31. 心
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朧の里で、墓守として身を置いている狢磨 雪平と再会した茜凪。
記憶はまだところどころ曖昧だが、雪平のことはゆるやかに思い出してきた。
彼は間違いなく幼少期に関わった者の一人。
敵になる可能性が低いと判断した茜凪は、雪平に対して警戒を解き始めていた。
―――食事を終えた頃。
東雲を見て茜凪は立ち上がった。
空が明るくなり、夜明けを教えてくれている。
膳の片付けを慣れた手つきで行っている雪平を他所に、茜凪は窓辺に立ち朧の里を見つめていた。
春霞と同じように滅びを辿った朧の里。
春霞より僅かに高価な装飾をした屋敷が倒壊している跡をみやれば、ここが鬼の住処だったことが垣間見得た。
雪平からは再度休むように言われていたが茜凪は気分がだいぶすっきりし、落ち着いている。
春霞の里、朧の里を自身の目に焼き付けた。
だがもう一箇所、どうしても行かなければならない場所がある。
「茜凪様……?」
―――千与が命を奪われ、赤楝が散った庵だ。
そこは、詩織も出入りしていた地。
なにか、残っているものがあるかもしれない。
そして赤楝についても何か理解できるかもしれない。
淡い期待を寄せながら、茜凪は雪平の呼びかけに答えた。
「雪平。もう一つ聞きたいことがあります」
「なんでしょう」
「千与が過ごしていた庵に赴きたいです」
「……っ」
「場所を、教えていただけますか」
茜凪の茜色の瞳が雪平に向く。
雪平は、茜凪の瞳が翡翠色を持っていることを―――知らないだろう。
有無を言わせない茜凪の強い姿勢に、雪平は目を一度伏せる。
やはり、行くのですね。
無言のままそう問われた気がした。
この道、この決断をすることがまるで悲しいというように映る。
環那の終末を知っているからこその表情だったようにも見えた。
が、茜凪にとっては悲壮感ゆえに行うことではない。
望む未来を勝ち取るために、立ち向かうことだった。
雪平のことは思い出してきていたが、彼がこの数十年でどんな思考を持ち、どのように妖として成長してきたかは茜凪も知らない。
もちろん、雪平にとっての茜凪もそうであり、互いに未知数な部分がある。
やがて彼の中にある志を固めて、ゆっくりと頷いてくれた。
「わかりました」
―――これは、慶応四年 三月上旬。
春霞の里での物語である。
第三十一華
心
―――……
――……
――…
瑞々しい草花、心地よい喧騒を感じさせる人の声。
走り去る子供たち。
整備されていない砂ぼこりを散らす道を行きながら、擦れ違う幼子を視線で追った。
「おにいちゃーん!まってー!」
俺の膝くらいしかない小さな子供が駆けていく。
視線の先、彼が追いかけるのは幾分か大きい別の男児だ。
「ほらー!早く来いよー!」
「まってー!」
兄弟だということは、会話を聞いていればわかった。
駆けていく先、あの兄弟はどこを目指すのだろうか。
俺には知り得ることができないが、どうか兄弟がいつまでも仲睦まじいものであることを願うばかりだ。
兄とは、どのような背を弟に見せるべきか。
男とは、どのような生き様を後世に残すべきか。
この頃の俺は、こんなことばかり考えていた。
きっかけは、一人の男の死によって齎された平和。
環那が死んだ。
神の化身を斬り、北見の里で散ってから何年経っただろうか。
弟の凛が言葉を自然に話せるようになるあたりまでは、経過した年数を数えていた。
けれど、途中から数えることを、やめた。
時が過ぎれば、環那の死が自然と癒えていくと思っていたが、何刻、何日、何年数えても変わらない。
昨日のように、鮮明に甦る。
環那が戻ってくるわけではないのに雅だと思えるほど、鮮やかに。
環那の笑顔、美しさ、強さ、そして恐ろしさ。
植え付けられた劣等感が痛みをまた増幅させた。
同じく、環那の隣に立っていた人の子だという赤楝の存在も浮かび上がる。
まだ俺たちが元服前の幼かった頃、赤楝が縹の一族に攫われた日の顔。
恐怖に怯えた表情を、俺は拭うことができなかった。
そして赤楝は、千与をその手にかけ……―――千与の側付きだった世話係の詩織に殺された。
赤楝が憎悪に呑まれ、千与を殺めたこと。
そんな赤楝の正体が人であったのではないか、ということ。
俺が大切だと思った友は、悉く散っていく。
赤楝、環那。
楽しかった日々が、楽しかった分だけ俺を苦しめる。
『いつか失われるならば、もう大切なものはいらない』
張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。
その事切れる音を、自分のことではないように俺は傍観していた。
切れた糸の端々が、美しい弧を描いて舞う。
同時に思った。
『俺は、赤楝を救えなかった』
『俺は、環那の力になることができなかった』
赤い赤い蛇が見える。
俺を絡めて、捕えて、離さない。
どこにも行くなと俺を留める。
首に、腕に、脚に巻き付いた黒い鱗の赤を象るその蛇。
真っ赤な赤い眼に睨まれて、俺はぼんやりと意識を混濁させる。
この世界が、俺の心の中だとは知っていた。
心に棲みついた蛇を追い払うことができない。
「おにいちゃーん!」
弟が、兄を呼ぶ声で現実に戻ってくる。
ようやく弟が兄のもとに追いついたようで、二人で足並みそろえ、手を取り合って歩いていく後ろ姿が見えた。
そういえば、里を出る前に凛がなにかを話したがっていたことを思い出した。
小さい手で俺の裾を引き、見上げてくる黒い瞳。
あの瞳にも劣等感が映し出されていた。
「凛……」
烏丸の里を出た俺は、風来坊としての日々を過ごしてきた。
今、弟がどんな道を歩んでいるのかも知らない。
みっともなく泣いた俺の涙を拭った弟。
心根の優しい弟が、どうか笑っていられる未来がくることを願う。
兄として兄らしいことはなにもできないとしても。
「……爛?」
行きかう人々の中で、名前を呼ばれた。
他人から呼び止められることも久しぶりであり、自身の名を聞いたとき俺は何故か懐かしいと思ってしまった。
振り返った先。
俺は目を見開いた。
相手も同じくらい、絶望を映したような情けない顔をしていた。
どの妖の里からも距離があり、人間で溢れかえる江戸のような地でもない。
天皇のお膝元、この京の端にある寂れた地に……――この男は生きていたのか。
「師範……―――?」
師範。
縹 喜重郎。
俺たちに武を教え力を与えた者で、赤楝に命を奪われかけた者であり、赤楝の死と同時に俺たちのもとを去った猫。
自分から呼び止めたくせに俺だと判明した途端、師範は一歩後ずさった。
そのまま脱兎の如く、俺に背を向けて走り出す。
「は……っ!?」
声をかけたくせに、俺の顔を見た途端に逃げ出した師に俺は思わず目を剥いた。
次の瞬間にはもう追いかけるしか頭にない。
師範には言いたいことがいくつもあった。
赤楝が死んだこと。
赤楝が死ぬ前に師範が襲撃され斬られた理由。
環那が死んだこと。
どうして絶界戦争を止めるために力を貸してくれなかったのか。
今までどこにいたのか。
どうして黙って俺たちのもとを去ったのか。
「待てよ師範ッ!」
責める言葉はいくつも浮かんだ。
でも、責めるだけじゃなんの意味もない。
師範を責めても赤楝も環那も戻ってこないし、つらい気持ちも緩和されない。
ただ、ただ説明してほしい。
どんな気持ちで今まで生きていたのか。
あんたが掲げた夢を、あんたは放り出したのか。
もし放り出していたのだとしても、環那はそれを次の世代に託したんだと言ってやりたかった。
そんなあんたが、一体何をしているのか説明してほしい。
「おい、師範!」
師範と最後に別れてから、それなりに年月が経っていた。
俺も年を重ね成長していたし、師範も年を重ねていた。
表現を変えれば、互いに老いたとも言える。
師範が山道に逃げ込んだことを好機とみて、俺は黒い翼を広げた。
半分獣化して、俊敏な脚で走る猫を捕える。
真上から迷いなく降下して道を塞げば、師範はようやく足を止めてくれた。
「呼び止めておいて、逃げることないだろ」
「爛……っ」
「やましい気持ちでもあんのか」
話し合いたいと思っていた。
力づくで事を構えるつもりもなかった。
だが、思わず出た声音と言葉は明らかに師範を責めている。
制御がうまくできないことは反省しながら反応を伺い続けた。
俺が道に立ち塞がったこと、機敏さを理解してくれたからか。
逃げても無駄だと思った師範は、張り詰めていた息を吐きだして俯く。
「……すまなっかった」
「……」
「爛……立派になったな」
向けてきた師範の双眸の奥に怯えが潜んでいる。
恐れる思いが表れている。
あぁ、他の者から見たら俺もこんな風に見えているのか。
情けない。
「師範、今まで何してたんだ」
「……」
「どうして俺たちを置いて、道場を去ったんだ」
「……」
「あの日、赤楝に殺されかけた理由があるんだろ。教えてくれよ」
どうか、あんたを嫌いにさせないで。
失望させないでくれ。
師だと仰ぎ、その背をついてきた。自慢の男のままでいてほしい。
「赤楝、死んだんだぞ」
「―――……っ」
「環那も、絶界戦争で命を落とした」
「……ッ」
「妖同士の惨たらしい戦の終結は、環那が命と引き換えに齎した。あんたが掲げた、人と妖、そして鬼が平和に暮らせる世を目指して戦ったんだ……ッ」
「俺は……」
「なのにッ!あんたは今までどこにいたんだよ!俺たちを置き去りにして!弟子も夢も投げ捨てたのか!?」
気付いたら、俺は腸が煮えくり返る思いで目頭が熱くなった。
思い出すだけでまた目が潤むのを止められない。
環那。
赤楝。
―――どうして助けられなかったのだろうか。
師範の胸元を掴み上げ、同等になった背は視線の高さも同じにする。
凄んで睨めば、師範の瞳も同じくらい辛そうだった。
その奥に反射して俺の姿が映り込む。
哀しみに負けている俺の姿だ。
「すまなかった、爛……」
「……っ」
「赤楝のことも……環那のことも……、戦のこともなにも力になれず……」
謝罪してほしいわけではない。
経緯が聞きたいのだ。
一から十まで、物語の隅々までを理解したい。
だが……。
「恐ろしくなってしまったんだ……」
ぽつり、と零されたもの。
師範の限りない本音。
「赤楝に斬られた日、俺の近くには恋い慕う女がいた……」
「は……?」
「その娘が、赤楝に殺されるのではないかと……」
「……っ」
「もし、その娘を失うことになれば……俺は……―――」
大切なものを奪われそうになった時。
覚えてしまった恐怖に支配されたのか。
「俺は、大事な弟子である赤楝に殺されて当然のことをしたのかもしれん……。俺が赤楝に斬られるだけなら本望だ。だが、俺のせいで、ちかまで殺されたとなれば、俺は赤楝を許すことも、俺自身を許すこともできない。だから……」
逃げるしかなかった。
ちかを連れて、もう争いに巻き込まれなくていい土地まで身を隠しながら逃げてきた。
大切なものを壊されたら、耐えることができない。
ありとあらゆるものを怨み、妖の本性を剥き出しにして生きるしかない。
それが怖くてたまらなかった。
師の言葉は、俺にはそう聞こえていた。
「今は人目を避け、縹の者に見つからないように京の国境で生きている」
「……」
「環那のことも、赤楝のことも聞き及んではいた。だが腑抜けな俺は……―――」
二の句が出てこない。
なんて返したらいいのか。
言いたいことはたくさんあった。
だが、言っても無駄だと思えてしまう。
師範が心に抱えた痛みや怯えは、俺の中にもあるものだ。
ただれて、腫れて、傷跡を残しながら灯っている恐怖。
大切なものを失う前に逃げ、罪悪感と共に生きているのか。
大切なものを失って立ち上がれないかだけの違い。
「父上~!」
「っ!」
「どこ~?父上~!」
ふと、茂みの出口から声がした。
幼い幼い声。
まだ言葉を話し始め、歩き始めてから僅かな時間しか経過していない存在の気配。
「重丸……!」
師範の口から子供の名前が出た。
その幼子は、師範の倅だとわかる。
師範は、恋い慕う女を連れて逃げ、子を授かり、今は幸せに生きているんだ。
俺や赤楝、環那、旭や綴が感じた痛みを知ることなく。
胸倉を掴み上げた腕を、下した。
自由にした訳はいくつかあったけれど、一番大きな理由は、俺の言葉はもうなにも届かないと思ったからだ。
無駄なのだ。
この人はもう自分の人生を、別の夢を大切にして歩んでいる。
「父上~!」
「……ッ」
端から師範を殺すつもりはなかったし、傷つける必要もない。
喜重郎を傷つければ、彼は己を苦しめ続ける罪悪感が軽減され報われるかもしれない。
だが父が傷ついた姿をみて、心に負荷を負うのは息子やその妻である。
「―――……もう行けよ」
「爛……っ」
「倅だろ」
「だが……」
「もう、いいよ」
―――もう、いい。
呆れとも失望とも違う。
俺と、師範であった喜重郎は、同じ恐怖を抱えている。
だが行き着いた結末は違った。
そして俺は、彼のようにはなりたくないと思ってしまった……。
「(恐怖から逃げて、自分の大切なものだけを守れたらそれでいいのかよ……)」
言っても仕方ない。
そうしたせいで俺の中にはない種類の罪悪感を喜重郎は抱えている。
そして喜重郎の中には俺が抱えている種の罪悪感はないのだろう。
お互い様なのだ。