30. 雪平
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ぱちりぱりちり、と篝火が弾ける音が届いた。
遠退いていた意識が戻ってくる。
聴覚、嗅覚、触覚。
炎が揺らめく音、鼻腔をくすぐり空腹に訴えるいい香り、ふかふかした肌触り。
意識的に働き始めたそれらを感じながら、茜凪はようやく目を押し開けた。
見慣れない家屋の、古ぼけた室内が映る。
敷かれた布団に横たわっていること、誰かが奥の間にいること。敵意を一切感じない点や、懐かしい匂いに包まれて、茜凪は思わず口にした。
「母さま……」
ありえない。
里は滅んだのだから、茜凪の母が生きていてここで家事や炊事をしているわけないのだ。重たい体を押し上げて、起き上がれば見覚えはないのに“知っている”と感じた。
「ここ……」
視線を下げ、布団を見つめた。
かけられていた夜着は大層丁寧にかけてあったように感じる。
まるで茜凪を大切な客人として扱ってくれているように。
だんだんと思い出してきた。
春霞の里へ出向き、詩織のことを知るためにここへ来た。
そして春霞滅亡を見て受け止めた上で、茜凪の心に何が残るのかを試しに来たのだ。
憎悪に負けるのならば、詩織と同じ思考になる。もしそうなら、どんな道を歩むのか。
そして、詩織と相反する道を行くことができるならば、茜凪は人間に対して何を思うのか。
きちんと自分と向き合いたかった。
春霞の宝と言われる光景がある。
森を抜けた先、小田原湾とススキの揺れる高原が一緒に楽しめる奥地。
そこに建てられたいくつもの墓標の前で、茜凪は心に飼い続け、育ててきてしまった憎悪と戦った。
まだ完全に打ち破ったと言っていいのか不安は残るが、茜凪は人に復讐し、滅ぼすのではなく、共に生きて行く未来を選択した。
そうすることができたのは、菖蒲や新選組のおかげでもあり。
一番の要因は、斎藤が茜凪に及ぼした影響が大きかった。
「はじめくん……」
思わず零れた、想いを寄せる男の名前。
届くはずもなく、今どこにいるのかもわからない。
だが、間違いなく薩長と今も戦っているはずだ。
無事でいてほしい。
願わくば、彼らの戦に妖の羅刹が関わることがなく本来辿るべき結末を描いて欲しい。
彼にとって幸せだと思える結果になるならば一番だけれど、敗戦ばかりが続いてしまうのも不安だと思った。
物思いにふけり斎藤のことを考えながらも、茜凪はようやく立ち上がった。
重たい体に鞭を打ち、奥の間へと進む。
介抱してくれた相手のことを確認しなければならない。
ゆっくりとした歩調で室内を行けば、炊事場が現れた。
長身の男が、慣れた手つきで食事の用意をしている。
すらっとした痩身の男だ。身長は水無月と同じか、それくらい高かった。
筋肉質ではなさそうだが、不思議と背中は逞しく見える。
茶色の髪を結い上げている姿は、どこか沖田を連想させた。
「あの……」
背後にいきなり立つのはいかがかと思い、茜凪は遠慮しながらも声をかける。
呼ばれたことで気付いた男は、ゆっくりと振り返った。
ようやく顔が視界に入る。
視線は鋭く見えるのだが、たれ目であり最終的には冷たい印象だけでは留まらない。
目元には暗い色で縁取りがされているように見える。
化粧をしているのだろうか。どう見ても男であるのに。美意識が強いのだろうか。
思考までは見た目からはわからない。
見た目から感じられたことはもう一つ、冷静沈着という言葉が一人歩きしたような印象を受けた。
鋭い視線をしているが、不思議と怖いとは思えなかった。
初めて会う、はずだ。
だが正面から男と目があった時、茜凪は思わず彼の名前を呼んでいた。
「“ゆきひら”……」
里に来た時、思い起こされた光景。
そこで茜凪が呼んでいた男が、そんな名前だった。
ぼんやりと靄がかかったようだったのに、彼の顔を見た途端―――幼き頃に近くにいてくれたのは彼だと思えた。
「おや……」
茜凪に名前を呼ばれた彼は、調理する手を止めた。
そのまま手拭いで一度身なりを整えた後、茜凪の前に惑わずにやってきて彼女を見下ろした。
「覚えていてくださったのですね」
「え……」
「忘れ去られていてもおかしくないと思っておりました」
想像していたより数倍、声の低かった男。
線の細い顔に似合わず低音だ。
口調は物静かなうえ穏やかであり、やはり冷静と言われることが似合うと思えた。
つい先程まで忘れていました。とは言えなくて。
押し黙って話を聞くことにした。
「お帰りなさい、茜凪様。無事の帰還にこの雪平、安堵いたしました」
「た……だいま、戻りました」
「積もる話もございますが、まずは食事にいたしましょう。腹は減っては戦はできませぬから」
黒い縁取りの奥から向けられた視線は慈愛に満ちていた。
愛おしいと言われているのがわかる。
が、この愛の種類はなんだろうか。
茜凪が斎藤へ向けるものともまた違うし、烏丸が茜凪に向けるものとも違う。
「今の茜凪様も変わらず油揚げがお好きでしょうか。先程、茜凪様が戻られたのを確認してから急ぎ拵えたのですが」
大切にされているのだと、わかる。
この男に大切にされる義理はあっただろうか。
愛ゆえに触れるという行為があるのであれば、彼は愛ゆえに茜凪に触れない。という選択をしているようにも思えた。
彼は優しさと慈愛を向けてくるのに、下心を一切感じさせないからだ。
「ありがとうございます……。油揚げは大好きです」
「では、すぐに用意いたします。まだ床で休んでいてください」
「あの……」
そのまま流されて、言われるがままになっているのもよかったが。
せめてこの男のことだけでも、名前だけでも知りたい。
名前以外にもどうしてここにいるのか。
貴方も白狐の生き残りなのか。
なにをしているのか。など。
言い淀み、眉を下げながら雪平と呼ばれた男に声をかければ、相手は見抜いていたようで。
「記憶はゆっくり思い返されるものです。そんなに急いても疲れてしまいますよ」
「記憶のこと、どうして知っているのですか」
「えぇ。藍人に伺いまして」
この男も藍人と知りたいだったのか。
茜凪は目をぱちくりさせながら、また言葉に詰まる。
では、今は何も聞かない方がいいのかと思案したところで雪平がもう一度茜凪の前にやってきた。
自身の胸に手を添え、傅くように顔を覗き込まれる。
「……申し訳ございません。気遣いが足りませんでしたな。貴女の記憶が徐々に戻るのは承知していたのに、俺の名前を呼ぶものですから、俺についてはすべて思い出しているのかと……。都合よく解釈しました」
「……」
「俺は、狢磨 雪平。茜凪様が幼き頃より懇意にしている怪狸の一族の者です」
狢磨 雪平(かくま・ゆきひら)。
怪狸。つまり化け狸の一族であるという。
その姓は、水無月から過去の話を聞いたときにも出ていたので覚えていた。
まさか、自身が幼き頃にその一族の者と交流していたなんてことは覚えていなかったけれど。
「じゃあ貴方が、喜重郎さんの弟子の一人ですか?」
喜重郎は年の離れた怪狸の者を一人、弟子にとっていた。
環那や爛より年上だと言っていたが、雪平は随分と若く見える。
といっても妖の見た目は年相応ではないのでなんとも言えない。
ついつい尋ねてしまえば、雪平は目尻を下げて作業へと戻っていく。
「いえ、喜重郎様の門下生は俺の父です。俺は爛さんや旭さんとは兄弟弟子の間柄ではありません」
つまり雪平は環那や爛の兄弟弟子の息子ということか。
こうしてみれば、環那と爛たちの絆、朧 千与と赤楝が死んだこと、絶界戦争についての歴史が時間を重ねてきたものだとわかる。
「ただ、俺は環那様にも仕えていた時期がありますので爛さんや旭さん、綴さん。それから藍人とも面識があります」
時代は過ぎ去りながら、多くのものを積み上げてきた。
それを“歴史”と一言で言うのは簡単だけれど、どの登場人物にも始まりと終わりがあり、願いがあるのだ。
炊事場で作られていく食事を見つめながら、茜凪はただ時を感じていた。
雪平は理解していたのだろうか。
茜凪が柱に寄りかかり、雪平のことを眺めているのを知りつつ何も言わずにいてくれたのだった。
第三十華
雪平
それからしばらくして、運ばれてきた食事を口にしながら、茜凪と雪平は時を共に過ごしていた。
「その、いろいろと気遣いをありがとうございます。雪平」
「お気になさらないでください。俺の役目でございます」
膳に乗せられた食事は、鯖を味噌でからめたもの、菜っ葉の小鉢、汁もの、それからてんこ盛りの玄米。そしてそれとは別に用意された大量のお稲荷さんだった。
時間の感覚が狂ってしまっていたので、夕餉なのか朝餉なのかよくわからない食事だ。
今は夜中で、外を見れば明け方にはまだ遠いことがわかる。
だが空腹だったことも変わりないし、有り難くいただくことにする。
箸を運び、最初に口にしたお稲荷さんは、程よい甘みもあり懐かしい味だと思った。
「懐かしい味がする気がします……」
「ならよかった。先代がご存命の際に隠し味を聞いておいてよかったです」
穏やかに微笑みながら、雪平は別の料理を口にしていた。
温かい蕎麦である。端にはかき揚げが乗っており、噛み砕く時のさくさくという香ばしい音もしていた。
「(怪狸だから……かな)」
郷愁ともいえる感覚がする。
顔を見て名前もすぐに出てきた。
が、初めて出会った感覚も拭えない雪平の好物らしき食事を見ながら茜凪はそんなことを思っていた。
「それにしても、墓標で茜凪様が倒れているのを見た時は肝が冷えました」
美味しい食事。温かい寝床。
そして、心のどこかで懐かしいと思える相手との再会に忘れかけていたけれど、茜凪は春霞の里へ来たきっかけを思い出す。
「藍人が茜凪様を北見の屋敷に連れていく時、憎悪に呑まれないようにするために記憶を封じたとは聞き及んでおりました。ゆえに今もどこかで幸せに生きていらっしゃるのだと思っていたのですが……」
「……」
「戻ってこられたということは、春霞滅亡と向き合う必要があるのですね」
食事をする手は互いに休めない。
変に気を使って気まずくなることはないのが、幼い頃に築いた信頼関係からだろうか。
「俺は俗世に全く関わらず、一人ここで生きてきました。ゆえに茜凪様が抱えている問題を手助けできるかはわかりません。ですが、俺が知っていることはお話します」
雪平の所作はとても美しかった。
まるでどこかの殿様だと言われてもおかしくないくらい、雅だ。
ここまでの些細な会話で、今いる古い家屋が春霞の里の隣にある朧の里の一角であることはわかった。
そして墓地で倒れていた茜凪を、自称・墓守である雪平が介抱するために連れてきてくれたらしい。
ここで一人生きてきたと言っていたが、春霞でも朧でもない“狢磨”が、どうして里の跡地で過ごしているのだろうか。
様々な事情があるのだろうが、聞いても本当にいいのだろうか。
食い気に対して一切遠慮はしないのだが、変なところで気を遣い迷って声が出なくなる。
すべてを悟ったかのように、雪平が告げた。
「茜凪様、気を遣わずに」
ついに箸が止まった茜凪を見て、雪平が微笑む。
彼はずっと茜凪を知っていて、忘れたことなどないのだ。
茜凪が思うようにしたらいいという仕草は、どこかのだれかの願いと重なった。
いつまでも迷っていても仕方ない。
決心し、口を開いた。
「―――雪平。聞きたいことがあります」
「はい」
「春霞 詩織をご存知でしょうか」
ずっとここにいたのであれば。
そして春霞と交流があり、環那にも仕えていたことがあるのであれば。
詩織についても少しばかり知っているのではなかろうか。と読む。
読みは当たったようで、詩織の名前を出した雪平は手を止めた。
“まさかそちらに関わり、それについて聞きに来たのか”とでも言うような、雪平の戸惑いを感じる。
「……」
「雪平?」
「―――……そうですか。貴方は兄上と同じ道を進むのですね」
「え?」
小鉢の菜っ葉に箸を添えたまま、雪平は切なく眉も目尻も下げてしまう。
ぽつりと零された言葉に、万感の思いが込められていた。
だが、茜凪が腹をくくってここにいるのが伝わったのだろう。
まだ何を考えているのかわからない雪平だったが、茜凪に折り目正しく向き合ったかと思えば、答えを口にした。
「春霞 詩織のことは少しばかり存じております」
「―――……教えて下さい」
茜凪も正座をし直し、箸を止めて雪平に向き合う。
やはりこの狸の空気は独特で、隙が一切ないくらい張り詰めた視線を向けてくるくせに穏やかな人柄であることを教えてくる。
縁取られた目元も、怪狸だと言われれば納得だ。
「春霞 詩織は、親殺しの妖として春霞の里で危険視されておりました」
「親殺し……?」