をしばし見つめた後、気を取り直して手伝うのであった。
茜凪が気にするのをやめた頃、ようやく洗濯が干し終わる。
既に昼過ぎではあるが、この天気ならばなんとか乾くだろう。
一仕事を終えてようやく眠気が生まれて来た茜凪は、籠を抱える雪平の前を歩き行く。
大の字で寝ている烏丸を他所に、別で借りている仮の自室へ戻ろうとした時だ。
「嘘です」
「へ?」
唐突だった。
欠伸が終わると同時に雪平に話しかけられた。
伸びをし、涙目のまま振り返れば―――深刻そうな顔をした雪平がそこに突っ立っていた。
顔に似合わず籠を抱えた彼は、何かに悩んでいるのがわかる。
「怪狸の体温が低いなど、嘘です。申し訳ございません」
「……そ、うなの?」
謝るほどのことなのか?と問いたかったが聞けなかった。
取り繕いたかったのだろう。聞かれたくなかったのだろう。
そう茜凪は悟ったが、戒めるような顔をする雪平の空気が、冷たい。
まるでいつかの彼のようだ。
怪狸ではなく、稀他人としての血が表れているように見えた。
「教えてください」
問う立場から問われる立場に代わる。
地に視線を投げていた雪平が、茜凪へ稀他人の血を露わにした視線を向けた。
背筋が僅かに凍るような感覚になる。
冷たくて、恐ろしい。
力が及ばないから恐ろしいのではなくて、存在そのものが畏怖を与えるようなもの。
「貴女は俺が恐くないのですか」
茜凪と雪平。
これが何度目の邂逅なのか。
茜凪に戻った記憶を辿っても正しい数はわからない。
だけど、問われている意味はわかる。
「俺も半妖です。怪狸と稀他人の。稀他人の血を継ぐ俺を、半端者の俺を、恐ろしいと思わないのですか」
―――あぁ。彼の心の機微が伝わる。
微かに、僅かに解かれた警戒心。
彼と修行の前に何があったのかを思い出した。
重丸との関係を問いながら、彼は“彼自身”についても問うていたのだと。
もう一度、確かめようとしているのかもしれない。
それとも、思い返されることをしてしまったのかもしれない。
いま対峙する雪平は、修行を決めた時の雪平より恐ろしかったが―――茜凪は考える。
綺麗事ではなく、嘘偽りなく。
彼に対して、なにを感じるのかを。
「―――恐くないと言えば嘘になります」
「……」
「特に今のような雪平は」
「……」
「ですが、半妖の雪平だから恐ろしいのか。と聞かれているのであれば、答えは違います」
「え……」
「貴方が稀他人の血を継ぐから恐ろしいのではなく、私の力量の問題な気がします」
「―――」
うーん。と顎に手を充てて思案する茜凪。
雪平は、今度こそぴくりとも動かなくなってしまう。
「もしですけど、爛が本気で怒っても今の雪平と同じように、底冷えした目をすると思うんです。それはちょっと……やはり恐いなぁ、と」
「……」
「私に爛と衝突しても屈服させるだけの力があるならば、恐れを抱くことはないと思うんです。そう思えないのは、まだ爛の方が優れていると認めてしまっているからで……」
「……」
「爛に限らず藍人も恐いですね、未だに。旭さんの力量を正確に知ってしまったら彼女のことも恐いかもしれません」
あとは他にいるだろうか……と考えを巡らせる茜凪に、雪平はポカンと唇を開いてしまう。
さらに綴られた台詞は、雪平の胸に衝撃を打った。
「あー……でも、一番恐いのはやはり環那かもしれません」
「―――」
「みんなから慕われて、強く美しく恐ろしい。と誰もが口にします。そんな相手が、怒りの感情むき出しで対峙してきたら、とても恐いと思いませんか?」
“会ったことありませんけど!”と笑いながら口にする実妹。
けらけらと環那について、人から聞き及んだ感想を述べる茜凪に―――雪平はついに笑みを零してしまう。
「貴女には、俺の感じてきた“常識”は通用しないのですね」
ぼそりと吐露した本音は、茜凪には届かなかった。
触れられた指先をぎゅっと結んで、雪平は歩き出す。
「―――ありがとうございます」
小さく、小さく呟いて。
茜凪に聞こえることがないと知った上で微笑む。
―――心に少しだけ温かさが増したことに、雪平は気付いていながらそのまま片隅に置くことにした。
「環那は脈絡がなくて周りの方を困らせていたと聞きます。代表例はきっと爛だと思うんですが、旭さんあたりにも迷惑かけてそうだなって思うんですよね、最近」
「茜凪様と同じく、環那様も自由奔放でしたからね。口調にも表れていらっしゃったんですよ」
籠を持って隣まやってきた雪平。
茜凪に歩幅を合わせながら隣を行く怪狸と稀他人の混血に、茜凪はふと思い出したように話題を変えた。
「そういえば雪平、聞きたいことがあったんです。祀りの間について」
「……そのご様子ですと、九頭龍から聞いたのですね」