22. 赤キ蛇
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「それでは環那様。ゆるりとおやすみください」
「ありがとう。僕がいない間のことは頼みますね」
「お任せください。次に成長したお姿で会えることを楽しみにしています」
襖戸が閉まる。
環那は自室で深く深く目を瞑った。
時はきた。
体が成長に必要な時間も栄養も蓄えたとでも言いたげに、強い眠りを呼び起こす。
環那が里に戻って来てからの成長はあっと言う間だった。
彼はみるみる背丈が伸び、顔つきが大人っぽくなっていった。
他の妖が五年ほどかけて進める成長過程を一気に加算させていく。
最後の仕上げとでも言いたげな強い眠りは、春霞に伝わる言葉を借りると妖力を整えるために必要だとのことだ。
生きていくために必要な妖力を、全身に行き渡らせるために何日も眠り続けるのだという。
これが終われば、道場に戻れる。
さっさと眠って起きなければ、と環那は気持ちが急いていた。
理由はたったひとつ。
友の存在が気にかかっていたからだ。
「赤楝……」
まだ、まだ待っていて欲しい。
もう少しだから。
彼が行くであろう道を照らすためにも、環那は焦るばかりだった。
環那が抱えた未来を予測する力は時に厄介だった。
彼ばかりが全てを抱えて、理不尽に立ち向かう運命を負ってしまう。
そしてその理不尽に食い潰されそうとしているのは、赤楝も同じだと環那は知っていた。
だからこそ、側にいた。
彼と友であり続けたいからこそ、願っていた。
「(爛……。僕の代わりに赤楝を支えてくれ)」
それは託したもの。
言葉にしたことのないけれど、聡くて繊細な爛ならば気付いてくれるはずだ。
環那の願いを受け取り、動いてくれると信じていた。
重圧になっては困るからこそ口にはしない。
爛は男気のある者だから、心配もしていなかった。
だが、すべてを予測、予知できる力は誰も持っていないのだ。
環那が次に目を醒し、立派な妖となった折に待っていた現実はあまりにも過酷なものだった……。
第二十二華
赤キ蛇
赤楝に見送られた喜重郎は人里での護衛を立派に勤め上げていた。
相変わらず縹やら多々良の妖がちょっかいを出しに来ていたけれど、喜重郎の相手になる者ではなかった。
ただ、今日は数が多かったために少々音を立ててしまった自覚はしている。
溜息をつき、東の空が明るくなってきているのを見つめて額の汗を拭う。
そこらじゅうに傀儡の黒土が砕けた残骸が転がっているが、片付けるのは時間的に難しそうだ。
どうしたものかと考えつつ、足で残骸をすり潰して誤魔化してみる。
できる限りのことはしよう。
そう心に決めて歩き出した喜重郎が、顔をあげた刹那だった。
「喜重郎さま……?」
背後から、聞き慣れた愛おしい声がする。
振り返れば、まだ寝巻き姿のまま路地から出て来た心を寄せる娘の姿があった。
「ちか……!」
「喜重郎さま、どうなされたのですか?こんなに朝早く……」
「あ、いやこれは……」
「ど、どうしたのですか!?」
何年もこの人里を護って来た喜重郎だったが、人に気付かれたのは初めてのことだった。
事を荒立て、大きな音を出しながら戦ったことに猛省する。
まして気付かれた相手が思い人であることも運が悪かった。
生傷が増えた喜重郎を見て、ちかと呼ばれた娘が彼をそのままにするはずもなく、躊躇いなく近付いてくる。
夜着の裾が汚れることも厭わずに、喜重郎の頬についた血を拭ってくれた。
「またこんなに怪我をして……。喜重郎さま、少し修行をしすぎなのではないですか? それに、こんなに朝早くこんなところで修行をしてたのですか?」
「あ、え、そう、だな……」
「なんですの、その歯切れの悪い返事は……。まさか、さっきまで起きていた大きな音は喜重郎さまが……?」
「い、や……!」
どう誤魔化そうか焦れば焦るほど言葉が詰まる。
その間にもちかは喜重郎の傷の手当を慈しみながらしてくれた。
端から見ればそれは仲睦まじい男女の姿であることは見て取れるほど、二人の距離は近かった。
「とにかく、朝はまだ冷え込みます。どうか私の家で手当を」
「いや、そうはいかんのだ。そろそろ道場に戻らねば弟子たちが心配する」
「そのままの格好で戻られた方が心配されると思います」
両頬を包まれ、下から覗き込まれた喜重郎。
ちかと視線がぶつかれば、愛おしい気持ちと同時に切ない気持ちが生まれる。
己が妖だと告げられないせいで、嘘や偽りを重ねているからだ。
視線を逸らすこともできず、真っ直ぐに迷いを孕んだ目を向ければ、ちかは優しく微笑むのだ。
「悲しいのですか……? 喜重郎さま」
「……」
「そんな顔、なさらないでください」
往来で、でも人影はまだどこにもないからこそ、喜重郎とちかはそのまま唇を重ねた。
愛おしさには偽りがない。
偽っているのは自身の身分だ。
自分が誰であるのか。
わかっていても告げられないという苦しさ。
自身の存在に対する苦しみは、喜重郎と赤楝の共通したものだと師は思っていた。
「―――……ちか。お前が愛おしい」
「私もです。喜重郎さま」
「愛おしいほどに、故に苦しい」
「なぜですか」
ちかはそのまま手をとり、喜重郎の指先を己の頬に持っていく。
「ちかは、逃げも隠れもしません。ここにおります。なにがあっても」
「……」
「愛しております。喜重郎さま。お傍に、いつでも置いてください」
ひたむきに向けられた心に幸福を感じる。
瞼を閉じ、喜重郎はちかの温もりを感じていた。
ずっと今のまま、申し訳ないがこの曖昧な関係が続けばいいと思っていた。
だが、瓦解はすぐそこに迫る。
一つの足音が始まりだった。
「師範」
「……―――」
近付く気配は微塵もなかった。
音は背後にくるまでなにもなく、微かな砂利を踏む間近のそれでようやく気付く。
呼ばれて振り返れば、かつてはぐれ者と呼ばれた最弱の弟子がただ一人で立っていた。
「赤楝……」
刹那、やばいと悟る。
次の瞬間には喜重郎はちかの首裏を本気で叩き、気を失わせる。
赤楝が今から語ることは、どう考えても悪い方向にしか転じないと思えた。
環那には己の口から人間を愛していることを伝えた。
が、赤楝は人を怨んでいる。
その人間と男女の仲にある、妖と人が。
口が裂けても言えなかった。
だからといって誤魔化すことももうできないけれど。
倒れたちかを抱え、喜重郎は赤楝と対峙する。
赤楝の瞳には光が宿っていなかった。
信じられないものを見た、とでもいうように拒絶を全身に滾らせながら喜重郎を見ていた。
ただ、見ていた。
「その人は、誰ですか」
「……」
「人間ですよね……。師範の何ですか?」
「赤楝、聞いてくれ。これは―――」
「まさか愛してるとでも言うんですか?」
どの場面から見られていたのか、物言いで理解する。
男女の仲だということはばれてしまっている。
昔、環那にも同じような問いかけをされたな、と頭の片隅で思い出していた。
その時の環那は、人間に心を向けていることにというよりは、歳の離れすぎた娘を好いていることにふざけ半分で引いている様子だった。
だが、赤楝は違う。
「それ、人間ですよ」
誰かを恋慕う気持ちは理解している。
咎めたいのは相手が人間であること。そんな言い草だった。
「師範、わかっているんですか? それ、人間ですよ」
「……あぁ」
「人の子です。かつて関ヶ原から我々を迫害した、人間です」
「そうだ」
「そんな人の女を愛してるというのですか……純血の猫の、強者たる貴方が?」
赤楝の顔がどんどん歪んでいく。
信じられない。と告げている。
言葉以外の空気でも赤楝は喜重郎を攻撃していた。
「私は人が許せません……。そんな人を師範が愛しているなんてことも信じたくありません」
「赤楝、俺は人も妖も鬼も、すべての者が幸せに平和に暮らせる世をつくりたい。そのために縹家を脱して来たんだ」
喜重郎は、どこまで赤楝に届くかわからないが、伝えなければならないと思った。
急拵えな言葉で、計画性のない焦る言葉でどこまで聞き入れてもらえるだろうか。
赤楝は一歩身を引き、耳を塞ぐように両手を構えてしまう。
それでも、伝え続けた。
「俺は、この娘を愛している……ッ!こいつと生きていくためには、妖界を変えなければならない、そのために俺は異種が交流できる道場を―――」
「そんな世は来ない!!」
環那は喜重郎の言葉を聞いた時、純粋に見てみたい世界だと思いを馳せた。
彼になら、もし喜重郎が夢半ばで倒れたとしても想いを託せると信じていた。
そんな弟子が増えていってほしいと心のどこかで願っていた。
「そんな世は有り得ないッ!来るはずがないッ!人は妖の聖地を奪ったんだッ!」
「赤楝……っ」
真っ向から否定を向けた弟子に、喜重郎の心は思っていた以上の苦しみを負った。
教えて来た強さは、心の強さも含んでいたはずだ。憎悪に負けないように心を鍛えることもしてきたはずだ。
なのに、彼には根本的に届いていなかった。それくらい悲しみが根深いのだと改めて実感する。
そんなことが、今までわからなかったのか。と自分にも情けなくなってしまった。
「私は人間を許さない……。千与様を奪った人間を!私を痛めつけた人間を!」
「千与……?」
「なのに、なのに……信頼していた師範が人を愛しているだと!?滑稽にも程がある!貴方は妖界を担うほどの強さを持っているくせに、妖界として譲れないものを簡単に折りにいくのかッ!」
赤楝の目には涙が溜まっていく。
その様は親と喧嘩をする幼児のようであり、痛ましい。
裏切りたかったわけではない。
理解してほしいと願っていた。人を愛している。だから人と生きていける世を、妖界の常識を覆すために、未来を担う若者を異種で集めて強さを説いてきた。
仕上げは彼らがもう少しだけ成長したら、人と鬼と妖の話を、怨みを晴らすための話をしようと思っていたのだが、一歩及ばなかった。
「貴方は私が人を許せないことも知っていたはずだッ!それなのに……っ、それなのにッ!人の味方につくのか!?」
赤楝は差していた刀を抜き、喜重郎に向ける。
体に纏った気配はいつもの赤楝ではなかった。
ほんの少し増幅された妖力と、強い怨念。
涙を溢しながら向かってくる彼は、絶望しかみていなかった。
「千与様を奪った人間の味方をするのかァァァ!!!!」
手合わせや指導をする時以上の力で挑んでくる赤楝に、喜重郎も対抗する。
片手で繰り出した妖術でちかを移動させ、腰から抜いた武具で赤楝を受け止める。
もう一つ気がかりだったのは、赤楝が探している鬼の名前が明らかになったことだった。
「よせ赤楝……ッ、俺はお前と戦う理由がない!」
「私はありますッ!貴方を許すことができない!妖界の秩序を乱す貴方を許せない!」
「ぐっ……」
赤楝の普段の力が嘘であるようだ。
まさに憎悪を手玉にとった彼の姿が体現されたといってもいい。
喜重郎も本気で止めるために相手をしなければ、恐らく手傷を負うだろう。
妖力を込め始めるために、赤楝の気を逸らそうと―――禁忌の話題を口にした。
「それに、もしやお前が探しているのは千与という鬼か?」
「―――!」
「朧 千与のことか……!?」
赤楝の力が弱まる。
その相手の名前を、他人に呼ばれたことがまた久かったからだ。
そして隠し続けていた姓まで明らかにされたことに、赤楝は驚いてしまう。
「どうして貴方が千与様を……ッ」
「落ち着け、赤楝……ッ!」
「何故、千与様を知っている!!」
「っ、環那から聞いてはおらんのか!!」
「環那……っ?」
―――そこで環那の名前が出てくることは、赤楝も理解できた。
朧の守護についているのが春霞で、環那の一族だったからだ。
だが、環那と千与に繋がりがあるのは知らなかった。
「環那がなんだっていうんだ!」
「ぐ……ッ」
鍔迫り合いが続く。
喜重郎は弟子を傷つけたくない一心で加減をしつつ、千与の話題に気を取られていた。
「千与様は朧家の鬼だ……ッ、ただそれだけだ!あのお方は里には戻らん!里が嫌で旅に出たんだ、そこで私と出会ったんだ……!」
「赤楝……、お前知らないのか……?」
「環那と千与様にはなんの関係もないはずだッ!関係があるならば、環那が私に教えてくれるはずだ……ッ!千与様と環那が知り合いならば!千与様が生きているのであれば、千与様が私のことを環那に―――ッ」
―――この後のことを、喜重郎は死ぬまで後悔し続けていた。
思わず口が滑ったというのはこのことで、環那の思惑も知らなかった喜重郎は告げてしまうのだ。
「朧 千与は今、朧の里にいる」
「―――……え?」
「酷い手傷を負って、静かに療養していると環那からの手紙には記してあった」
「―――」
「お前が探している鬼が朧 千与なのであることを、環那は知らないのか……?」
―――聴覚が効かなくなった。
そのあとも何か続けて喜重郎が告げていたが、赤楝の耳にはもう音が届かなかった。
千与が、朧の里にいる。
それを知らせたのが環那だった。
確かに環那には千与の話はしていない。爛にも名前は明かしていない。
だが、環那と千与が顔見知りなのであれば、千与は赤楝のことを環那に話していないのだろうか。
別れ際、あんなに痛めつけられた赤楝を案じていないのだろうか。
そんなはずない、と赤楝は認めることができない。
あの千与が、優しい千与が、家族のような姉と弟のような関係だった千与が、赤楝の身を案じることがないなんて。
環那や朧の者に何も言っていないなんて。
千与の最後の願い通り、千与はすべてを忘れたように過ごしているのだろうか。
『 ア ワ レ ナ カ ガ チ 』
また、赤い蛇が取り巻いてくる。
ぐつぐつと煮えたぎるような熱で赤楝を包んでいる。
足も手も縛り上げられて、最後の仕上げとでも言いたげに長い舌が伸びてくるのを第三者のように傍観していた。
「千与様……」
―――それから先のことは、記憶が曖昧だ。
喜重郎とどう戦ったのかも覚えていない。
力に任せて斬りつけて、隙を見て逃げた……ような気がする。
裏路地に入り、家屋に背を預けたときに返り血の量の多さは疑問だった。
まるでこれじゃあ喜重郎を殺したような大量の血。
それでも、赤楝の記憶は曖昧だ。
むせ返るような濃密な血の匂いは感じていたのに、なにも覚えていない。
「う……うぅ……」
また心が不安定になる。
もういい大人と言える年齢だったのに、赤楝の頬からは涙が伝った。
情報に追いつけなかった。
千与のこと。
環那のこと。
喜重郎のこと。
人間。
痛み、血、朝焼け、人里。
嗚咽を漏らして泣き続ければ、赤楝が赤楝を抱きしめないと孤独に打ち負けそうだった。
喜重郎に、千与に、環那に裏切られた気持ちになる。
そんなことはないのだ。
全てがうまく噛み合っていないだけで、この物語の中で赤楝を裏切ろうとした者は誰もいないはずなのに。
「再びお目にかかりましたね、赤楝殿」
そうして心の弱さや闇に付け込む者がいる。
背後にぴったりとついて現れたのは、二度目だ。
だが、最初の蕎麦屋で出会した頃のように驚きはしない。
彼が言った通り、赤楝に真実を黙っていた者がいた。
彼が告げたことは誠の真実だった。信用に足ると思ってしまう。
それが狡猾な蛇のやり方なのだ。
「どうです?教えて差し上げた通り、貴方を裏切っていた者がいましたね」
「……」
「朧の里に帰還している千与は、どうして貴方のことを誰にも口にしないのでしょう?」
「……」
「別れ際、あんなに貴方が苦しめられていたのに?誰にも貴方のことを案ずる話はしないなんて、白状だと思いませんか?」
蕎麦屋で出会った者とは、違う空気がする。
今度は臆することはなかった。
臆することも、殺気を感じることも、冷静な判断ができない脳が涙ながらに背後の声を聞き続ける。
「そして、こうは考えられませんか?」
赤楝の涙は流れ続ける。
追い討ちを楽しむかのように、まとわりつく蛇は笑う。
蛇の姿は見えないのに、その存在は“蛇”だと認識できた。
「朧 千与は赤楝、貴方を捨てたのですよ」
「―――」
「朧 千与は人間を愛していたんです。だから朧の里を出て、愛した旗本の男の傍にいくために人の世で過ごしていたんです。そんな日々の中、哀れな貴方を拾った。ですが、愛した旗本との縁ができ、嫁ぐ際に貴方は邪魔になった」
「……」
「だから捨てられたんです」