57. 恩義
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慶応四年 三月下旬。
桜の花が舞い、そろそろ散り出すかという表現が似合う頃。
箱根連邦の山奥にある湖―――通称・芦ノ湖の周辺にやってきた茜凪と凛は、神域とも言える空気を携えた道を見渡しながら歩を進めていた。
「なんか神聖な道だな……」
「そうですね、空気が里よりより清らかな気がします」
「おや。凛殿は意外と鋭いのですね」
「おい雪平、意外ってなんだ意外って」
至るところに佇む夜桜が月に照らされて白く発光するように見える。
思わず小声になりながらの会話だったが、案内人の雪平が発した一言が凛の顔をしかめることになった。
「仰る通り、今歩いている道は神域ともいえます。箱根神社がすぐそこにありますから」
箱根神社。
歴史ある神社だというのは二人とも聞き及んでいたが、実際に足を踏み入れたことはない。
肌を刺す―――というよりは撫でるように空気は清廉としている。
神というものを簡単には信じていないが、これだけ存在感を感じさせる空気を醸し出されると茜凪と凛は顔を合わせて黙ることが正しいと思えてしまった。
小声の会話が無言になり、しばらく道を行く。
神社が目的地ではないので参道ではないのだが、それにしても足場が悪い。
獣道が続き、大きな石や岩を超えて進むあたり普段は人が来ないのだろう。
妖である茜凪たちだからこそ無傷で歩き続けられているのではないかと思えた。
くねくねと方角を何度も変えて、ようやく雪平が足を止めたかと思えば、森の間から湖が正面に見える道に出た。
旧い岬もあり、湖をより一望できる絶景の場所らしい。
雪平の目的地はどうやらその岬だったようで、迷わずに進み続ける彼の背を追いかける。
森を抜け、視界いっぱいに真夜中の湖面が映った。
さざなみもない緩やかな面に視線を落としたのち、茜凪は雪平の声に顔をあげる。
「茜凪様、燈紫火を」
不自然なところで太刀を求められるなと彼女は思った。
出先に妖力を込めてきたのでなんとか重さは耐えられるくらいになったものの、いざ腰から腕にとると重量を感じる。
左腰を捻り、開放感を無意識に味わってしまった。
雪平は茜凪が手渡した燈紫火を抜刀すると、静寂な湖に向かって白刃を向けた。
刃に映り込む芦ノ湖がきらりと反射する。
そのまま腕に妖力を更に込め、雪平は目を細めた。
一点を見つめたまま、なにかに備えるような眼差し。
茜凪も凛も、彼が何をしているのか理解できないまま固唾を呑んで見守り続けた。
「茜凪様」
雪平は準備ができたとでも言いたげに、声と視線で茜凪を呼ぶ。
呼びかけに応じて茜凪は前に出て、燈紫火を握る雪平に一歩近づいた。
湖面を映したままの太刀を固定したまま、持ち手を代われと無言で指示をする。
彼から太刀を受け取って、体ごと湖に向ければ―――雪平は背後に立ち、茜凪へと囁いた。
「構えて、斬り込んでください」
「……」
「湖面を斬るように、動作を」
耳元で聞こえた声の意味を考え僅かに止まったが、頷きをひとつ返してやる。
そのまま腰を低くし姿勢を保ち、ひと呼吸。
細く長く吐き出した息が消える頃、茜凪は湖面を―――斬った。
瞬間、放たれる一撃に青い炎が宿る。
やがて象られる狐の炎は湖面を走るように奥へ奥へと走っていく。
途中で分解され、一匹の狐火は二匹となり、さらに分かれて四匹へとなる。
踊るように交差しながら舞いながら見えない対岸に向けて進み続けた。
茜凪と雪平、そして凛が光の行方を追いかけて視線を投げ続ければやがて光は失われる。
なにが起き、なにが目的だったのかわからない。
凛はつい雪平を見て首を傾げたが、重々しい雰囲気に声をかけることが憚られる。
雪平はというと、彼が何を尋ねたいのか理解をしていたので口を開いた。
「来ます」
視線は狐火が消えた一点を見つめたまま。
凛が雪平の一言に視線を湖面へ向き直す。その間にも茜凪は雪平と同じ一点を見つめていた。
炎が湖面を走り、線を描く音が消え―――それでも何も起こらない。
そう諦めかけた時だ。
「あれは……」
茜凪がふと湖面の奥が白く飛沫を上げているのをみつけた。
やがてどんどんと近づくように近づいてくるそれに、茜凪が眉を顰める。
雪平は一切顔色を変えず、一歩前へと踏み出した。
対照的に茜凪と凛は一歩退いてしまう。理由は飛沫が近づくにつれて、地割れのような音が響き始めたからだ。
「お、おいおい……!?」
「……っ」
ここにいて大丈夫か!? という顔を隠せない二人を置いてきぼりに、雪平はもう一歩前に出た。
彼の正面、岬から一直線に伸びるように湖面が割れる。
湖底が見え、水分をよく含んだ泥やら水中植物やら貝が置いてきぼりにされた道が現れた。
ご丁寧に湖底につづく段差まで用意されているとなれば、これは人為的に造られたものだとわかる。
「お二人とも、いつまでそうしているんですか」
「あ、芦ノ湖が割れた……」
「御伽噺みたいなこと……」
「驚いている場合じゃありません。修行をなさるおつもりなら付いてきてください」
至って冷静さを欠かない雪平。
案内人を務められるだけあり、知っていたのであろうが驚きもしないなんて。
情緒がないのかと凛は疑いの目を向けてしまった。
割れた湖の底にあったのは、石で造られた祠であった。
入口には龍の紋様があり、祀られている者の正体を示している。
人が一人通れるくらいの狭い石造りの戸を抜けて、雪平はさらに奥へと視線を示した。
「九頭龍の身許まではもう少しです。祠の中は一本道ですから、迷うことはないでしょう」
戸の近くで足を止めた雪平が告げる。
茜凪も凛も、彼の案内がここまでであることを悟った。
「俺はこの先へは進むことはできません。俺の血は龍神に会い見えるものではありませんので」
「ってことは、白狐じゃないとダメなのか?」
「いえ、そうではなく……」
凛の問いに濁る返答。
彼は何も知らないし、雪平自身も稀他人と怪狸の半妖であるとは公言したくないようだ。
龍神が嫌がるのは稀他人の血であるのだと空気を読んだ茜凪は、凛の言葉を遮るように続けた。
「わかりました。案内、ありがとうございます」
「茜凪様、九頭龍は本来気性の荒い方だと聞きます。素直に修行としたいと願って聞いてくれるかどうかわかりません。本当に……お気をつけて」
光が届く最後の最後まで、雪平の表情は淡々としていた。
しかし、今までよりどこか彼の感情が瞳には宿っているように思える。
心配をしているのは誠だ。
本当はここにくること自体も反対であるのは否めないと告げている。
それでも案内人を務めたのは茜凪の、強いては環那の願いだからだろう。
「ありがとう」
凛と雪平も頷き合い、しばしの別れを告げる。
石の戸が重々しく閉じられれば、辺りは常闇。
鼓膜に届くのは滴る水音と空間が続いていると伝える風。
思ったより奥は開けているのかもしれない。
手を宙に翳し、炎を生み出す。
水分が多い空間にどれだけ狐火が耐えられるかは心配だが、光源を作り出さない限り前に進めない。
それでも薄暗い空間に茜凪の心臓が僅かに跳ねる。
「目、慣れてきた」
隣に立っていた凛が零した。
不安そうな顔をしない彼を見上げれば、茜凪の心にはある思いが浮かび上がった。
『ひとりじゃない』
それがどれだけ有難いことで、心強いのか。
「もともと天狗は夜目が利くからな」
「……羨ましい限りです」
くすりと微笑んで、茜凪は前を向く。
夜目が利くならば、笑みの下に隠した不安な表情も読み取られていたかもしれない。
そうだとしても、そうじゃなくても、凛は何も口にはしなかった。
「行くか」
「はい」
暗闇の導を受けながら、茜凪と凛は奥へと歩を進め始めるのだった……―――。
第五十七華
恩義