58. 語部
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水に泥が混ざったような匂い。
滴る水の音。
暗き神道から踵を返した雪平は、ただ一度だけ斬られた湖面へ振り返る。
「茜凪様……」
―――どうか、ご無事で。
そう口にすることができない。
ざわざわとする胸中には、刹那にして蘇る記憶があった。
金の髪を揺らしながら、眉を下げて笑った男。
仕えた主の最後の表情。
詫びる様がありありと浮かぶ。それなのに気持ちは“してやられた”といつも思ってしまう。
唇を結び、一度落とした瞼を押し上げた雪平は一歩一歩と里への道を再び歩き出すのだった。
第五十八華
語部
『修行だと?』
「はい。詩織を―――同胞の過ちを止めたいのです」
敵意が消えた九頭龍を前に、茜凪はもう一度願いを口にした。
九つの頭を揃えた龍は無言で佇み、茜凪に先を促してみせる。
「我ら白狐は、確かに滅びました。ですが、その生き残りである春霞 詩織が殺戮を企てています。恐らく対象は人も鬼も妖も関係なく、無差別である可能性が高いです」
『ホウ』
『春霞に生き残りがいたとは……』
『春霞 茜凪は生きている可能性が極僅かにあるかもしれぬとは思っていたが、他にもいるのか』
『青の血族の者か』
「(青の血族……?)」
『その殺戮とやらは、どのようにして行われるのだ』
十八の眼が順々に茜凪を見極める中、ふと引っ掛かる言葉を見つけた。
が、今ここで問いただしても答えは返ってこないだろう。
とにかく修行をつけてもらえる算段を確立するため、茜凪は話をつづけた。
「変若水……西洋から渡来した劇薬により、妖の力を飛躍させ、簡単には死なないように造り変えるのです」
『……』
「変若水を飲んだ者は羅刹と呼ばれ、血に飢える戦闘狂となります」
『さして今と変わらない』
『アヤカシ、モトモト血ガスキダ』
『黙れ皆の者』
中央の龍が周りを一蹴すれば野次が止まる。
身なりを整えて立ち上がった凛も茜凪の一歩後ろで話を黙って聞いていた。
「詩織は、羅刹の軍勢を手中に収めています。斬っても斬っても簡単に絶命しない妖は厄介ですし、今の私には羅刹の軍勢を止める力もありません」
『……』
「どうするべきか悩んでいたところ、芦の九頭龍殿の修行が効果的と噂を耳にしました。都合のいい話なのはわかっていますが、藁にもすがる思いでこうして参ったのです」
茜凪がその場に跪き、九頭龍に乞う。
「詩織を止めたいのです。彼女を止めて、鬼も人も妖も、平和な世をつくろうとした兄の願いを、兄に残された方々の想いを―――繋ぎたいのです」
もちろん、それだけではない。
その先に願うのは、再会したい人がいるからだ。
「お願いします」
頭を垂れて、希う。
茜凪に倣って凛も同じ姿勢を示した。
茜凪の言葉を最後まで聞き届けた九頭龍は、それでもしばらく返事をしなかった。
辺りにぽちゃん。と水滴が滴る音がする。
高い音を立てて転がり落ちる石の音も響いた。
空洞の中に聞こえるありとあらゆる音源が、自然界のそれだけになった時―――凛はだめなのだろうか。と微かに諦めを見せようとしてしまった。
が、しかし。
『環那の死に様を知っておるか』
予想もしない方向の問いが返ってくる。
思わず顔をあげ、中央の龍を見つめれば―――龍は懐かしくも悲しい目をしていた。
「……いいえ」
『あれは酷い戦だった。幾百年、春霞と共に過ごしてきた中でも環那の存在はよう覚えておる』
『強い白狐だった』
『誰もが恐れ慄き、そして憧れ愛する白狐だった』
『そんな男が、この世界を守る為だけに命を投げ出した……。その太刀に妖力を使い、己の全てを犠牲にして素戔嗚尊を止めたのだ』
「……」
九頭龍と環那の関係性は、茜凪たちには分からない。
しかし、龍神が口にする言葉の端々からは何とも言えない感情が見え隠れする。
『旧くからの縁を持つ白狐と我々が見てきたこの世に、環那のような男が命を捧げてまで守る価値はあったのだろうか』
『今でも思い返す』
『戦になるのであれば、同じ道を辿る可能性もある』
『絶界戦争ト同ジミチ』
『春霞 茜凪。燈紫火と共に往くお主に、その覚悟があるか』
次々に繰り出される問いに、茜凪は思考を巡らせた。
軽々しい思いで返答を言葉にできない。
しばし無言の空間を生み出した後、茜凪は視線を下げながら紡いだ。
「―――……この想いを覚悟と呼べるかは、わかりません」
『……』
「いろいろな方から兄の話を聞くたびに、私に成せるのかと考えます。悩みます。ですが詩織を止めなければならないという想いは本物です」
「……」
「環那と同じような結末にならぬよう、精進したいと思います。そのためにお力をお貸しください」
素直な気持ちを口にする。
そのうえでもう一度、龍神に対して頭を下げた。
三度ぽちゃん。と水滴が落ちる音が響く。
長いようで短いような時間の中、茜凪の想いを聞き届けた龍が答えた。
『よかろう』
想いが聞き届けられたこと。
肯定的な返事があったことに、茜凪と凛は顔をあげ見合わせる。
―――これで今より先へ、詩織を止めるための術が手に入るかもしれない。
『我ら芦に住まう龍による修行は、妖力を理解し、整え、より持続させるための配分と調整の修行』
『これより七日間、妖力を用いた術と体術のみの合戦を、不眠不休で行う』
『実戦で覚えることが一番早いからのぉ』
「七日間……」
「こりゃ骨が折れそうだな……」
七日間の修行。
不眠不休で刀や武器はなし、妖術と体術のみで己と向き合うということだろうか。
『して、春霞 茜凪の片割れも共に挑むのか』
『オマエ、白狐ジャナイ』
『天狗か』
「あ、あぁ……。俺も一緒に修行させてもらうつもりで来たんだ」
『白狐の相棒が天狗……』
改めて凛の容姿や気配を感じ取った九頭龍は、環那の過去の言葉を思い出していた。
【 天狗に親友がいるんだ 】
環那が成した道の一つを、茜凪も既に成していることが伝わる。
本来、芦の九頭龍の御許は白狐の血を引く者のみが許される地であった。
しかし、龍神も考える。
環那の想いを受け止め、茜凪の想いを受け止め―――そのうえで烏丸の姿を見つめる。
真っ黒な姿は白狐とは真逆に位置する者。
決して白狐と交わらない種族。
そう聞き及んでいた。
だが、どんな事柄もすべての始まりがあり、「最初の人物」がいるはずだ。
そう思わせ、挑ませてみようと思えるくらい―――彼ら龍神にも環那の存在が影響されていた。
『天狗の童よ、好きにするがいい』
「あ……ありがとうございます」
『さぁ、構えを取れ。最初の五日間は実戦だ』
『死なない程度に相手をしてやろう』
「お願いいたします」
―――こうして、茜凪と凛の九頭龍による修行が開始されるのであった……。