32. 水鏡
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慶応四年 三月上旬。
茜凪が爛と春霞の里で会う日より、僅かに時は戻る……―――。
八瀬の里で鬼に語り継がれていた絶界戦争について話を聞き、ついに口を割った水無月から過去を聞いた茜凪たち。
茜凪は詩織についてさらに詳しく調べるべく覚悟を持って帰郷。
同じく兄である爛に話を聞くべきだと考えた烏丸も、一旦里への帰路を辿ることになった。
京に残った狛神は、過去の話にも縁があった重丸の安否を確かめるべく訪ねるところだった。
昨年末まで馴染みのあった道を行きながら、特に心配はないだろうと考えていた。
重丸がいくら縹 喜重郎の息子だといっても、今は素性を隠し―――素性を正しく理解せず―――人の世に紛れて生きているのだ。
重丸だけを狙って何かされる可能性は低いだろう。
が、鳥羽伏見の戦火は京を大きく飲み込んだのもまた事実。
怪我などしていないか確認するつもりでいた狛神だったのだが、結果、一番問題に巻き込まれる立ち位置となる。
「たしか、この通りを右だったな」
重丸の家は長屋通りにあるのは知っていたので、狛神はそちらに歩を向けていた。
ここに来るまでの間も、京の有様が如実に見えて心が痛くなる。
知っている通りや店がぼろぼろになっているのは見ていて良い気分はしない。
人の歴史は繰り返される。
それは妖も同じこと。
繰り返す中でも学び、変化を生めないかと考えてしまう。
考えることは、誰もに平等に与えられたものだ。
活かしていきたいと、水無月の話を聞きながら狛神は思っていた。
「待ってくれ、ちか!当てどなく探したところで……」
「もう待てません!あの子が……ッ、あの子が勝手にいなくなるなんて!」
長屋の奥へ来た時、通りが騒がしいことに気付いた狛神。
俯きがちになる視線をあげて、名前の通り琥珀色の視線を正面にぶつければ重丸の家の前に大人が二人。
男女であり、どう見ても夫婦であるのはわかる。
「あれは……」
話したことはなかったけれど、女性の方を狛神は知っていた。
重丸の母・ちかだ。
喜重郎の妻であり、喜重郎が去ってから再婚した男が今の重丸の義父。
どうみても人間の女と男であり、刀も差していないし妖力も感じられなない。
至って普通の町人だ。
「重丸……っ、重丸……!」
「おい」
不穏な気配を感じ取った。
重丸の母であるちかが、涙を流して倅の名前を呼んでいるのだ。
寄り添いながらも妻の暴走を止めるように制止している夫に、ひとつの予測が飛ぶ。
「なにがあったんだ」
早足で駆け寄った狛神は、ちかに声をかけた。
ちかは涙で濡れた顔をあげ、狛神を視界にとらえる。
はっとしたような表情を一瞬見せたのは、重丸を家に送り届けたときに姿を見られていたからかもしれない。
ちかも、狛神のことを知っていたのだろう。
「あんさんは……重丸と遊んでくれてた……」
「狛神だ。重丸に会いに来たんだが……」
ちかの涙腺は相当緩くなっているようだ。
心に負荷がかかっている気配がする。
狛神が重丸に会いに来たという事実だけで、ぼろぼろと涙を零す始末だ。
「重丸を……ッ、どうか重丸を探してくださいっ!」
「なにがあった」
「重丸が……っ、いなくなってしまったんです!」
予測は的中した。
ちかが泣き叫びながら息子の名を連呼している。
彼女はいまや母親だ。息子の姿が無くなればこうなることも当然だ。
「昨日の明朝、いつも通り朝家の前に出てから戻ってこなくて……っ」
直感的に人の仕業ではないと思った。
この時期、京は錦旗を掲げた薩長軍が闊歩している。
家の前で“父上”の帰りを待つ日課があった重丸を、薩長軍が攫う必要はないはずだ。
もしそうだったとして危険を感じれば家の中に引っ込めば良いし、子供が必要ならば孤児を狙うだろう。
だが、“重丸”に用があったのならば話は別。
半妖である重丸を狙う理由は、妖……―――特に縹の者にはあるのかもしれない。
「一夜明けても音沙汰もないし、鳥羽伏見の戦いのせいで今の京は薩長が治めてはって、どこに相談したらええか……っ、もう……!」
「ちか……」
「もし、もし重丸になにかあったら、死んだあの子の父親に会わす顔がない……!」
不安から泣き崩れるちかに、狛神は冷静に別のことを考えていた。
縹 喜重郎を“死んだ”と明言する元妻。
喜重郎はやはり、絶界戦争かそれに関与する何かしらの戦いで命を既に落としているということ。
そこには羅刹は関わっていなかったのだろうか。
ただの人間であるちかが、喜重郎と別離した本当の理由を知っているとは思えない。
狛神はため息をつきつつ、どうしたものかと頭を抱えた。
重丸の中には半分、妖の血が流れている。
同じ妖である以上、助けにいくのは当たり前だ。
仮に重丸がただの人間だったのだとしても、既に狛神は彼に対して情が湧いていたので結果は同じだけれど。
ただ、重丸の存在が人か半妖かで扱いは全く異なる。
「お願いです……っ、あの子を……重丸を助けてください!」
狛神の腕に縋り付くちかを、冷静な瞳で見下ろすことしかできない。
慰めるでも約束するでもなく、狛神は押し黙っていた。
「(人と妖か……)」
ふと、思い出されることがあった。
狛神とは、神と一緒に祀られる妖であり、元来人の願いを叶えるために存在するという事実を。
絶界戦争で狛神家の一部が関ヶ原の戦いの怨みを晴らすために、賊軍に回っていたが……狛神には少しだけ気持ちがわかる気がした。
人間はくだらない。
利己的で他責であり、金と権力に溺れる者が多い。いつの世も乱世で人を傷つけることしかしない。
神に縋り願うものたちは、いつだって自分のことばかりで呆れ果てていた。
幼い頃より狛神は誰一人として、願いを叶えたいと思える対象に出会ったことがなかった。
これから先も人間と関わっていくことなんてないと思っていたし、どいつもこいつも同じ狛神が思い描く“人間”だと思っていた。
だが、その“人間”相手に思考が変わってきたのはいつからだったか。
時期は覚えていないけれど、誰と関わったおかげなのかは思い出せる。
新選組。
武士の血を引いてない、田舎道場の剣術を極めた農民が一旗揚げるために京に上ってきた。
浪士組から名を改め、新選組となりどんな武士よりも武士らしい生き様を誰もが志している剣客集団。
そんな彼らと出会い、関わってきたことで、人間に対しての見方が少し変わってきた自覚が狛神にはあった。
斎藤とは茜凪を通して料亭で関わっていたこともある。
悪いやつではないし、むしろ好感が持てる部分が多々あった。
だが、意外にも狛神が一番興味を持っていた相手は斎藤ではない。
殆ど関わりもない……―――それでいて、近くにいれば目で追ってしまう底知れぬ魅力のある人物だった。
脳裏に思い浮かぶ姿を掻き消し、狛神はため息をつく。
「わかったから、あんたらは家に戻ってろ」
「ほんとうですか……!?重丸を……重丸を!!」
「約束はできねぇ。願いを叶えるつもりもねぇ。が、俺様も重丸とは少なからず関わったからな」
烏丸と話していたことが当たってしまったと思う。
新選組の屯所を襲撃し、小鞠が死んだ夜―――詩織は重丸の存在にも気付いていたはずだ。
いや、もっと前から重丸と茜凪が懇意にしていたことも。
重丸が喜重郎の息子であることすら知っているのかもしれない。
「半分でもこっち側の血が入ってるなら、助けない選択はできねぇ」
―――それが、狛神の武士道だった。
第三十二華
水鏡
―――時と場所を戻し、春霞の里にて。
雪平から千与と詩織が過ごしていたという庵の場所を聞いた茜凪は、早速向かってみることにした。
庵は森を抜け、春霞の宝といわれる高原からまた道を行き、向いの森に入っていくらしい。
しばらく行った場所に小川が流れているので、あとは上流を目指すだけだと聞いた。
通過する春霞の宝といわれる光景は、茜凪が見てもやはり美しいと思えるものだった。
朝を迎えた小田原湾は輝きは増し、季節外れのため痩せ細ったすすきは見頃を迎えたら黄金に光るのだと想像できる。
墓守を置き、この地を守ることにも力を入れた環那を流石だと思った。
薄暗くて音のしない森を抜け、春霞の宝を目に収めてから庵を目指そうと思った茜凪。
今は美しい場所というだけではなくて、里の者の墓標にもなっている。
里を発つ前に墓参りもしようと決めた茜凪は、そのとき初めて一際大きな墓標があることに気付いたのだった。
墓の前には、真っ白で豪華な装飾に包まれた刀が鞘ごと地に突き刺さっていた。
施された金色の装飾は見れば見るほど実戦で用いられる刀ではなく、奉納されたものだと感じる。
が、幾度も死地を乗り越えてきたような空気を纏っているのだから不思議だ。
目を離すことができなくなり、息を呑み足を止める。
ただ静かに、地に還ったような佇まい。
そのくせ誰かを待っているような空気。
刀でありつつ、刀という言葉が似合わない存在感。
何かが宿っている気がしてならない。
「綺麗……それでいて、恐ろしい……」
目を奪われ思わず口にする。
美しく、恐ろしい。
それは、誰もが兄に向けて口にした一句だった。
ふと、ようやく他の気配に意識が向いた。
刀の近く、死角になりそうな位置で誰かが小さく話している声が聞こえた。
独白でいて、誰かに詫びるようで寂し気な声。
ここには誰もいないのに、返事を待っているように聞こえた。
一歩、もう一歩近づいて、ようやく曲がったところに誰かいるのがわかった。
刀ばかりに目をせいか。
はたまた刀の存在感が大きすぎるせいか。
刀の正面に来た時、茜凪と刀の間に一人の人物が挟まる。
茜凪の足音に気付き、相手が振り返った。
黒い瞳、僅かに癖のある黒い髪。
相手を、茜凪は知っていた。
「茜凪……?」
「爛……」
振り返った爛の顔に、一閃が反射し走っていた気がした。
それは気がしただけで、目を凝らせば実際に頬を伝う雫は流れていない。
どうして彼がここにいるのだろう。
第一に思った疑問は、第二に浮かんだ自答で消滅する。
爛は環那の親友だった。
つまり、環那の墓参りとして彼も今ここにいるんだ。
偶然にも、茜凪が初めて帰郷した今この日に。
そして爛がここにいることが何より、彼が環那や絶界戦争について知っていることを隠していた……否、打ち明けることができなかったという事実を裏付けている。
水無月から語られた過去は、本当なのだと頭のどこかで思っていた。
「茜凪、お前なんでここに……。北見 藍人が記憶を封じたって……」
目を見開いた爛が尋ねたが、次の刹那には顔を逸らされる。
「水無月が……絶界戦争や環那の話をしてくださって。そのあと解いてくださいました」
「綴が……?」
爛は弟から、風間 千景に話を聞きにいくと聞いていたのだろう。
故に水無月が茜凪たちに過去の語りをした結果になったのは意外そうだった。
が、予想しうる内に入っていたようで、二の句は「そうか」で納得していた。
「爛、貴方こそ何してるんですか」
努めて責めるような声音にならないように茜凪は気を付けた。
勝手に故郷に立ち入ったことを怒っているわけでもない。
兄の墓参りに来ていることも、兄と親友だったことも、それを隠していたことも、責めたい気持ちはない。
だが、努力しないと語尾が強くなってしまうのだ。
それは他でもない、彼の弟のことを思った時に。
「悪いな、勝手に立ち入って。でも毎度雪平に許可はもらってるぜ」
「ここで環那の墓前に立っていることを問うているわけではありません」
「じゃあアレか? 環那と親友だったことを隠してた件か」
「……」
「それとも、環那を助けられなかったことを隠してた件か」
茜凪は、自身の体に起きている異変にこの時初めて気が付いた。
気持ちは大分冷静で、目の前で自嘲した笑みを浮かべる爛の所作をひとつひとつ追っていた。
瞼がゆっくりと落ちる、陰り。視線の上げ方、横への流し方。
落ち着きのなさそうにする指先。声音の高さ。
すべてから彼の心の中を汲み上げようとしている茜凪がいる。
小鞠が殺されてから、心の内に飼い始め、日々大きくなっていた憎悪。
それらが占めていた領域が少なくなり、器が広がった感覚。
代わりに頭のてっぺんから指先、爪先に至るまで酸素が届いているような気がする。
呼気が楽であり、心拍が落ち着いている。
簡単な言葉に訳すならば、『強くなれた』気がしていた。
「悪かったよ。話せなくて」
「……」
「お前や凛にとっては自演自作に見えただろうな。里に戻って絶界戦争について調べてる俺の姿は」
「……」
「言っとくが無駄ではなかったんだぜ。詩織が絶界戦争自体に関わってなかったことはわかったからな。あいつが羅刹を使って動き出したのは、絶界戦争より後のことだ」
そして、茜凪にとって強くなったと感じさせたものは、爛の心を簡単に映し出してくれた。
「(この人は……こんなに寂し気だっただろうか)」
今まで見ていた茜凪にとっての爛は、極たまに出会う友人の兄であり、強者でいつも飄々としていた。
堂々としていて迷いがなくて、自由。
たった一人で生きていく強さも覚悟も持っている。
下心があるような言動をし隠そうともしない。だが言葉以上のいやらしさを感じさせない不思議な男。
今まではそう思っていた。
だが、水無月から過去の話を聞いたからだろうか。
今の爛の姿は、全く違うものに見えた。
一人で生きていく覚悟や強さがあるわけではない。
大切な人をつくりたくないから一人でいるだけ。
大切なものを守る自信もなくて、傷つくことも避けたいだけ。
哀しみに押しつぶされて、立ち上がれない姿はまるで幼い子供が必死に誤魔化して生きているようだった。
臆病。繊細。孤独。
そんな言葉が浮かんできてしまう。
「絶界戦争や環那の件は……な。どうしても話したくなくてよ。どっか俺の知らんところでお前らの耳に入れば良いと願っていた」
「……」
「そんな願いが叶ってよかったとも思ってる」
水無月も、語るには辛かったと言っていた。
本来なら慶応三年の年末に話すべきだったが、言えなかったと告げられたことを思い出した。
爛も水無月と同じ気持ちなのだ。
「それから、お前を軟禁してた事情に俺は絡んでないからな。凛が人間から託された願いだろ。あの斎藤って男から」
「……」
「俺が言うは変かもしれないが……俺だから言えることもある。凛もお前も人間と関わって、辛い目に遭わないといいな」
それは、突き放すような一言にも聞こえるのだが間違いなく気にかけているような言い方で。
『俺たちの二の舞になってほしくない』という風に聞こえる。
諦めに似たような何か。
取り戻せない過去。
哀愁、寂寞、後悔。
きっと赤楝との結末が違っていたら。
環那が生きていたら。
春霞が存続していたら。
爛の中に渦巻く想いは別のものだったはずだ。
だが、聞いておきたいことがあった。
今、爛が環那や赤楝と一緒に生きてきた過去を知ったからだこそ、聞いておきたいことが。
「爛……あなたは、人と関わったことを悔いているのですか」
「……」
「人の血を持つ赤楝と生きた時間を、本当に悔いているのですか」
「……」
「赤楝が鬼の千与を殺して、自らの命も終えて。その行為を愚かだと思うから相容れないと言っているのですか……」