いつからだったか。
自分の名前を呼ばれることを、苦しく思うようになったのは。


「やーい、お頭の息子！」


「いやいや、息子じゃなくてお嬢さんだろー？」


「ちがう！俺は男だ！」


「えー？だって名前が凛っていんだぜ！女みたいな名前だよな！」


「凛ちゃーん！」


「ふざっけんな！これは俺の母さんがつけてくれた大切な名だ！ばかにするな……！」


「凛ちゃーん！」


「きゃーかわいいー！」


誰も信じたくなくなったのは。
世界が、すべてが、敵みたいに思えて苦しかった。


「凛……また喧嘩したの？」


「母さん……」


「こんなに汚れて……。あんまり危ないことはしないでね」


「……、心配しすぎだよ。遊んでただけだから」


生まれて初めて親からもらった贈り物が、馬鹿にされる理由だなんて、絶対に言いたくなかった。
悲しませたくない。この名を付けたことを後悔させたくない。俺のことで母さんを苦しませたくない。


「そうなの？爛も里を出てから手紙も来ないし……。母さん心配しちゃって」


母さんが俺に干渉しすぎることなんてなかった。だけど、心配をたくさんかけたのはわかる。
当時も、今でも、温かくて、強くて、優しい母だと思う。いつも俺の背中を押してくれていた。


大切だからこそ、言いたくないことがある。
大切だからこそ、頼りたくないことがある。


ぐるぐると頭を悩ませる、里の仲間との関係。
相手はふざけているだけで、子供ながらのからかいだとわかったのも年を重ねてからで、当時の俺は誰にも言えない、苦しい事柄ばかりだった。


現頭領の息子。
その息子として優遇されたことも多々あったけれど、当時は兄の爛が旅から戻ったら次期頭領になると噂されていたので、俺に向けられる好意など殆どなかった。
次期頭領になるのは俺だと決まった今となっては、俺をからかっていた奴らとも関係は悪くないし、きちんと謝罪もしてもらったこともある。
気にしても無駄だ。本当に謝りたかったのか、それとも俺が頭領になると決まったから謝ったのか。
後者だとしても俺は相手をボコボコにした過去を持っているのでおあいこだ。
それに……


「“凛”って素敵です。真っ直ぐで美しい感じがします」


この数年後に出会った存在は、聞き及ぶ“あの”狐だった。
なのに、天狗である俺を認めてくれた。


迷った時、苦しい選択をする時、悲しい別離を受け入れる時。
俺は心の中で問いかける。


『　俺は今、この名に相応しい生き様を示せているか　』


と。
真っ直ぐに、正しく。
美しいと誰かが言ってくれるような……。


茜凪に出会わなければ、俺は俺を愛することができなかった。
人を傷つけるだけの、暴力的な男になって、そのまま里を導く存在になっていたかもしれない。


恋慕ではない。
ただ、あの日の茜凪がいなければ俺は救われなかった。一歩を踏み出すことができなかった。
あいつは俺がそんなことを感じているなんて、考えたことないだろうけど。
そんな茜凪に幸せになってほしいのは、俺の願いだ。


そのために、必要な一歩ならば。
覚悟を決めなければならない。


いつからか、呼ばれることが苦しかった名前は、俺の道標になった。
敵ばかりに見えた世界に光として現れたのは、嫌悪の対象として一族に伝わっていた妖だった。


「―――……茜凪」


脳裏にふつふつと蘇った、子供の頃の思い出。
茜凪の幼い顔が浮かぶ。
ずっと一緒だった。
失いたくない相手だった。
初めてできた友達。


そいつと今日、俺は命を懸けて……



「俺はお前に嘘をついた」




第五華
真友





びりびりと足の裏に電流が流れるような感覚がする、と狛神は思っていた。
心拍数が異常にあがる。呼吸が浅くなる。本能的に体が殺気に怯えているんだと理解した。
生唾を飲み込み、この先がどうなるのか……彼には予測がつかなかっただろう。


対峙した茜凪と烏丸。
茜凪の情緒が不安定になったからか、彼女から無意識の領域で放たれる力が空気や音、地面からも伝わってくる。
狛神も茜凪や烏丸と付き合いは長かったが、初めて茜凪を純血の狐として意識した瞬間だったかもしれない。


「茜凪……烏丸……っ」


茜凪の駄々漏れの殺気に対して、烏丸が真正面から対峙していることにも驚く。


「あいつ……っ、この空気の前で……」


―――こんなに堂々としていられるほど、器量のある男だったか……？
ふと狛神の意識にそんなことが浮かんだ。


烏丸が謝罪し、平謝りして終了だと思っていたのだが、どうやらそうはいかないらしい。
狛神も今ここに来たばかりで、尚且つ烏丸から茜凪がここにいる理由は茜凪と同時に聞いたので、彼がどうしてこんな行動に出ているのか全く理解できない。


「（だが、あの馬鹿な烏丸がここで引かないってことは……）」


なにか事情があるのか、と汲み取る。


だが茜凪も茜凪で、友である烏丸が謀るとは思わなかったのだろう。
そして新選組関連であると予想していなかったこともあるのか、怒りが隠せないほど感じられる。


「どうゆうことですか……私を、新選組から遠ざけるためって……」


わなわなと、茜凪の体が震えている。
今日に至るまで、彼女は彼女でほぼ軟禁されていたとも言える状況。その理由が伝えられていた『烏丸の里で情報を集める』というものではなく『新選組から茜凪を遠ざける』だったことが許せないようだ。


「私は……ッ、この里に情報を集めるために来たんです……！」


「……」


「なのに役目を与えず部屋に居ろというのもオカシイ話だと思いました……ッ、貴方が私に嘘をつくなんて……！」


「茜凪」


「今更……ッ、今更新選組に関わるなと言うんですか？貴方が……？私と同じくらい、彼らに関わった貴方がそれを言うんですか！！」


茜凪の腕が少しずつ刀に近付いていく。
烏丸は真剣勝負を受けて立つというように、呼吸をゆっくりとし、整えた。
そのまま茜凪の腕が動いていくのを見届けつつ、彼も刀に腕を添えていく。


「まさか戦る気か……ッ！？」


思わず狛神が声をあげる。
この状態、理性を失った茜凪と同等に渡り合うなんて無理だ。詩織戦を思い起こされるような狐の心情に、狛神が己を鼓舞して刀を手にする。


巴状態で睨み合う三人の騒動に気付いたのか、蔵の方から子春が出てくるのも凛は視界に入れていた。


「若様……！？」


ただ、子春も狛神と同じく足裏や肌で感じる殺気に尻込みしてしまう。
こんな強い思いから生まれる妖気を感じたことがなかったからだ。


「茜凪、お前に嘘をついたことは悪いと思ってる」


先に剣を握り、抜刀したのは烏丸だった。
その声は、茜凪の殺気を受けつつも冷静であり、一国の主になる男と言っても過言でない貫禄があった。
烏丸は茜凪を恐れていないのだ。


「でも俺は、間違ったことはしていない」


「……ッ、それは人と関わるなという、妖界の習わしに従うべきだからですか……！？」


「違う」


「……――」


茜凪の目が見開かれる。
違う。掟や規則を遵守して、茜凪を新選組から遠ざけたわけではないという。
そのことに少なからず傷ついた茜凪がいた。


なら、何故だ。と。
なんで私を止めるんだ。と。
そして止めるのが、どうして烏丸なんだ。と言っているように狛神には見えた。


「俺は、俺が正しいと思う選択をした」


「―――」


「その選択を信じてる」


―――斎藤　一の願いを託され、それを受け取った。
いつか、茜凪と一をもう一度出会わせるために。
今、茜凪を人の世の戦で死なせないために。


「なら、貴方が選択した答えを教えてください」


完全に柄に手をかけた茜凪が瞳の色を茜色に変えた。
空気の中に弾けるような火花が見える。
妖力が強すぎて、可視化され始めていた。


「答えによっては、私は貴方を許しません」


ついに抜刀された茜凪の刀。
刀の反射に、狐の形をした青い炎が映し出されたように見える。
彼女は本気だと、烏丸も覚悟した。


【一、
お前……茜凪のこと、好いてくれているんだよな？】


【……あぁ】


茜凪と烏丸が抜刀した刀を構えたのは同時だった。
互いに腰を落とし、爪先に力を入れ……地面を蹴った。


【俺は茜凪を好いている】


烏丸の耳に木霊した斎藤の声は、爆風に掻き消されていった……。