36. 桑弧蓬矢
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「ここ……?」
慶応四年 三月。
日付が変わる時刻のこと。
ついに江戸市中に到着した茜凪が、思わず声を漏らしたのには理由がある。
狛神と合流するために出した文に返事があった。
来るように依頼された場所は、どう見ても誰かが所有しているであろう小さな民家。
人通りも少なく、まるで隠れ家のような場所にある住まいに狛神は滞在しているという。
てっきりどこかの旅籠か、茶屋で合流するものだと思っていたので、ここまでしっかりした居を構えられると警戒を隠せなかった。
「茜凪様、俺が中を見て参りましょうか?」
春霞の里で出会った―――正しくは再会した―――雪平が、茜凪が臨む戦に参戦することになった。
同行してくれることへの感謝をしつつも、茜凪は雪平の行動を制する。
「いえ……狛神の気配があるのは間違いありません。雪平は外で見張りを」
「まさか一人で行くおつもりですか?」
「狛神を信頼してます。危険は及びません」
「それでも危機感を持って警戒すべきです。狛神殿を利用して敵が潜伏している可能性も……」
「雪平」
雪平と箱根を出てから江戸に来るまで、茜凪は分かったことがあった。
山を下り、東海道に沿って江戸まで入り、そこから千駄ヶ谷まで来たのだが道中は色々なことがあった。
事あるごとに茜凪を守る姿勢でいる雪平が目立ったのだ。
故に、彼の行動の真意を正さなければと感じている。
ぴしゃり。と言い放った言霊には僅かに妖力が乗ってしまった自覚があった。
「私はもう子供ではありません」
「茜凪様……」
「先にも述べたように、これは私が命を懸けて臨む戦です。危険があるのは承知の上。気遣いはありがたいですが、私は雪平に守って頂きたいなど考えてません」
ぐっと言葉を飲み干したような表情の雪平。
ここで茜凪は雪平に対して、二つ伝えておきたいことがあった。
ひとつは雪平を『護衛として連れてきたわけではない』ということ。
自分の身は自分で守るから、盾になってほしいとは考えていない。小鞠の時の二の舞にはならないように努めた結果だった。
そしてもうひとつは……―――
「それに、もう少し私を信用してください」
「……―――っ」
「雪平からしてみれば、私はいつまでも幼いままかもしれません。ですが、白狐として……多少は自覚が芽生えてます。そう簡単には倒れません」
茜凪の実力を信じてほしいという願いだった。
道すがら、子供扱いをされるのは何故かを考えていた。
雪平の立場になり、考えながら頭に過ぎるのはいくつかの事実。
幼い頃、雪平が茜凪の面倒を見ていた頃があり所謂“傅役(もりやく)”としての感覚が抜けていないのかもしれないとは思っていた。
再会してからも身の回りの世話をしてくれているし、これは間違いない。
また、雪平とは十年以上の時が空いている。
七つになったばかりの頃に起きた春霞滅亡。以降は離れて暮らしてきたので、彼の中でも時が止まっているのだろう。
だからこそ落ち着いて、冷静に子供ではないということを伝えたかった。
もうひとつの理由。
それは、“狢磨 雪平”という男に対しての核に触れている気がした。
「信頼してください。とは言いません。ですが、信用してもらいえるよう―――」
そこまで言いかけた時。
振り返り、雪平の顔を見上げ思わず言葉を詰まらせた。
複雑そうに目を見開いた後、困ったように眉を下げて俯く彼がいたからだ。
垂れ目の瞳が更に目尻を下げている。同時に自嘲するように口角は上がっているものだから、彼の胸中を汲み取れなかった。
「すみません、茜凪様……。差し出がましい真似をして」
ぽつり、と零された詫び。
続く言葉を吐かなければ、彼の心が少しばかり心配だった。
が、間違ったことは言っているつもりはないし、訂正する気もない。
雪平の心の内がわからず、どうしても二の句が―――出ない。
「では、俺は外で辺りの見回りを。狛神殿との話がまとまり、次の行動が決まったら教えてください」
そうこうしているうちに、雪平は江戸市中を見回るために民家を後にした。
茜凪は彼の意外な姿に呆然と立ち尽くしてしまう。
どんな心持ちで、あんな顔をするのか気になってしまった。
「……傷つけたかったわけではないのに」
幾度と感じていた、雪平の中にある忠誠。
それらは茜凪にではなく、環那の願いであるという一点に向いている。
彼も爛と同じく―――実は環那の死から立ち直れていない一人なのではないかと思えた。
つまり、茜凪の今の一言は、環那に通ずるものがあったのかもしれない。
瞳を見据えても、直感能力で雪平の想いを汲み取れなかった。
力に頼るばかりではなく、心の距離をしっかりと保っていかなければならないと感じる。
それは、旭に対しても爛に対しても同じだ。
烏丸や狛神、水無月のようにずっと側にいてくれた者たちと同じ長さの時間を重ねてきたわけじゃない。
今から積み重ねて理解しなければならないんだと痛感する。
一方、市中に飛び出た雪平も民家から距離をとり、その上で足を止めた。
ため息ひとつ。
地面を見つめる縁取りのある垂れ目は現実ではないどこかを見つめている。
「環那様……」
―――彼は彼で、抱えた心の傷があった。
環那の死によって齎された影響。
友人が死に、その友人に頼ってもらえなかった・力になれなかったことを引きずる爛を『立ち止まった者』と表現するならば。
雪平は、環那の死を受け入れられないまま『後ろ向きに歩き続けた者』だ。
【 雪平、もう少し人に頼り、他人を信じることを覚えた方がいい 】
【 …… 】
【 世界はお前の敵ではないよ 】
環那に過去、告げられた一言が鮮明に蘇る。
他者と距離をとり、一番最初に忘れ去られるのは声だという。
そして最後まで残るのは匂いである。
だが、雪平の中で環那の声は未だに鮮やかに響いていた。
視線を落とした地に、斑の模様が生まれ始める。
ぽつりぽつりとシミをつくる水滴に、雪平は天を見上げた。
「これは……本降りになりそうですね」
曇天の空から生まれた涙は、江戸の町を呑み込んでいった。
第三十六華
桑弧蓬矢
雪平と別れてすぐに雨が降り始めたこともあり、茜凪は民家の中を訪ねることにした。
時刻は日付が変わってすぐ。
夜も更けているので、狛神が体を休めていることも考える。
正面から飛び込む前に、庭先に回り込み様子を伺うことにした。
小さな門を潜り、竹垣を回り込んだのちに縁側が見えた。
すぐそこの戸に灯が燈っている。
起きているのかもしれないと、障子越しに小さく声をかけることにした。
「狛神」
彼の名前を一度呼ぶ。
しばし間を待ち、反応がないことを確認した。
「狛神。私です、茜凪です」
もう一度声をかける。
雨が降り始めたこともあり、音量が足りないのかと思った。
行儀は悪いが、戦闘になった時のため履き物はそのまま、縁側に上がり込む。
戸にぎりぎりまで近付いてから、中の物音に耳を傾けた。
僅かに畳が軋む音、羽衣が掠れる音。
どうやら中に誰かいるらしい。
気配は二つ。
ひとつは狛神で間違いなさそうだが、いつもよりどこか弱々しい気がする。
休んでいるからか? と思いつつ、もう一つの気配に集中しようと思った。
そして茜凪は眉を顰める。
意外にも、気配に覚えがあったからだ。
「(この気配……)」
ふと意識がそちらに向きすぎた。
次の瞬間、スパンッ!と開いた戸の奥から茜凪を捕らえる者の動き。
油断をしていたわけではないが、身構えて退こうとした時には腕を掴まれる。
「!?」
力強く抵抗できない、とはお世辞にも言えなかった。
速さはあるが、強さはあまり感じられない。意図的に力を抜かれているわけでもなさそうだ。
連れ込まれた室内で背中が畳にぶつかると同時に、側面で人影がちらつく。
そちらに視線を向け切る前に、相手が肘を立て体制を整えようとした。
だが相手の方が早く茜凪と天井の間に入り込んできた。
「久しぶりだね。茜凪ちゃん」
履き物を履いたまま、畳に投げ出された茜凪。
その横から顔を覗かせ、彼女の両手首を畳に押し付けるように掴む相手。
筒袖を身に纏い、髷も断髪した姿の男……一瞬、誰だか分からなかった。
行燈に照らされた表情が、にんまりとした笑顔だったこと。
緑色の瞳と痩せ細ってしまったが端正な顔立ちは、見覚えのある彼だった。
「おきた、さん……!?」
「あれ。呼び方戻っちゃったの? 前は“総司さん”って呼んでくれてたのに」
素っ頓狂な声をどうしても引っ込めることができなかった。
茜凪からしてみれば、狛神との合流地点に洋装に身を包み、断髪した沖田がいたのだから。
いろいろな疑問が浮かんできては、消えることなく増していくばかり。
覆い被さられているわけではないが、手首が捕まれているので動くに動けない。
どれから問うか迷った挙句、茜凪は一番強い疑問を沖田に尋ねた。
「沖田さん、どうしてここに……? それに、その筒袖と髷……」
「あぁ、これ? 土方さんが拵えたんだよ。薩長と戦う上で今は洋装の方がいいからってさ」
返ってきた答えは、続け様に出た二つ目の答えだけ。
何故彼がここにいるのかは分からない。
だが、よくよく凝らして見てみれば―――茜凪の直感能力がしっかり働いてしまう。
まるで沖田は自ら言いたくないから、能力で察してくれとでも言いたげな表情だった。
「(病が……)」
労咳が進行していることがわかる。
肺のあたりの翳りが濃く、病魔が体を巣食っている。
思わず目を見開いた後、沖田から顔を逸らしてしまった。
「目が合わせられない程、僕の病魔は進んでる?」
「……っ」
「鬼副長が治せ治せってうるさくてさ。おかげで今回の行軍は留守番だってさ」
京にいた頃のように、意地の悪い発言ばかりする彼に茜凪は意地で視線を戻した。
真正面、やや自身より上に来る位置に沖田の瞳がある。
この悲しい事実から逃げたくない。
受け止めるべきだと分かりつつ、気を緩めると顔を背けたくなる。
意志を持ちながら彼を見つめ続けた。
目を背けない代わりに話題を逸らそうと茜凪は装いについて触れる。
「つ、筒袖なんて、びっくりしました……。初めて見ますが似合ってます」
「そう? それ、一君にも言ってあげたらいいのに」
「え」
沖田に対しては躊躇いも照れもなく、素直に似合っているという感想を抱いた。
さらっと口にできた点、煩悩が絡まないからかもしれない。
が、沖田から告げられた事実は頭を打ったかのような衝撃を覚える。
「僕だけが洋装だと思った?」
「……」
「土方さんが洋装だったから、会ってないけど一君も左之さんも新八さんも平助も洋装だと思うよ?」
それは……心がどこかもやっとした。
彼がどんな格好をしていても茜凪には関係ない。
なんなら茜凪も装束は以前と異なる。
衣装替えをしたのはお互い様だ。
それでも思い浮かぶのは……―――黒を纏い、白を靡かせるあの後ろ姿で。
黙り込んだ茜凪を見て、沖田はにやにやといたずら顔で笑うばかりだ。
次にどんな言葉を述べてやろうと思い息を吸い込む。
刹那、肺に痛みを感じて噎せ返り、口元を押さえ込んでしまった。
「ゲホッゲホ……っ、ゲホッ」
茜凪がようやく解放され体制を整えながら、沖田の背中をさすってやった。
押さえた口元に血が滲んでいくのが見え、また目を背けそうになった。
「沖田さん……っ」
「ゲホゲホッ……、……だいじょうぶ」
「寝てた方がいいんじゃ……。こんな時間に夜着じゃない装いで、どこ行くつもりだったんですか?」
今まさに行軍しようとでも言いたげな沖田の態度に、茜凪は胸が苦しくなった。
なんとか沖田に布団が敷いてある位置まで戻ってもらう。
そこで初めて、部屋の奥で狛神が布団で寝ている姿が目に入った。
おまけに彼の姿は弱り切った時に出る―――大きな犬そのものの姿。
「狛神……」
弱っている気配と感じたのは、彼が姿を変えていたからだ。
これで狛神と合流できた。
沖田と再会も叶った。
が、どうにも事情が呑み込めない。
一体なにがあって沖田と狛神が一緒に居たのか理解できずにいると、落ち着きを取り戻した沖田が胸を押さえながら話してくれる。
「狛神くん、夕方この通りで倒れてたんだよ」
「!?」
「妖の羅刹に毒でやられたって聞いて、松本先生に毒抜きしてもらったんだ」
「そうだったんですか……」
「背中に傷を負ってるから、それを癒すために化けてるんだって」