25. 人
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「綴」
聞き慣れた、それなりに懇意にしている男の声が聞こえる。
暴君のように見えて、その実人を率いる力のあるこの男・藍人が、三頭の筆頭として力を成している頃まで時は進みます。
北見の家に出入りするようになってからもう長いこと時間が経ちますが、藍人に呼ばれると未だに肩が跳ねる時があるのです。
環那とはまた違う恐ろしさが、この男にはありました。
「なんです、藍人」
―――環那が藍人を生かし、環那の命と引き換えに絶界戦争が終結してから、早数年。
一時は、環那を犠牲にしてしまったこと。
さらに姉である旭との決別に強い喪失を覚え、絶望していた藍人。
爛や旭が、赤楝に続き環那を失ったことに耐えられず、里という妖界の括りの外側へと出て行ってしまう中、私―――水無月 綴は、どうしても彼を捨ておくことができませんでした。
正直、彼をあの時見捨てることはとても簡単でした。
血縁関係もなく、姓も違う。これまで関わりも持ってこなかった者同士です。
しかし、旭が慟哭をあげて体を折り嘆き悲しんだ様を見て。
そんな旭を藍人が見つめた時の顔色を見て。
私は思ったのです。
血筋も、姓も違うからこそ、出来ることがあるだろうと。
藍人は紛れもなく純血の妖でしたが、旭に突き放され、人柱としての役目を全う出来なかったという事実に苦しめられる姿は、どこか私のよく知る―――あの赤楝と似ていたのです。
寂しい。と、空気が訴えている。
誰かに認めてほしい。一人にしないでほしい。
そんな藍人を見捨てることは、あの赤楝を見捨てることに似た罪悪感を覚えました。
そして、私は無意識に重ねていたのです。
寂しさに溺れる藍人を立ち直らせることができたのならば。
出自に惑い、鬼を手にかけ、後世まで汚名として語り継がれる赤楝を、救うことができた気がして許されるのではないか、と。
当時の私はそんな利己的な気持ちも持っていました。
結果、救われる感覚はありました。
赤楝の時のような過ちを犯さずに、藍人は見事立ち直り、三頭の筆頭として名を轟かせます。
元気になってくれてよかった。
素直に思えるくらいには、彼に情が入っていたのも事実です。
「落ち着いて聞いてくれ」
環那が死んで、里を出てしまった旭や爛とは全く連絡がとれなくなりました。
ただ、私たち妖の中にある“憎悪”という感情には飲み込まれていないのでしょう。
連絡もとれない代わりに、彼らの噂も聞きませんでした。
共に時代を歩んできた友であり、仲間だと思っているからこそ寂しくはありましたが、噂がないことは安堵できる理由の一つでした。
―――この時までは。
「春霞が滅んだ」
「…………え?」
藍人から呼び止められ、聞かされた話に私は時が止まったかと思いました。
河童として生を受けて長らく経ちますが、こんな衝撃は赤楝と環那を失った時以来です。
「春霞が……滅んだ……?」
「今、式神に確認に行かせているが恐らく事実だ」
「……」
「鬼の朧家も同様だ。人間の仕業らしい」
春霞が、滅ぶ?
そんなはずはありません。
彼らは日本で一番強く、美しく、恐ろしい血筋の一族であり、妖の頂点に来る血族です。
故に最初は信じることができませんでした。
春霞が滅んだなど。
「絶界戦争の際、傷つけられた人間たちの復讐だったそうだ」
「―――」
「多くの時間をかけ、妖について調べ上げた後……春霞に辿り着いたらしい」
―――胸の内に熱が宿りました。
あんなに熱く、血が滾ったことは初めてでした。
赤楝や環那が死んでしまった時でさえ、ここまで酷くはなかったのです。
こんなに血が滾り、人を許せないと思ったのはここまでの歴史を感じたからでしょう。
「春霞は……」
あれだけ強い妖です。
人に攻め入れられたとて、返り討ちにすることは簡単だったでしょう。
でも。
でも、尋ねた先の結論を私は予測していました。
藍人が静かに、悔しそうに答えます。
「―――反撃はしなかったそうだ」
「……っ」
「“ここで人を殺めれば、倅の環那が目指した世界は永遠に訪れない”。春霞の長はそう言ったそうだ」
血が滾り続けます。人を殺めたいと強く思いました。
環那の願いを、春霞家の者たちが守り抜いたこと。
つまり無抵抗で虐殺を受け入れたということです。
見上げた意志の強さ。
鬼の朧も同様だったようで、東国の雪村家と同じ末路を辿ったことがわかりました。
私は、耐え難かった。今すぐに首謀者を突き止め、首を狩り野晒しにしてやりたいと暴れる妖力を抑えることに苦労しました。
春霞が、朧が耐えたのに、私が人間を怨んではいけない。
胸を抑え、唇を噛み締め、眉間に力が入るのを止めることができません。
「綴、気持ちはわかる……。だが、怨むなよ」
ハッと意識が楽になったのは、私の憎悪以上に殺気を感じたからです。
見上げた先の藍人が、今にも里ごと破壊しそうな勢いで奥歯を噛み締めているのを見て、憎悪は悲しみへと変わります。
「怨むな」
「……」
「怨むなよ。絶対に」
藍人は私に言いながら、自分に言い聞かせていたのだと思います。
そうしなければ、藍人だって首謀者のもとへ走り出していたでしょう。
「環那が生きていたら……どんな結末であったとしても、人間を怨むことはしなかった。俺たちが人を怨めば、絶界戦争の続きが勃発するだけだ」
「……えぇ」
あぁ、何年生きても、悲しみを止めることはできないのですね。
一筋の涙が零れることを諌めることができませんでした。
ぽたぽたと零れる雫には、赤楝と環那の笑顔が映り込んでいた気がしてなりません。
『 叶えたい未来は来ない 』
呆然とそんなことを考えました。
いくらこちらが譲歩し、我慢をしたとしても、相手にも同じことが伝わらなければ意味はない。
相手が人間でも、妖でもそうです。
「ですが……」
本当にそうだろうか。
ここで投げ出し、諦めることが最善だろうか。
環那や喜重郎が夢見た世界を捨ててしまうことが今できる最善の選択だろうか。
ぽつり、と漏れた声に疑念が乗ってしまっていました。
「俺はしばらく、春霞の里の周辺へ張り込もうと思う」
「……」
「茜凪の安否を確認したい」
この時の藍人は、茜凪と接触こそしていませんでしたが、事あるごとに春霞の里周辺へ出向いては彼女の成長を見守っていたそうです。
恋慕などではなく、環那との約束を果たそうとしていたのでしょう。
春霞の長……つまり環那と茜凪の父君がご健在の時から藍人はちょこちょこと彼女を気にかけており、父君も茜凪と藍人を会わせようとしていたそうです。
それも藍人が頑なに断っていたと聞きます。
彼のことなのでまだ、会わせる顔がないと思っていたのでしょう。
ですがさすがに春霞が滅んだ時は、そうも言ってられません。
茜凪を探すために旅支度をする藍人は、私も試していたのです。
「妖界最強の一族が滅んだ。この噂は瞬く間に広がるだろう。話を聞けば真偽を確かめるために里を訪れる者もいるはずだ」
「……」
「もし、爛と旭が人を怨むかもしれないと思ってるなら、止めるのはお前の役目じゃないのか? 綴」
藍人が視線で私に訴えかけます。
探しにいく気はあるか、と。
正論でした。
時世にも、他人の思いにも比較的無頓着な私ですら、環那の想いを知っている。
それは爛も旭もです。
そして彼から託されたものを全うした春霞の一族を想えば、人間への憎悪が湧き上がります。
私より幾分も素直な二人が、暴走しないとは言い切れません。
「藍人。私も共に参ります」
―――そうして、相模国・箱根連邦山への行路を行くことになったのです。
第二十五華
人
箱根山への道のりは、決して楽ではありませんでした。
藍人は人型の妖であり、そもそも獣化の概念がなかったこと。
そして私は獣化ができない点から、あくまで移動は徒歩で行われます。人と比べれば速度は出ますが、走り通して二日程かかる工程でした。
途中、休息はしたもののなかなかに詰まる予定で春霞の里に到着した際には、既にすべてが終わってしまった後でした。
「これは……」
「……」
箱根山の奥地。
朧と春霞、双方の里へ繋がる大門は跡形もなく焼かれ、倒壊しておりました。
そこから更に獣道を進めば、二又に別れる道があり、以前は鬼の里へ行くのか妖の里に行くのか決められる分岐が佇んでいたのです。
今はただ壊滅させられた地が残るばかり。灰塵の中には誰も残っておらず、春霞のすべてが滅されてしまったのか、誰かが逃げ延びたのかもわかりません。
「茜凪を探す」
「……」
この時の藍人の口ぶりは、託された彼女を全く諦めていないものだったことを覚えています。
そのまま私を置き去りに、家屋の焼け跡や商家、本殿に足を進めていく彼を、私はぼんやりと里の入口から眺めておりました。
高台になっている古丘で立ち尽くせば、やるせない気持ちになるばかりです。
「環那……」
彼が守りたかったもの。
彼が守ろうとした人間から、こんな仕打ちを受けるなんて。
考えすぎると心に毒であり、どうしても憎悪が芽生えてしまいます。
なによりこの里は壊滅した今でも漂う空気が環那の雰囲気とよく似ていて、立っていることすら辛くなりました。
強さを感じさせる清廉な空気、美しさ、そして恐ろしいと感じさせる地から這い上がる妖力。
長居をすれば、私の心が囚われてしまう。
環那を失った嘆きを繰り返し、環那が守ろうとしたものが汚されたことに心が負けてしまう。
思わず俯き、当初の目的である旭と爛に会えるかもしれないという気持ちをすら投げ捨てて、立ち去ろうとした時です。
「綴……?」
懐かしい声がしました。
それは、私のよく知った誠実さを兼ねた声でありながらも、知らないくらい弱々しかったのです。
振り返り、気配のする方へ顔をむければ、やはり来ていたようです。
そこに立っていました。会いたかった、友が。
「爛……」
互いに顔を見合わせ、内心互いに嘲笑ったでしょう。
あぁ、お前もそんな顔をするのだな、情けない。と。
「お前も、来てたのか」
「えぇ……。久しぶりですね、爛」
数年ぶりの再会だというのに、全く感慨深くありませんでした。
懐かしさよりも、寂しさや悲しみが勝ってしまって、気を抜けば環那の顔が浮かぶのです。
この頃、私たちの心はとうに限界を迎えていたのでしょう。
赤楝が死んでしまったこと。
赤楝との絆を否定させないために、人間の世へ進出しようとする妖を止め、絶界戦争に参戦したこと。
そして環那を失う代わりに、戦争を生き延び、新しい世を生き続けている。
それなのに妖の世に蔓延り始めた人間は、春霞を汚し、滅びの一途へ向かわせたこと。
どんなに譲歩しても、許せませんでした。
「さっきまで、旭と一緒だったんだ」
「旭と……」
「三日前に、大門の下で会ってさ……。あいつ、何してたと思う?」
「……さぁ。わかりませんね」
意外といえば意外でしたが、予測できる組み合わせでした。
旭と爛は昔からそりが合わないのに、何かあると意外と一緒に行動しているのです。
故に、春霞を訪ねた日が示し合わせたように同じで、再会を果たしていたとしても何ら不思議には思いません。
素っ気なく、爛の顔から視線すら離して返事をします。
正直、今は興味すら湧きませんでした。
ですが……
「墓。つくってたんだよ」
「……―――」
「春霞のみんなが、よく眠れるようにって……。あいつ、ずっと一人で……」
―――旭の顔が過りました。
男勝りで口も悪くて気も強い。女性らしからぬ方ではありましたが、心根はとても優しいのです。
環那を想っていたことも、弟が人柱になる時の切なさや迷いも、側から見たらとても愛らしいのです。
そんな彼女らしい……行為だと思いました。
「奥地にさ。埋葬するんだって……。結局ひとりで全部やり切って、去ってった」
既に去ってしまった旭。
彼女がこのあと何をしでかすのか、心配な気持ちはあるのに体は全く動きません。
旭が人間の町へ出て、争いを仕掛ける。
もしくは、春霞を壊滅させた首謀者を探し出し、首を刎ねる可能性がある。なのに、私はどこかでそれを望んでいました。
「俺、人間を許せそうにねぇや」
ぽつり。
雨が降り出したような、最初の一滴。それに似た、一声でした。
ようやく爛の方に向き直ることができて、彼の顔を見つめます。
爛はといえば、私から視線を逸らして滅びの結果に終わった白狐の根城を見下ろしていました。
爛の視線の先にいるのは藍人。
懸命に茜凪を探し続ける式神師でした。
「師範が描いた夢、環那が掲げた夢。それらを背負うつもりで人里を見据えてきたけど……」
それは、爛が烏丸の里から離れたあと、彼の旅路のことを言っているのでしょうか。
真偽はわかりませんし、深入りもしようと思いません。
彼の独白にも似た言葉たちは、私に受け入れてほしいために語られるものではなく、誰でもいいから聞いてほしいという風に思えたからです。
「結局、俺たち妖は人間に関わるべきじゃないんだ」
「……―――」
「俺個人としては……そう結論付けた」
―――風が止みました。
いいえ、彼の声しか私の耳には届かなくなったのです。
思わず私は息を呑みます。眉が下り、信じられないものを見つめるような、切ない表情になっていることを否めません。
なぜ。
なぜ、そんなことを言うのですか、爛。
そんな顔をして、心から本気で思っているわけではない言葉を。
あなたがそんなことを言う必要はないはずなのに。
どうして自分で自分の首を絞めているのでしょう。
「師範が描いた世界は来ない。人と妖は分かり合うことはない」
「爛……」
「環那が守ろうとした世界がある、それはわかってる。でも結果、春霞が泣き寝入りしてるだろ。こんなのはおかしいんだよ」
「……」
「俺たちが人の世に遺恨を残さないようにするってことは、妖を守るためなんだ。人間を守るためじゃねぇ。仲良く平和に過ごせる世なんて……ッ」
ギリリと噛み締める唇。
握る拳。
俯く視線。
爛の全身で語られる想い。
それは、憎しみではありませんでした。
怨念ではありませんでした。
彼は、人間を怨んでいるようには見えません。
彼は……―――
「赤楝と出会ったことも、過ごした時も、否定しますか?」