55. 夢
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混濁する意識の淵に立っている。
最中、少年の耳に届いていた幾多の声。
中でも大きく響き、記憶にしっかりと残るものがあった。
「私は、半妖如きが生きながらえ、のさばることを許しはしない」
誰かに抱えられ、速急に地を駆けていく。
人とは思えないほどの冷たい温度が少年を掴んでいる。
感触だけでは人だとは思えなかった。
人の形をしたなにか。
少年は開くことのない瞼はそのままに、そんなことを思っていた。
視界を開くことができるのであれば、どんな姿なのか記憶に残すことができたのに。
「縹 重丸……。貴様は生きている価値もない」
覚えのない憎悪を向けられていた。
鋭い声は成人女性のものだと思われる。
同じ成人女性と言われて、記憶の中で思い当たる人の声はもっと軽やかで、清廉だ。
痛みを与えてくるような、これほど低くて強く刺すような音はしていなかった。
―――少年・重丸の意識が気がついた時。
深い眠りから目覚めた瞳は、見慣れない天井をぼんやりと映していた。
障子戸の向こう側。外から差し込む色は青。
つまり朝でも昼でもないということ。
酷く喉が渇いていた。
からからで、水を求めて天井から左右へ首を振った時に眦から溢れ出るように、体内の水分が失われた。
筋を辿って流れていく涙。
記憶に残った冷たい憎悪に怯えたものか。
はたまた別の理由からか。
それは重丸本人にすら理解ができなかった……―――。
第五十五華
夢
「茜凪様……」
「諦めません」
「いい加減になさってください……。じきに夜明けですよ」
「そう思うなら雪平が折れてください」
「だいたい、夜通し男の部屋に女性が居座るだなんて。はしたないですよ」
「私だけじゃありません。烏丸だっています。はしたなくありません」
「確かに彼がいれば万が一はないという予防にはなりますが、付き合わされる凛殿の身にもなってみたらいかがですか? 彼の瞼はもうくっつきそうですよ」
「そうですよー……俺の意識はもはや半分夢の中ですよー…………んぐ……」
「くっつきそう。ではなく最早くっついてます。烏丸が可哀想だと思うなら、さっさと九頭龍の修行について話を聞かせてください」
「安眠妨害されているのは凛殿だけではなく、俺もなのですが……」
朧の里にある古屋の一室。
寂れた部屋では、息のぴったりの掛け合いが続いていた。
狛神が起きたことにより設けられた一席。
そこで話し合われたのは、今までの情報共有と今後の動きについてだった。
詩織についてや青蛇、赤楝についてなど、色々と話し合われたが最後に各々の今後の行動についてが決定された。
やるべきことは多大である。
爛はついに前を向き、赤楝の死の謎について解明を始めることにした。
青蛇がもし赤楝なのであれば、赤楝の死を解き明かすことで詩織と一緒にいる理由や目的が見えてくる可能性がある。
水無月と愛宕、子春は重丸の目が覚め次第、京へと彼を送っていく約束をしてくれた。
その後、水無月も独自で詩織や赤楝についての情報を追ってくれるだろう。
狛神も詩織の目的について解明するために情報収集にあたると決めたようだが、まず体調を整えることを優先することになった。
今は一人部屋で休んでいることだろう。
そして差し迫る大事な課題がもう一つ。
詩織や青蛇が持つ、羅刹勢力に対抗することだ。
これは茜凪を筆頭に臨まなければならないと本人が理解していたので、剣術、妖術、体術はもちろんのこと、妖力の扱いについて修行を積まなければと漠然と思っていたところ。
そんな折に、雪平が環那との話で“九頭龍の修行”という言葉を口にした茜凪は、雪平から話を聞き出すことに躍起になっていたのだった。
狭い室内には、茜凪と雪平。
そして会合後から付き合わされている眠りかけの烏丸が膝を突き合わせていた。
「今後のやるべきことも定まりました。皆が動き出す中、私だけが弱いまま詩織に挑むなんて嫌なんです」
「はぁ……。先にも言いましたが、段階を踏んだ修行が必要だと述べているまで。俺は茜凪様に意地悪をしようとしているわけではありません」
盛大な溜息をつきつつ、敷かれた布団で休むことを許されない雪平。
畳の上で膝を突き合わせ、向き合う環那の妹に怪訝な顔を隠せない。
「急いては事を仕損じると言います。まずは狛神殿と同様、妖力が完全に回復するのを待ってから、その妖力の量をしっかりと扱うための修行を―――」
「そんな時間はないんです」
訝しむ表情はさらに深くなってしまう。
詩織は左腕を失ったのだ。
羅刹たちに指示を出すことはできても、詩織自身がすぐに動くことはできないであろう。
詩織に対抗できるのが茜凪だけでという点が問題であり、羅刹たちは動き出したとしても仕留めることはできる。
故に茜凪が何を焦っているのか、雪平には理解が及ばなかった。
しかし。
茜凪は正しく意図を伝えようとする。
「詩織の口ぶりからするに彼女は人間、そして半妖を怨んでいます。重丸くんが拐かされた件といい、詩織の指示で日の本にいる半妖にも危険が及ぶ可能性も考えられるんです」
「……」
「鬼も人も妖も平和に暮らせる世を目指すのであれば、詩織の憎悪の対象は大きすぎます。彼女を止めなければ妖界も望む世にはなりません。そのために私がやるべきことをさせてください」
茜凪が頑なに引かない理由を、雪平は受け止めてはいた。
彼女は自身のために九頭龍の修行を望んでいる。
理由の背後にある想いに、他者の存在が大きく絡んでいることは容易く感じ取れた。
他者のために身を捧げられる者は強い。
同時に自身の価値を下げがちになることもある。
「お願いです、雪平」
真剣な瞳をする茜色に見つめられ、しばし間を置く。
烏丸が彼女の横でついに舟をこぎ始めても、茜凪は視線を逸らさなかった。
しかし。
何度依頼されようとも、雪平は未だ首を立てに振ることはできない。
「退いてください、茜凪様」
「雪平……!」
茜凪が掴みかからん勢いで、雪平に一歩を踏み出そうと爪先を立てた時だ。
ずるりっと真横の存在が僅かに消える。
え? とそちらへ視線を向ければ、眠気に耐えられなかった烏丸がついに畳へと突っ伏してしまったのだった。
「ほら見なさい」
「か、烏丸……」
「貴女より僅かに軽傷である凛殿だって今は休息が優先なんです。本当に体や妖力の現状について理解をしているのであれば、今はひとまず退いてください」
酒に溺れた日でない限り、普段は寝落ちなどしない烏丸。
徹夜なんて朝飯前であることは彼の体力を知っているから茜凪には理解できた。
いかに今の彼の調子が万全から遠いのかを。
彼が事切れたかのように倒れ込み、畳に頬をつけて眠ってしまえば茜凪は少々自らを省みた。
早急に取り掛からなければならない事柄だが、流石に短時間で焦りすぎているのではないか、と。
「……わかりました。また明日、頼みにきます」
「とりあえずはそうしてください」
烏丸の寝顔を見ながらテキパキと彼へ布団を用意し始める雪平。
移動する力もないだろうから、烏丸は彼の部屋で眠るだろう。
相棒を任せる意味と、部屋から退出する意味で一礼した茜凪は、雪平の困った顔を一瞥しながら障子戸を開け放った。
時刻は黎明時にはまだ及ばない。
しかしながら空の深みが浅くなってきている。
東と西を比べたら、区別ができるようになる程度には。
「―――無事に江戸まで撤退できたでしょうか……」
ぽつりとこぼした声は誰からの返答もなく消えていく。
やがて心を落ち着かせてから茜凪は歩き出すことにした。
割り当てられた自室へと歩き出した茜凪の影が消えるのを障子越しに見届けた雪平は、らしくもなく鼻から長い息を吐き出す。
烏丸の寝支度を整えてやった後、居住いを正して瞼を閉じた。
【雪平って半妖なの……?】
【妖同士の子じゃないってこと……?】
【妖力の種類が違うと思ってたんだ……。僕たちのものより恐ろしいんだもん】
【稀他人との半妖って……じゃあつまり、雪平は―――】
―――双眸を落とすと甦る過去。
望まずとも与えられてしまった境遇に何度傷つけられてきたことか。
【 妖じゃなくて化け物だね 】
後ろ指さされ、追いやられた郷里。
傍にいない母と息子を守れるように修行に明け暮れる父。
だが幼き雪平が親に求めたものは、畏怖のある母でも、武力のある父でもない。
ただ傍にいて、認めてくれる父母だった。
それすらないものねだりだと己に言い聞かせながら、孤独に耐える日々の中。
とある男との出会いが雪平をまっすぐ立たせてくれたことになる。
「やぁ、雪平」
それがこの男―――春霞 環那だった。
「茜凪に話したんだね。僕のこと」
この男がいたから、辛い過去を思い出しても何も感じることがなくなった。
あの悲しい日々は、環那に出会い仕えるための必然だったのだと思えるようになったことこそが、雪平の心を構築していた。
「それに君のことも」
「……まったく貴方は相変わらずですね。俺から呼びかけてもうんともすんとも言わないのに、唐突に現れる。驚きますよ」
「ははは、よく言うよー。慣れっこのくせに」
背後に感じさせる環那の気配。
重厚感のある白い光が室内を照らすような印象。
雪平は敢えて振り返ることはせずに、環那に背を向けたまま瞼を落としていた。
それでいいという風に、環那の魂も彼に語りかけ続ける。
「僕の妹は一筋縄ではいかないようだね」
「ある意味で覚悟はしてました。環那様の妹君でいらっしゃいますから」
「そんなに褒められても照れるじゃないか」
「褒めてません」
ぴしゃり。と反論する場面で雪平が目を開ける。
くすくす笑う気配は止まず、鼻歌でも聞こえてきそうな雰囲気で環那は続けた。
「九頭龍の修行、させてやってくれないか」
「……」
「茜凪なら大丈夫だよ」
障子の隙間から覗く空。
徐々に白ばみ始める方角を見つめながら、環那は呟くのだ。
「地下に残っているはずの事実も茜凪には伝えなきゃならない。そのうえで九頭龍と白狐は大きな関わりがある。今遠のけても、いずれ対峙すべき問題だ」
「失礼を承知で申し上げますが、茜凪様は環那様ほど能力も身体も妖力も精神力も出来あがっておりません。今臨めば死する可能性だってあります」
「死なないよ。茜凪は」
やけにはっきりと断言する環那に、雪平は首を傾ける。
体ごと振り返ろうと畳に手をつけながらも、彼はいつもより饒舌に続けた。
「茜凪は僕より強い。僕が見つけられなかったものを、彼女は持ってる」
「え……」
「認めてやってくれ、雪平。茜凪なら乗り越えられる」
雪平がついに振り返る。
刹那、白い光は嘘だったかのように薄暗い室内が広がっていた。
気分屋とも言える彼の姿を、今日は拝むことができないようだ。
ただ一言。
環那は残して消えてしまった。
「愛を知り得た白狐は強いから」