51. 兄弟
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ぼんやりと瞼を押し上げてみれば、見慣れない天井が目に入る。
嗅ぎ慣れない匂いでもあるのに、懐かしさを感じるのはきっと茜凪の幼少期の記憶が呼び醒まされているからだ。
「ここ……朧の、屋敷跡……」
目覚めてからようやく動き出した感覚。
それらが茜凪は春霞の里に隣接した朧の里に滞在しているのだと教えた。
雪平の居住区がどうやら朧の跡地側にあるようで、それが理由だろう。
呆然としながらも動かそうとする腕がいつもより重たい。
指先を動かすことはできるが、腕が持ち上がらない。
動きづらさを解消する一歩として、一度ギュッと瞼を閉じて開く。
その後、首を横に向けれた茜凪は、隣で眠る別の者がいることに気付いた。
「狛神……」
呼吸は安定していて、顔色もまぁ甲府から立ち去る時よりはいい。
静かに眠る赤髪の妖犬が、一定の距離をあけて眠っている。
同室に男女を寝かせておくなんて。とは思ったが、どうやら狛神だけがこの部屋を利用していたわけではなさそうだ。
ところどころに落とされた包帯。
手当に使う当て布や血を拭き取ったあとの手ぬぐい、薬草の残りも散乱していた。
他にも敷布団がいくつか出されていて、襖を開け放った奥へと続いている。
続く隣部屋には、烏丸 子春が眠っているのが見えた。
つまり―――ここは応急処置の部屋である。
茜凪が理解した頃、静まっていた部屋に戸が開く音が聞こえてきた。
「よ。大分意識がしっかりしてきたみたいだな」
現れたのは、相棒である烏丸 凛。
久しぶりのゆっくりした再会だと思えたのは、茜凪だけではなくお互いのはずだ。
疲労を訴える顔をした烏丸もかなりの傷を負ってたはず。
頬や首、腕など至る所に手当てが施してあった。
未だ力が入らない体に鞭打って起き上がれば、寄り添って手を貸してくれる烏丸。
「無理すんな。さっきまで狐になってたんだから」
「やはり、姿が変わってましたか……」
「綴と雪平に声かけてきたから、もうすぐ来るぞ。診てもらえ」
「ありがとうございます」
妖力の調整がうまくできない中での戦いだったとはいえ、姿が変化してしまうくらい弱り切っていたとは。
烏丸の口から聞いた事実は、茜凪を少しばかり落ち込ませる。
このまま詩織との再戦に臨むには、弱すぎることを痛感した。
換気のために部屋の障子戸を開いてくれた烏丸。
空に大きな存在感をみせる綺麗な月が目立つ。
思わず全てを忘れて見惚れそうになるが、自身に心で叱咤して茜凪は彼に尋ねた。
「状況は……?」
月を見ながらも心が休まることはない。
仕方ないと共感をしてくれた上で、烏丸はゆっくり答えてくれた。
「爛と狛神が重傷。茜凪、お前も重傷者だったけど怪我というより妖力が底を尽きて生命活動に支障が出るんじゃないかっていう判断だったらしい。いま回復してるなら大丈夫そうだな」
「はい……」
「爛は重傷っていっても命に別状はないから動いてるしな。多分休めば大丈夫だ。狛神は……時間がかかるかもな」
「……」
「綴と雪平はほぼ無傷。子春は意識が戻ってないが命に別状はない」
簡潔に伝えてくれた状況に、死傷者がいなかったことに胸を撫で下ろす。
詩織が獣化し、青蛇という男が赤楝の姿となり参戦。
大量の羅刹が投下された中での戦は、勝利とも敗北とも言えない結果に終わった。
残された謎を手繰り寄せながら、ここからの戦いに向けて行動しなければならない。
「重丸くんは……?」
妖界のこと。
詩織のこと。
羅刹のこと。
それらを片付けるのは当たり前だが、そんなことより茜凪は一番気にかかっていた存在について改めて尋ねた。
縹の羅刹によってこの地へ誘拐されてきた―――重丸についてだ。
「重丸も無事だ」
返ってきた返事に、最大と言ってもいいほどの安堵の息が漏れた。
早鐘を打っていた心臓が落ち着いていく。
「よかった……」
「敵に施された術でまだ眠ってる。水無月によれば大した術じゃないからそのうち起きるってさ」
重丸が京から相模まで来てしまったこと。
きっちり送り届けなければと考えながらも、体が不自由で仕方ない。
今は休むことが先決だと思い、ゆっくりと呼吸を整えた。
しばしの無言の時間が続く。
障子戸に寄り掛かりながら外を見つめる烏丸と、布団の上で半身だけを起こして月を眺める茜凪。
どちらも考えていることは―――同じことだった。
「―――影法師の呪縛、解けたんだってな。最初、気配が変わりすぎてて本当にお前だって気付かなかった」
「そうですか……? あんまり自覚がなくて」
「すげー変化だぜ。今まで以上に強者なんだって肌で感じる」
「それでも……詩織と渡り合うと言うにはギリギリすぎました」
茜凪の言葉に烏丸は返事をしない。
自虐で述べた言葉ではない。慰めてほしいわけでもない。
詩織との力の差を見せつけられ、感じた危機感から出たもの。
「茜凪はあの立派な太刀で詩織に強烈な一撃を浴びせただろ」
「……」
「お前だけじゃねぇ……。俺だってもう少し通用すると思ってた」
思わず茜凪が月から視線を逸らす。
烏丸も自嘲しながら月を見つめるのをやめ爪先が視界へ入るよう顔を下げてしまう。
「私……あの白い太刀のこと、何も知らないんです。詩織への一打も、たまたまと言える一撃でした」
果てしなく月夜が続く。
光の中に影が伸びる、静かな夜。
茜凪と烏丸は、どうにも溜息が止まらない。
だが、誰もが諦めはしなかった。
「だからこそ、やるべきことがいくつもあります。強くなるために技を磨かなければ」
「それに、敵の狙いの理解もな」
「えぇ」
爪先に向けていた視線を再び月へ向ける。
やることは多い。
その中でも最初にやるべきはもう一度戦えるように自らを調整することだ。
互いに言葉を途切れさせながらも、月光が伸ばす影の領域を茜凪は感じ取っていた。
春先の匂いとまだ夜の冷たさを風が運んでくる。
懐かしさを感じるそれは、きっとこの地で夜風を浴びるのが初めてではないからだろう。
反省を繰り返す最中……―――茜凪は烏丸の異変に気付き、視線を向けた。
「……―――」
研ぎ澄まされた感覚を直感と呼ぶのだろうか。
いや、この感覚は白狐が持っている血の特別な力だ。
直感能力の開花が幼少期より現れ、強すぎた影響で里を失ったあとは孤独な時間を過ごしたこともある。
「そういえば茜凪、一と再会できてよかったな」
「……」
「ちゃんと気持ちをぶつけ合えたか?」
異変を察知する能力でもあるこの力は、ありとあらゆる形で変化を茜凪に教える。
匂いや肌を刺す空気、視線や言葉の重み、音。
五感で感じられる以外にも、胸につっかえる違和感があることも。虫の知らせとでも言うのだろうか。
今回、茜凪にそれを与えたのは視界に映る景色と、匂いだった。
「驚いたな、一や総司が洋装でさ。断髪までしてて……和服も似合うが、あいつら筒袖も似合うんだな。動きやすそうだし、洋装に興味が湧いたぜ」
「烏丸」
「ん?」
茜凪に視線を合わせずに、月を見上げたまま戸に背を預ける天狗はぽつぽつと感想を述べていた。
話の腰を折り、布団の中から茜凪はゆっくりと―――遠慮なく問いかける。
「どうして迷っているんですか」
「―――」
「爛と話したいことがあるのではないんですか?」
直感でなくても予想ができること。
だが、力により寸分の狂いなく断言できた事実に踏み込む。
彼はこちらを一向に見ようとしないが、漆のような瞳を僅かに見開いたのだろう。
「私のことより、爛のもとへ行った方が……」
「―――なんだよ。白狐様は相変わらず全部お見通しすぎて怖いぜ」
「力が働いてしまったことは謝ります。でも……」
烏丸は苦笑いを浮かべていたのだろうが、一向にこちらを見ることはなかった。
乾いた笑みと声をしながら、再び月から視線を落としてしまう。
その横顔は、とても複雑なものに見えた。
茜凪はそんな友にきちんと寄り添い、話を聞きたくて……―――妖力を込めて体を起き上がらせる。
状況的にはかなりの無理をすることになるが、今ここで彼に寄り添わずに友であるとは言えないと自身に言い聞かせた結果だった。
戸に寄りかかる烏丸に対して直角の位置に座り、障子に背を軽く預ける。
茜凪の視線からは室内が見渡せる代わりに月は完全に見えなくなった。
顔を見てだと言いづらいかと思い、敢えて視界に入らない場所に座ることにしたのは茜凪の気遣いだ。
「俺、やっぱ怖ぇのかな」
「怖い?」
「爛と……向き合うこと」
「……」
「甲府でさ、爛に対して“泣いていい”とか“頼ってくれ”とか偉そうなこと言ったくせに結局詩織に手も足も出なくてさ」
烏丸の声は至って平静だ。
自嘲するような笑みが含まれているが、物静かなもの。
しかし、彼の指先がこれでもかというほどに力が込められていて、震えているのは茜凪の視界に入っていた。
投げ出された手が、畳の上で拳を握っている。
「情けなくて、かっこわりぃ」
「……」
「爛はあの状況で、命を投げ出す代わりに全ての者を守る決断すらしてた。同じことが俺にできたか考えると……覚悟が決まったかどうか」
「……」
「やっぱ爛ってすげーんだなって思って……」
―――もし、烏丸の血筋に与えられた宿命があるとすれば。
それは“劣等感”だったのかもしれない。
春霞に与えられた宿命は“愛を理解すること”で、烏丸は“劣等感を乗り越えること”。
爛に劣等感を与える人物が環那だったのだとしたら。
凛に劣等感を与える人物はきっと爛なのだろう。
今まで関わってこなかった兄と本気で向き合うことは―――凛にとっては難題なのかもしれない。
「俺さ、爛の気持ちがわかるんだ。もし、自分が心から信頼して、尊敬して、憧れてた親友が……俺に黙って命を投げ出す選択をして、自己犠牲で世界を救ってしまったとしたら」
きっと。
「“他に選択できる道があったのに、頼ってすら貰えなかった俺は無力だ”って」
「……―――」
「大切だった相手なら尚のこと。失うことも、無力さも、もう二度と思い知りたくないから、大切なものを二度と作らないって気持ちが……わかる」
茜凪は月夜に照らされる部屋を見つめていた視線を、閉じる。
暗い空間。真っ暗な瞼の奥で、親友の声を聞いていた。
「そんな兄の弟だからこそ、俺は兄貴に頼ってもらえるようになりたいと思った。爛を支えたいと思った」
ぽつりぽつりと拙く投げ出される丸裸の言葉を、茜凪は聞き届けていた。
思えば、こうして烏丸が悩みを打ち明けるのも久方ぶりだ。
いつもは茜凪の悩みを一緒に解決するために、彼が話を聞いてくれることの方が多かったから。
「だが、結果がこれだ。俺は結局、爛に頼って貰えるような妖じゃない。爛より弱いくせに、そんな相手に頼りたいと思えるわけがない」
最後の紡ぎが終わる頃、泣いてしまっているんじゃないかというくらい切ない響きをしていた。
茜凪はゆっくりと瞼を開ける。
そして……―――拾い上げた言葉ひとつひとつを、繋いでいく。
「爛は、妖界の中でも屈指の強者が仲間に欲しかったのでしょうか」
茜凪が吐き出した問い。
烏丸は反応がないまま、続きを聞く。
「強い仲間が側にいてくれることを望んでいたのでしょうか」
「どういう意味だよ……?」
「私が爛なら、甲府での烏丸の言葉はとても嬉しいと思ったので」
「は?」
意図と脈絡が掴めないからか。
烏丸が怪訝な様で茜凪の方へと視線を向ける。
その目に涙がないことに安堵し、茜凪は敢えて彼から視線を逸らした。
「爛は、自身の無力さや劣等感を補ってくれる強力な仲間が側にいてくれることを望んでいたわけじゃない。それらが手に入ったとしてもきっと里から出ていき、今に至ると思います」
「……」
「実際、旭さんだって妖界屈指の強者ですよね。北見の血を引いてますし、水無月だって純血でなくとも実力はあります。彼らは今でも爛の仲間ですから、烏丸の説で言う“頼れる相手”という意味ではこれ以上ない面子なのでは?」
茜凪は続ける。
それでも、爛は里を抜け、風来坊として幼馴染たちと行動はせずに一人で生きてきただろう?と。
「そうではなくて、“ダメな自分を許し立ち上がるために、一緒に頑張ってくれる存在”が必要だったんだと思います」
「―――」
「物理的な強さを求めているのではなく、精神的に支えてくれる相手」
「……っ」
「烏丸、あなたが私にしてくれるように」
思わず瞼を押し上げた烏丸。
息を呑み、言葉を詰まらせてしまう。
茜凪は彼の顔を見ることなく視線を落として微笑んだ。
烏丸がしてくれた数々のことを思い出す。
彼がかけてくれた言葉や、時には言葉をかけずに側で鍛錬を積んでくれたこと。
ただ、一緒に荊の道を歩き続けてくれたこと。
それらはすべて、茜凪が茜凪として生き続ける勇気を与えてくれた。
「そんな視点で考えると、甲府戦で爛に告げた言葉たちはこれ以上ないほど彼に勇気を与えたんじゃないでしょうか……。少なくとも、私が爛なら嬉しかったです」
「……っ」
「“凛、貴方が弟でよかった”と」
月夜が照らす部屋。
気配のない外の空間。
響く音は季節外れの虫の声。
しばしの間、二人の鼓膜にはそれ以上のものは響かなかった。