23. 夢歿
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暗闇に仕切られた部屋。
丸い障子戸の向こうへは、決して行けないとでもいうように閉塞感がいつもあった。
「千与様、本日はとても天気がいいですよ。空気の入れ替えを致しましょう」
ここへ囚われた心優しい鬼は、私の声に微笑むだけ。
潰れた目が揃っていた頃は、きっともっと美しかっただろう。
それは誰もを魅了するような笑顔を向けてくれただろうと容易く想像できる。
誰もがこの方を愛で、捕まえたいと思ったはずだ。
「本日の朝食は、春霞自慢の稲荷です。中に高菜が入っております」
そんな千与様の心を射止めたのが、信じられないことに人間だったという。
幕臣旗本の男。何人も部下を侍らせて、千与様を迎えに来たと噂に聞く。
そして千与様を迎えた際、邪魔をした一人の者を斬り捨てたとも聞いていた。
どこの誰だか知らないが、きっとその者も千与様を愛していたんだと思う。
「僭越ながら、この稲荷は私が作らせていただきました」
愛とは、なにか。
春霞の姓を受けた者にとって、それは永遠に与え続けられる課題だ。
純血の春霞は強さ故に他の妖より短命で、尚且つ数も少ない。
縹や烏丸のように数を増やすこともできず、細々と戦火を見守る存在となっていた。
春霞の数が増えない原因はいくつかある。
ひとつは女の白狐は、他の妖より体が特殊だということ。
そして一番の原因は、春霞の者が愛という感情が乏しかったせいだ。
誰かを好く感情も、添い遂げたいという感情も、強く実感できる者は少ない。婚期に対しても関心が薄く、結婚願望もある者が殆どいなかった。
成り行きで仕方なく婚姻を結んだとしても、お互いに愛し合った番は少ないため交配は極端に少なく、相手の子供を望まない者ばかりだ。
だが妖としては人を化かす力に優れているため、目的のためには人間や鬼と交配をする者も多かった。先に述べた通り、白狐の女は特殊なため、さぞ人間や鬼は喜んだという。
それでも心が関係しているからか、子供を宿す例は聞いたことがなかった。
よく女狐に化かされるとは言ったもので、愛もなく目的のためなら誰にでも体を差し出せるからか。
私の周りにも心を伴わなくとも交配することにさして躊躇いのない仲間ばかりだった。
かと思えば、白狐は一度強く惹かれた相手からは離れられないことが多かった。
運良く春霞同士で結ばれた者は、それは子供をよく産んだ。異族に愛する者ができた人も同じくだった。
まるで運命の相手と出会うことを待っていたのだと訴えていた。
滑稽だと思う。とても。とても。
目的のためなら誰とでも交配する反面、本当にすべてを捧げたい相手は一人だと言っている。
矛盾している。
この世界は矛盾だらけだ。
理不尽に押しつぶされる前に、相手を押し潰さなければ生きていけない。
この庵に囚われることになった鬼・朧 千与をみていると痛感する。
耐え難い理不尽により、囚われた哀れな鬼。
鬼は平和を望むとは聞いていたが、彼女は自ら敵意ある理不尽を受け入れここにいる。
平和を望むとは、こんな様を受け入れることを指すのか。
甚だ疑問だ。
「痛みはありますか、千与様」
「……」
「今、当て布を変えます」
そして、その傍付きである私も、理不尽によりここに囚われている。
偉そうに言ってはいるものの、どこにも逃げる度胸がないだけだ。
『 親殺しの春霞 詩織に自由を与えてはならない。
詩織は強烈な破壊衝動を持っている 』
そう認定された私は、その衝動が揺れ動かされないために、癒えない傷を負った鬼の世話をすることになった。
間近で惨たらしい傷の手当を続け、哀れな千与の世話をすることで衝動を抑えろと情に訴えかけたのだ。
あぁ、理不尽だ。理不尽である。
笑顔も浮かべることはできず、誰にも信頼を向けることができない。
真実を知る者もおらず、共に生きていける者もいない。
淡々と哀れな鬼を見守るだけ。
この鬼が死んだら、私はどこへ行けるのだろう。
「……、」
「!」
ぼんやりと考え込んでいたところに、指先を包み込む温かさに出会う。
「千与様、」
どれだけ痛め付けられても、鬼は笑顔を失わなかった。
醜い面を隠しもせずに、笑っていることを訴える。
優しくて、見ているこちらが悲しくなるほどに。
「……、……。……?」
なにかを、話そうとしていた。
唇が音にならないものを発している。
視線を逸らせず、ゆっくりと動き続けるそれを見つめた。
「 」
世界が昇華した。
たった一言のそれは、私の胸の中に美しい音を伴って響き渡った。
第二十三華
夢歿
「師範……?」
天保二年 冬も終わりに差し掛かった某日の明朝。
旭と共に道場へと戻って来た爛は、人里から戻ってくるはずの喜重郎の姿がないことに疑問を持った。
旭にとっては久しぶりの道場だったが、変わらない形や匂いがあることに安堵する。
ここにないのは、道場主と内弟子の姿だけだ。
「おかしい。この時間ならいるはずなのに……」
「赤楝も見当たらないな」
道場にいるはずの喜重郎がいない。
同じく住区を探しても内弟子である赤楝の姿もなかった。
旭と爛が顔を見合わせる。
嫌な予感は昨夜からしていた。不穏な空気もまだ取り払われていない。
「とにかく探そう。何かあったのかもしれねぇ」
「あぁ」
赤楝の気配のことも気に掛かる。
そして強者である喜重郎が、しばらく道場を留守にしている形跡があることも。
恐らく人里へ出向いたであろう喜重郎をまず探すために、爛と旭は行動を始めるのだった……。
丹波と若狭の国境の人里は、相も変わらず穏やかな空気が漂っていた。
決して豊かとは言えないのだろうが、のんびりとした空気と人の良さが現れている町並みが続いている。
食糧などで何年も世話になっている場所だが、この日は異変を察知した。
風に混ざって、血の匂いが漂っていたのだ。
「血の匂い……」
「それに、微かだが傀儡の残骸の匂いもする」
旭と爛が目立たないように屋根伝いに走りながら、喜重郎がいたであろう痕跡を探し続けていた。
傀儡……つまり人を狙う多々良の術を退けたということ。
昨夜、この辺りで戦闘があったことは間違いなさそうだ。
「旭!」
少し先を走っていた爛が、急に足を止め細い路地に入っていく。
連なり入り込めば、黒い土がいくつも不自然に山になっている光景が目に入った。
「ここだな」
「問題はその後、どこに向かったかだ」
数からして尋常ではない。
相当な新手を引き連れた襲撃だったのではないかと思う。
見回りながら手がかりを探す。
ふと、一角を曲がったところで濃密になる、空気に残った血の匂いを旭は感じた。
「う……」
思わず鼻を押さえてしまう。
濃い匂いにくらくらする。
一体誰の血だ? 敵か? ともう一つ奥まった資材置き場へと視線を投げた。
その時だ。
「え……」
旭が資材置き場を見てくれているならば、逆の方へと足を進めようと歩き出した爛。
だが、悲鳴にも似た声はすぐに彼を引き戻させた。
「師範!!」
旭の甲高い声は爛を走らせるのに十分な効果を発揮する。
声音からしていい結果ではないだろう。
短い距離を全力で走り抜けた先、爛も悲鳴に似た声を飲み込むことが精一杯だった。
「師範ッッ!!」
袈裟斬りにされた喜重郎が、ぐったりと蔵と蔵の間で倒れていたからだ。
旭の声にも、爛の声にも反応を示さない。
旭が思わず体を揺すろうとしていたので、爛が弾かれたように止め、脈をすぐに確認する。
流れた血は乾いている。時間が経過していることを伝えていた。
「師範、しっかりしろ……っ」
爛の脈拍ばかりが耳に届く。
喜重郎の脈はなかなか感じ取ることができない。
爛の指先が震えていて、正確に察知できないからかもしれない。
「誰が……こんなこと……―――」
旭の声は遠くに聞こえた。
尊敬する師を失いたくない。
一心で今できることを考える。
やがて永遠のような刹那、ようやく喜重郎の弱々しい脈を感じ取ることができた。
「―――まだ生きてる……っ」
「本当に……!?」
「旭、先に道場に戻れ。すぐに手当の準備と、狢磨へ式神を出してくれ!綴にもだ!」
「わかった」
的確な指示を出しながら、爛は自身の妖力を師に与え続けた。
死んではいけない、と強く願いながら。
狢磨(かくま)とは、怪狸の一族の姓であった。
喜重郎の弟子の中に、爛たちと年の離れた弟弟子がいる。流浪の旅を続けており、多少医術に心得がある者だった。
年上だが弟弟子なので、実に爛や旭とは不思議な関係である。敬う気持ちも互いにあり、良好な関係を築いてきた。
今、その年上の弟弟子・狢磨の力が必要だ。
「死ぬな師範……ッ」
妖力の受け渡しを続け、少しでも生命力が維持できるように努める。
旭が立ち去ってからしばらく経った頃、努力が報われた。
「う……」
「師範!」
「ら……ん……」
薄く開いた眼光は、弱々しい。
気を抜いたらまた死の淵を彷徨うだろう。
だが、次いだ言葉はまた爛を迷わせるものだった。
「か、が……ち……を……」
「え……」
「赤楝……を、とめて……くれ」
まさか。と過ぎる最悪の結末。
喜重郎の一言は、誰がこの現場を作ったのかを伝えているようなものだ。
「赤楝を、止めてくれ……」
「嘘だろ……赤楝が……、師範を……?」
あいつのどこに、そんな力があったんだと考えてしまう。
師すら超える力を、憎悪を糧に手にしたと言うのか。
ぶるりと悪寒が背筋を伝う。
「赤楝を……」
再び眠りにつこうとしている喜重郎の目尻に涙が浮かぶ。
なにかを悔いているように見えた姿に、爛は喜重郎を背負って走り出した。
「赤楝……―――すまない……」
「(赤楝……!)」
◇◆◇◆◇
道場のあたりが騒がしいことなんて、今の赤楝にはどうでもよかった。
時は更に進み、深夜。
相模国・箱根連峰のひとつ。
芦ノ湖が見渡せる山の中に、朧と春霞の里がある。
誰に教わったわけでもない。
ここに来れたことを赤楝は嬉しく思っていた。
強いていうならば、教えてくれたのは環那と、千与の気配だった。
仮初の力を得た赤楝は、初めて己の中に妖力を感じていた。
幸福だった。
爪弾きにされた世界の中にようやく認められたと思えた。
そして力は千与の居場所を教えてくれた。
はるか昔に覚えた気配のまま、箱根山からひとつの線を描くように赤楝に道標を与えてくれていた。
春霞と朧の共通の大門を躊躇いもなく潜り、そのまま森の中へと進んでいく。
妖も鬼の気配も感じられない。
人気がなく、想像していた以上に寂れた場所。
小さな民家が連なる方角へと導かれるのだとうと予測していたが、それらしい場所は出てこない。
環那と千与の気配も分かれていた。
どうやら同じ場所にはいないようだ。
まず再会したいのは千与だ。そのため懐かしい香りがする方へ、森の奥へ奥へと進んでいく。
人が常に歩いている道はなく、獣道を進み続けた。
ついに念願の千与に再会できると喜びが湧く一方、どうして捨てたのかという糾弾したい気持ちも募る。
ぐちゃぐちゃに混ざる感情すら、高揚感を呼ぶ。
世界に認められ、力を持ち、千与にも再会できるなんて幸せなことこの上ない。
赤楝は感嘆のため息を漏らし続けた。
ふと、ひとつの気配をようやく感じる。
小道に流れる畔のせせらぎ、そこで夜中にも関わらず洗濯をしている娘がいた。
色素の薄い茶色の髪、覗く瞳は環那と同じ茜色。
―――千与の世話係となっていた、詩織だ。
汚れた手ぬぐいを洗っているようで、赤楝の姿には気付いていない。
千与との再会に水を刺されては困る。
先に始末をしておこうかと迷い……―――見逃した。
音も気配も消して、ゆるゆると千与の気配を追う。
またしばらく歩いた先、ようやく千与の気配の在処が視界に入った。
「千与様……」
庵だ。
廃れた庵。
鬼が棲むにはあまりにも質素。
妖として生きてきた赤楝が聞き及んだ“鬼”の姿とは、かけ離れている。
「千与様……!」
思わず駆け出した。
すぐ、手の届く場所についに再会できる相手がいる。
木々を揺らしながら、赤楝は庵の戸に手をかけ、音が立つのも構わずに開け放った。