29. 帰郷
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―――………
―――……
――……
「ゆきひら、ゆきひら」
「はい。どうなさいましたか?」
「どうしたら、わたしもつよいあやかしになれるかな」
海道沿いの道を、誰かと手を繋ぎながら歩いていく。
ゆっくりとした歩幅は、相手が合わせてくれているのだと今ならわかる。
「そうですね……。まずはたくさん食べて、たくさん眠って、大きくなることが必要かと」
「そうしたら、ゆきひらみたいにおおきくなれる?」
「そうですね」
「おにいちゃんもおおきかったのかなぁ」
夕暮れ時の海道から見える海はとてもきらきらしていて、反射した光が雨粒のように光っていた。
橙色の雨。
この光景は、里の奥地にある高台からも見えるもので春霞の宝とも言われていた。
海が見える方角と反対には、すすきが生い茂る高原があり、人が立ち寄らないことから自然な形状が保たれている。
「ゆきひら、おにいちゃんはどんなひと?」
見上げた先、顔がぼやける。
どことなく伺える印象は、憧れたあの男に似ているように見えた。
冷静沈着な静かな男。
「貴女のお兄様は、穏やかな方でした」
「おだやか……」
「それでいて芯のある御方です。言いたいことは媚び諂うことなく、真っ直ぐに伝えているのが印象的でしたね。それからいつもへらへらと……誰に対しても笑顔でした」
どこか遠くを見つめる、手を繋いでくれた男。
藍人ではない。
茶色の髪から覗く瞳が、悲しそうな寂しそうな訴えを起こしながら……海と空を、その先を見ていた。
「ゆきひら……」
「大丈夫ですよ、茜凪様。どんなことがあっても、貴女の御身はお守りいたします」
「……」
「仮にこの雪平になにかあったとしても、他の者も貴女に力を貸してくださるはずです。それくらい、貴女のお兄様は、貴女を守るための力を各所に撒いておられました」
―――それが、環那様の唯一の願いとでも言うように。
そう言った男はまた寂しそうに微笑むのだ。
「生きてくださいね。茜凪様」
切望とも言える声音。
こちらに向けられた視線に、当時の私は答えられなかった。
「貴女が望むように生きることが、環那様の願いです。俺はここで、与えられた役目を全うしながら見守ります」
忠誠心が強い彼は、いま一体どこにいるのだろうか。
この忠誠心は、私に向けられたものではない。
兄が、環那が彼に与えたものが私に向いてくれているだけだ。
人望の厚い者だったのだろう。
兄である、春霞 環那は。
そして、私を想ってくれていた。
生まれてくる前の、私を。
閉じていた瞼を開けた。
風の音が、木々に茂る葉が、土の厚さが、鼻に届く花の匂いが、記憶を甦らせ、行き着く先を教えてくれた。
箱根連峰のひとつ。
小田原湾が見下ろせる高台にあり、人が寄り付くには足場も悪い奥地。
春は満開の桜が舞い、夏は緑に溢れ、秋にはすすきに揺らめき、冬は雪が降り積る。
ここが―――
「春霞の、里……」
どうして忘れてしまっていたのか、というくらい鮮明に思い出す。
多くのことを。
ここで笑って生きてきた日々を。
同じ白狐と共に里で生まれ育った思い出を。
いつだって兄を思い描きながら、強くなりたいと願い続けた幼少期を。
そして……人間に全て壊された、あの日を。
心臓が跳ねる。
この古ぼけ、倒壊した大門から一歩でも奥へ進めば、私は今のままではいられないと理解した。
五感が伝えてくる、湧き上がるなにかを。
今のままの私は、ここで命を終える。
次にこの大門を潜り、人の世に紛れる時―――春霞 茜凪である私はきっと……。
それでも行かねばならない。
詩織についての謎を紐解くために。
どうして兄が詩織を生かそうとしたのかを知るために。
妖の羅刹による戦を止めるために。
人と鬼と妖が、共存しながら生きていけるのか。
恐れを抱き、歩くことをやめてしまった足を、一歩前へ。
大門を越えて、甦る記憶が教える道を歩き続ける。
―――慶応四年 三月 上旬。
これは私、春霞 茜凪が春霞の里に帰郷した日の出来事である。
第二十九華
帰郷
箱根山を徒歩で登ってきた茜凪は、目的の地である春霞の里跡地に辿り着いた。
人であったら息も絶え絶えになりそうな獣道をなんなく乗り越えられたのは、郷里への道標を思い出してきたからだろうか。
水無月によって返された幼い頃の記憶。
あの煙管から生み出された煙と、水無月からの突きを受けて―――茜凪の脳内はやけにすっきりしていた。
今まで頭の中心部以外、潜在的な部分に靄がかかっていたとでも言えるほど晴れやかに物事を考えられた。
水無月が仕掛けたことではないのは、本能的にわかっている。
記憶が解放される刹那、藍人の幻覚をみたことも関わっているだろう。
兄の代わりを務めた式神師。
藍人が茜凪に何か施していたのだろう。
今更、それを知ったところで何も変わらない。
問題は未来をどう歩いていくかだ。
茜凪は、鮮明に思い出される多くの記憶を胸に、春霞と朧の大門を潜り抜けていた。
妖も寄り付かなくなった地。
手入れも行き届かない場所だが、獣以外の他者が通った形跡があった。
定期的に誰かが訪れているようにも思える。
道を行きながら、『昔、この木で木登りをして怒られた』ということや『ここに自分で初めて植えた花が、見事に枯れて泣いた』こと、『この奥の民家には、油揚げを里で一番上手に作る侍女がいた』などを思い出す。
懐かしさを感じては、廃れた郷に哀愁を拭えなかった。
同時に胸の内に宿る、憎しみ。
どうしてこんなことをされなければならなかったのか。
一体、どこのどいつが故郷をめちゃくちゃにしたのか。と強い気持ちに支配されそうになる。
わかっている。
茜凪はこの支配から己を律して逃れられるかどうか、試すために帰郷したのだ。
やがて一番大きな屋敷があったであろう跡地に辿り着く。
燃やされ倒壊した本殿は、今や大きな柱が残るのみ。
あたりに煤れた木材が転がっており、今やとても人が住める状態ではなかった。
本殿の垣根を越えた先に、朧の里へ繋がる抜け道があることも思い出した。
「や……ちよ……」
やちよ。
八千代。
口に出してみれば、一人の老人の顔が思い出される。
「八千代様……」
妙にしっくりきた。
きっと浮かんだ老人が八千代であり、朧の頭領だった者だろう。
茜凪は迷い、朧の里へと足を進めるかどうか悩んだ。
迷いも悩みも建前で、本音は逃げたいだけだと自覚する。
故郷が受けた仕打ちを受け止めた後、暴走しないだろうかと不安なのだ。
小鞠が死んでから、間違いなく着々と育ててきている憎悪という怨念。
やがて形成されたのは赤い蛇であり、この蛇に囚われたが最後―――茜凪は烏丸を手にかけようとしたことを思い出した。
さらに奥へ進めば、もっと悲惨な状態が待っているかもしれない。
それを見つめた時、真っ向から向き合った時……怨念が赤い蛇を蘇らせて、茜凪の心を捕らえたら。
どうなってしまうのか。
何度も考えた。
―――それでも、逃げるなと言い聞かせる。
「(藍人にも、環那にも……役目があった。きっと私にも役目がある)」
役目を探したい。
だから、逃げるな。
何度も言い聞かせる。
何十、何百と言い聞かせる。
ようやく歩き出すことができた時……時刻は夕刻へと片足を突っ込んでいた。
沈みかける夕陽を背に、茜凪は隅々まで里を見て回った。
本殿の周りには、純血の白狐が住んでいたことを思い出す。
皆、武芸に秀でていて、強者といえる妖が多かった。
そんな者たちに囲まれて生きてくれば、誰もが高みを目指すべきだと考えている。
白狐独特の空気や文化も相まって、最強の名に相応しい強さを持つ者ばかりが生まれたのだろう。
でも、どこか淡白な人が多かった。
今の茜凪のような、お転婆だったり、天真爛漫な白狐は記憶の中には出てこない。
皆物静かで、微笑みを常に浮かべている。
美しく、妖艶。
人を狐狸する力を持つ上で、見た目がいいことは得である。そしてそれを理解しているからこそ、武器にしていた。
ふと、足元に何かが落ちているのが見えた。
それは赤い色で塗り込まれた装飾品に見え、思わず手にとってしまう。
指先で触れて、ようやく櫛だと理解できるほど劣化している。
軽く持ち上げようとしたところで、脆さに負けて崩れおちてしまった。
崩れ落ち、滅びた赤い櫛。
見覚えがあった。
「“愛を……”」
ぽつり。ととある一節が浮かんだ。
「“愛を……探すの”」
記憶に出てきた新しい温かさ。
哀愁以外の優しい気持ち。
赤い櫛で、髪をといてくれた人。
「“愛する誰かを見つければ、どんなことでも乗り越えられる”」
笑顔は決して淡白ではなかった。
温かみのある笑顔だった。
「―――母さま……」
子守唄のように、何度も何度も囁いてくれた姿。
愛を知って、愛を理解した者。
茜凪の母の記憶であり、誰よりも主人を愛してやまなかった白狐である。
記憶にいる母の優しい茜色の瞳は、決して誰かを怨んでいるようには思えない。
だが、その母ももういないのだ。
残されたのは茜凪だけであり、兄も父も命を終えてしまっている。
頭首であったと聞く父。
純血の白狐だと自覚はしていたが、本家筋の頭首の娘だとは思っていなかった。
里へ来てからの時間で、瞬く間に妖について、春霞の重みを知っていく。
烏丸や狛神にある教養を、別の形で茜凪に叩き込まれている感覚であった。
一陣の風が吹く。
音を立てながら茜凪を導くように、奥へ奥へと流れていく。
その先に何かがあるよ。
さぁ、おいで。と言わんばかりの主張。
視線を向ければ、森の中へと続いていく道が見えた。
「庵の方角、なのかな……」
逃げることは許されない。
受け止めるためにも、茜凪は森への道を歩き出した。
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