33. 錦絵
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慶応四年 三月上旬。
茜凪と同じ刻に一度烏丸の里へ帰り、爛に会おうと思っていた弟の凛。
だが、背中の火傷のせいで空を飛ぶことができないため、京に潜伏している仲間を一人捕まえて帰郷の計画を立てたのだった。
無事に部下の一人である―――といっても、正確には爛の部下である―――愛宕に依頼し、数十日ぶりの烏丸の大門を潜ることに成功した。
「助かったぜ、愛宕」
「とんでもない。他でもない若様の頼みですから」
「頼もしいな。悪いが復路も頼むよ」
「御意に」
「爛を探してくるから、ちょっと待っててくれ」
獣化を解いた愛宕から離れ、本殿にいるであろう兄の姿を探しに行く凛。
今回の帰郷は大分早かったので、道ゆく子供に『若様おかえりなさーい!』、『今回は帰ってくるの早かったね!』なんて騒がれていた。
歓迎してくれるのは有り難かったが、すぐにまた発つことを告げると寂しさから非難轟々だったのは些か困ってしまう。
幼い子供たちを宥めながら早足に通りを抜けたところで、凛の肩を叩くものがあった。
「ん……?」
振り返ったが、人影はない。
何事かと思ったところで、足元にクゥン……と鳴いたものがみえる。
視線を下げれば、狛犬の使いが一匹。
「狛神の……?」
可愛らしい装いの狛犬―――しめ縄を背に巻いた、つぶらな瞳の……まぁ子犬だ―――が、凛の足元をくるくると回っている。
しゃがみ込み、背のしめ縄に託された文があるのを見つけて解いた。
中を急ぎ読むように急かしてくる子犬の頭を撫でながら、凛はそれに目を通していく。
「―――重丸が……」
記されていた文言は、八瀬から出た後のこと。
京で重丸を訪ねたが彼は姿を消していたという事実。狛神は重丸の行方を探すことにしたという内容だった。
事実だけが綴られた文には、狛神の感情は何も書かれていない。
だが、思う。
恐らく狛神も、そして狛神からの手紙を読んだ烏丸も憶測した。
この時期の重丸の失踪。
間違いなく、妖が絡んでいるだろう、と。
重丸は人として生きてきたはずだ。
茜凪との語らいで、彼が半妖だと自覚があるのは知っていたが、半妖だからと狙われる理由は理解していないだろう。
そして喜重郎の息子という立場が、縹家に狙われる動機であることも。
烏丸も急ぎ重丸を探すために、爛と再会し話をしなければならない。
「伝令ご苦労。狛神にはこちらから使いを出す」
使いの狛犬には、去っていいことを告げて凛はついに走り出した。
本殿まではあと少し。
爛の部屋か、または蔵でまだ書物を漁っているだろうか。
そもそも彼は今どこにいるのか、いつだってこちらから知ることができた試しがない。
「ばか兄貴……ッ」
凛にとっての爛とは、なにか。ずっと考えていた。
凛が幼い頃、どうしてか里を出て行ってしまった兄との思い出は殆どなかった。
里の子供たちと折り合いがつかず、荒くれ者になりかけていた頃も爛の姿は側になかった。
どうして兄ではなくて、弟である凛が次期頭首として烏丸を治めるのか不思議だった。
例えば、誰もが『爛は不出来だから里を出て行ったのよ。だから貴方が頭首になることが相応しい』と言ったのならば、凛だって納得できた。
でも現実は違う。
爛がどんな兄なのか、どんな天狗なのかを聞けば、父も母も、里の者の誰もが『爛は強い』、『爛は仲間思いだ』、『爛は頭がいい』と答えた。
何度聞いても、時間を空けても、どんな者も。
凛にとっての爛。
幼き日にいる兄の記憶は、いつも縁側で座って空を見上げていた。寂しそうに。
ぼんやりと、爛が泣いていた記憶がある。
その記憶の少しあとには、もう爛は凛の前からいなくなってしまっていた。
だからこそ歳を重ねて再会した兄の印象が“爛”なのだと思っていた。
飄々としていて、どこか掴み所がない。
下心があるような言葉を並べても自然と相手にいやらしさを感じさせない不思議な空気を持っていた。
いつでも笑顔は絶やさないくせに、芯があり言いたいことは真っ直ぐに曲げない男気がある。
強くて、聡くて、自由。
世界にひとりになっても、平気な顔して生きていきそうな男。
それこそが、勘違いだったのかもしれない。
爛という男は、きっとあの縁側で泣いていた頃から、ちっとも変わっていないんだ。
寂しそうに空を見上げて、泣いている顔をこちらに見せずに、ただ静かにそこに在るだけ。
環那と赤楝を失った悲しみから、女々しいほどに立ち上がれていないんだ。
「爛ッ!」
本殿の爛の部屋に乗り込んだ。
声をかけると同時に障子を開け放ったが、部屋の中は空っぽである。
気配も温度もないので、戻ってきていないようだった。
次に向かった蔵も、結果は外れ。
眉間に皺が寄り、自身の機嫌が悪くなっていくのを感じた凛は深呼吸をしようと胸に手を当てた。
いらいらしても仕方ない。
爛の行方が掴めないのはいつものことだ。と言い聞かせる。
「くそ……」
―――今まではそれでよかった。
『爛は俺より強いから、大丈夫』という根拠のない確信があった。
今はその確信が薄っぺらい爛の見栄だと見抜いてしまっている。
幼い日に見た、爛の背中が忘れられなかった。
凛の方を向いてくれない兄。
背中を向けた彼は、ずっと空を見上げて泣いていたのかもしれない。
知らなかった。
気付かなかった。
幼かった。
忘れていた。
凛の中にはたくさんの言い訳が思い浮かぶ。
正当だと思うし、あの頃の凛が爛の思いを知っていたとて助けることはきっとできなかった。
だけど。
だけど。
「バカ兄貴ッッ!!」
叫びになった思いは、凛の中にある不甲斐なさだった。
爛が持っている情けなさ、弱さ、意気地なし、臆病さ。
すべて、弟である凛には理解できた。
同じものを心の片隅に持っていると思ったからだ。
「逃げるなよ……ッ」
同じような思考回路を持った兄と弟だからこそ、手に取るように思いがわかるようになった。
手鞠唄から風間に辿り着き話を聞いたら―――結果、話を聞いた相手は風間ではなかったけれど―――凛が爛に会いに来るのがわかっていたのだ。
だから里から行方をくらましたのだと。
弟が兄に会いにくるのが読めていたとでもいうように。
「(もし俺が、茜凪を失ったら……)」
今の凛が、茜凪を失ったら。
茜凪でなくても、狛神でもいい。
彼らが自分に黙って、ひとり犠牲になる道を選んでしまったら。
悔いるだろう。状況がどうであれ、きっと思う。
『どうして言ってくれなかったんだ。言ってくれれば力になれたかもしれない』
「いや、力になったに決まってんのに……って、思うよな」
爛にとっての環那は、凛にとっての茜凪。
想像は容易かった。
「(赤楝のことも、人かもしれないという本能からの直感を理解したうえで、一歩踏み出せなかったのなら……自分を責めるはずだ)」
深呼吸のつもりが、深い溜息が出た。
幸せが逃げてしまう、と吸い直そうとしたところで背後に足音がする。
思わず爛かと振り返ったところで、相手に声をかけられた。
「若様、伝令です」
それは、凛を背負ってきた愛宕だった。
「どうした」
「新選組に入隊命令が出ていた子春部隊長ですが、無事に入隊が確認できました」
それは子春へ出していた任務の進捗。
そして―――
「その新選組ですが次の戦場は甲府であり、子春部隊長を含め現在甲府城を目指して日野経由で行軍中。その最中、妖としての射程圏内に不審な大群の影を見かけたとあります」
「不審な影……?」
「標的はまだ未接触。ですが気配からして夥しい数であり、大量の血痕を浴びているかのような腐臭がするとのこと。恐らく縹家の羅刹ではないかと推測されます」
声を出さずに凛が目を見開き反応を示す。
甲府行きの新選組を着けているのか。
はたまた、別の理由―――江戸に留まっているのだろうか。
「若様。どうか子春部隊長と合流を。もし接触すれば、子春様も、強いては新選組の連中もただでは済まないかと思われます」
このまま爛を探し、すぐに話をしたいという気持ち。
同じくらい、子春や新選組の身近に迫る危険を天秤にかける。
凛は取捨選択に迫られ、次の言葉がうまく出せなかった。
そんな若き次期頭首を見つめ、愛宕は焦らず待ち続けてくれる。
心根の優しい部下に感謝をし、僅かな間を迷った後に凛は選んだ。
「わかった。子春と合流しよう。甲府へ向かう」
「若様……」
「もし、縹の羅刹が動いているなら詩織もそこにいるはずだ。爛もそれを察知するだろう」
ならば、爛が喜重郎の一族が暴走することを捨て置くとは思えない。
道中に再会できることに賭け、凛は愛宕に指示を出す。
「愛宕、このまま俺を子春の下へ連れてってくれ。その間に、茜凪と狛神に伝令を出す」
「わかりました」
すぐに獣化して体制を整えた愛宕に連れられ、凛は半刻もしないうちに里から旅立つのだった。
次に帰って来れる日は、結果から言えば―――この戦いに決着がついた後だった。
第三十三華
錦絵
「お、重い……っ」
爛が春霞の里から飛び立ったのを見届けた茜凪は、小田原湾が見えるすすき高原を越えて、向いの森に入っていく。
雪平から聞いていた通り、しばらく行けば小川があり、また閑静な森が続いている。
「この太刀、なんだか普通の刀より重たい気が……?」
―――先程から左腰が異様に重たい。
爛に助言された通り、茜凪は兄の墓標にあった真っ白な装飾が美しい太刀を拝借してきたのだが、その太刀が重さを訴えている。
兄が使用していた太刀だ。
詩織と戦う上で力になってくれる可能性があるし、歴代の春霞頭首の血筋が継いできたのであれば―――頭首になるかどうかは別として―――守り、継いでいかなければならないと思えた。
詩織に渡すわけにはいかない。
詩織も信念はあるのだろうが、茜凪の内にも、この戦いで曲げられない信念が芽生え明確になり始めていた。
にしても、佩いた太刀が重いのだ。
剣を手にしてから無銘の愛刀を差してはいたものの、茜凪は二本差しではなかった。
打刀の取り扱いにしか慣れていないし、太刀を佩くのも初めて。
こんなものなのかと佩いた刹那は思っていたが、異様だ。
「鈍ったのでしょうか……」
烏丸の里でつい先日までほぼ軟禁生活だった。
そのせいで体が衰えているのかもしれない。
気を引き締めなければ、と太刀の柄に触れつつ歩を進める。
小川に沿って上流に進めば、茜凪が探していた目的地が見えてきた。
「あれが……」
ひっそりと佇む、今はもう半壊した庵らしきもの。
人が出入りしている様子は今はなく、恐らく―――千与と赤楝が死んでから誰も使っていない場所なのだろう。
静かに佇む庵は、物寂しくて目を向け続けることが苦しく思えた。
もう二度と戻って来ないここに棲んでいた主を、まだ待ち続けているかのよう。
里が燃やされた時の煤が、この庵の近くまで届いていた。
入口の柱は黒く汚れ、屋根がない箇所も所々ある。
ぴん、と張られた緊張感を感じるのは何故か。
物が語る時間の経過、物に込められた思い、神聖な場所であると伝える空気。
すべてが容赦なく茜凪の肌から、嗅覚、視覚、聴覚を捉えて離さない。
庵に一歩足を踏み込めば、里にきた時と同じく―――感情が暴れ出さないか心配だった。
数拍、迷う。
だが呼吸を整えて、思い切って足を踏み出した。
詩織が残した、詩織の思考を読み取る―――この戦を止められる手立てがあれば知りたい。
正面の入口を抜けて、戸を開け放つ。
さらに正面に見える丸い障子戸は印象的だった。
円形の奥から見える森の中は、自然の庭園だ。四季折々の顔ぶれや、獣、鳥たちの戯れが感じられただろう。
丸い戸も、今はもう閉じられることはない。
壊された戸をしばらく見つめた後―――視線を床へ。
残った血痕は、もう消せそうにない。
薄汚れて、伸びて掠れた痕だったが大量に流されたことを彷彿とさせる。
膝を折り、思わず痕に触れた。
赤楝のものか、千与のものか。わからない。
古びてもう使い物にならない褥も端に置いてあり、その布にも血がついていた。
「亡くなったときのままにしておいたのでしょうか……」
ふと視線を上、左右に移す。
茅葺きと瓦が混ざった屋根は飛んでいる箇所もあり、自然光が空から降り注ぐ。
部屋の左側には数少ないが雑貨が置かれており、この辺りの世話をしていたのが詩織なのではないかと思った。
立ち上がり、雑貨や鏡台の近くへ寄ってみる。
数歩で辿り着けば、庵の小ささを思い知った。
こんな小さな場所が、千与の世界の全てだったのだろうか。
その世界には、千与と詩織しかいない。
二人はどんな語らいをして、どんな関係だったのだろうか。
「鬼である千与、人である赤楝、妖である詩織……」
詩織が千与の世話をし始めたきっかけは里からの命令だった。
親殺しとして危険視され、憐れみを覚えさせるために千与の世話係においた。
そもそも詩織が親を殺す理由はなんだったのか。
母親と父親が、人間のせいで仲を裂かれたからか。
母親が人の愛人をつくってしまったことにより、人間を許せなくなったのだろうか。
だから両親も人も、弟も殺したのだろうか。
その後、世話をすることになった千与をどう思っていたのだろう。
人を愛した鬼として、人に裏切られ末路は目と足を失った。
そんな千与を、詩織は慕っただろうか。憐れんだだろうか。それともやはり貶んだだろうか。
鏡台や小物や文が入りそうな箇所を探っては見たものの、どうやら時間が経ちすぎているようで古びて読めなくなった書物ばかり。
残念ながら有力な情報は掴めなかった。
「はぁ……」
ため息をつきつつ、茜凪は一度入口まで戻ってみる。
そこから部屋全体を見回して、倒壊の危険性すら感じさせるぼろぼろな庵を見回した。
誰もいない寂れた場所。
なのに、なにかがまだ在るような気がする。
魂の強さを感じさせる存在感。
千与の想いや赤楝の想いが眠っているのだろうか。
だとしたらそれは怨念か。
いや、怨念にしてはここは清廉な空気を漂わせている。
収穫はなにもなかった。
ただ、この庵を見ておいたことで、詩織の思いを考えることができた。
詩織から見たら、千与はどんな風に目に映っていたのだろうか、と。
丸い障子戸に背を向けて、雪平のところへ戻ろうと踵を返した。
その時だ。
パサリ。
微かな音がして、何かが落ちた気配。
風もなく、誰もいない庵で茜凪以外の何かが有った。
思わず瞬時に、無銘の柄を掴み、振り返りながら構える。
腰を低く落とし、憧れた男と同じように抜刀術を見舞えるようにしたのだが―――技は披露することなく済んだ。
そこには誰もいなかったからだ。
茜凪自身も妖ではある。
霊や怨霊などに文句をつけるつもりはないが、場所が場所なので心拍数が跳ね上がった。
命が隣り合わせになっている恐怖感ではない。
身を震わせる、別の意味の怖さが拭えない。
一体何が起きたんだろうと思いながら、茜凪は変化にようやく気付いた。
「これ……?」