20. 誠実
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「随分遅くなっちゃったなぁ」
朧の里で八千代と謁見し、箱根峠ではぐれ者を中心とした妖を退けた環那。
夕方にもう一度八千代のもとへ戻り報告を終え、丹波と若狭の国境を目指して帰路を辿っていた。
「この調子でいくと、道場に着くのは明け方かな」
独り言を呟きながら、山中を行く。
俊足で駆け抜けてはいるものの、思い通りに速さが出ない。
足が重たいのか、心が重たいのか。
環那はらしくないなぁ、と苦笑いを浮かべながら、里を出る前に八千代から引き合わされた人物のことを思い返していた……。
―――………
―――……
――……
朧の里、春霞の里から随分と歩かされた山中の森。
そこには小さく佇む庵がある。
昔は鬼の修行の一環として使われたそうだが、今は廃れて誰も近寄らない土地だ。
その庵に、彼女はいた。
「千与」
艶やかな夜着を身に纏い、姿勢良く床に座っていた。
どこか虚な瞳で障子から外を見つめ、雪が降り出しそうな空を見つめている。
美しいのは見て取れるが、儚さを持っているのは空気が伝えていた。
八千代に案内された先で、環那はこの鬼……―――朧 千与と出会った。
いや、正しくは再会したというべき。環那は、まだ幼き頃に千与と出会い、見知っていた。
その頃と今とでは、まとっている空気感が全く違うが。
「千与、体調はどうじゃ」
「……」
「彼の者を覚えておるか? 春霞 環那じゃよ」
庵に入って来た気配が二人であったことは千与も感じていたらしい。
障子の外へ向けていた視線をこちらにゆっくりと投げ、八千代と環那を確認する。
「……―――」
そして……微笑んだ。
環那は千与の表情に驚愕する。
哀愁や儚さを感じさせるものを覚えてはいたが、振り返った千与の半面は予測していなかった。
頬には大きな傷が複数あり、彼女の右目は潰れていた。
傷が残っている点から察するに、鬼の再生能力でも賄えなかったのだろうか。
右目は恐らく眼球を失っている。失くしたものを再生できないのは人も鬼も妖も同じだ。
「脚も奪われておる」
「……っ」
八千代が耳打ちした事実。
夜着で隠れているのでわからないが、八千代が言うには両脚も切断されており、一人で動くことはままならないそうだ。
「一体誰が……ッ」
―――躰が燃えるように熱かった。
環那が瞳の奥に炎を宿し、指先を白くなるまで握りしめ、今にも相手を探しに行かんばかりの勢いで八千代に尋ねる。
妖として鬼を守るという本能に、環那は今支配されている。
覚悟が必要だ。という意味をやっと知った。
心が憎悪に飲み込まれるのを、防ぐ覚悟があるかと聞かれていたんだ、と。
「人間の仕業じゃ」
「な……ッ、こんな手酷いことを―――」
「千与は人を愛しておる」
「綺麗事を言ってる場合ではないでしょう……!?」
「環那」
八千代は環那を制止させるように告げた。
「千与は人を愛し、自ら身を捧げたのじゃ」
「え……」
「千与はその旗本の男に騙され、弄ばれ、捨てられた。結果がこれじゃ笑止千万。わしも悔いておる」
「―――」
絶句した。
いくら強さを持ち、その強さを自在に操る環那ですら心が蝕まれそうであった。
「目を離さなければよかったと何度も……。じゃが、あの頃の千与を―――」
「……」
「止められるだけの術を、朧は誰も持ち合わせておらんかった」
―――相手が人間である以上、鬼は人に手を出さないだろう。
ましてや相手が旗本となれば、表舞台に出ることになる。
環那は悔しくて仕方なかった。
だが今心に抱いた思い以上に、朧の長が堪えているのだ。環那はなにも言うことができない。
「千与を人に痛めつけられたことは許さぬ。人間は下劣で、力もないのに日の本を我が物顔で占拠しようとしておる」
「……」
「じゃが、共にあるべき者なのじゃ。我々が我慢を強いられるだけの関係ではない。憎しみだけを向けてはいかん。人間だから、と全てのものを一括りにするのもいかんのじゃ」
「……」
「だからこそ、今でも千与は……」
―――この場にいるもので一番、人間を理解しているのは千与なのではないかと環那は思う。
同じ人だから。
すべての人間が悪で、善はない。そう決めつけていいわけじゃない。
すべてが善で、悪はない。そう信用してもいけない。
分かり合えるようになればいいのにと思うのだ。
「人も鬼も妖も、平和な世で暮らす……」
ふと、喜重郎の夢が過った。
偉大な猫の背は逞しく、強い。
今でも自身が助けた娘御に思いを寄せている。
喜重郎だからこそ、掲げた夢。
「千与はこの庵で生活しておる。里に戻ったときは、顔を見せてやってくれ」
切なく、やるせない顔をした八千代は、側に控えていた一人の女中を呼び付けた。
「詩織や」
すぐに現れたものは春霞の者であり、純血筋の白狐だと気付く。
色素の薄い茶色の髪、茜色の瞳。白狐の娘として一般的な姿だった。
環那と同じくまだ子供の姿をしており、物静かな印象を受ける。
「はい。八千代様」
「お主も存じておるだろう? 春霞の長の倅、環那じゃ」
詩織と呼ばれた娘と、環那は初対面である。
里の中で出会ったことはなかったが、詩織は環那を認識していた。
「聞き及んでおります。環那様」
「詩織、環那が千与に会いに来た際は通してやってくれ」
―――わしの孫娘は、幼い頃の環那と懇意にしていたからな。
思い出は一時、痛みを癒すかもしれん。
八千代は小さく言い残し、庵を出ていく。
千与は小さく笑うだけで、最後まで言葉を発することはなかった。
声を返してくれない彼女を環那は不自然に思い、千与に一歩近付こうとする。
が、詩織は環那が何を知りたいのか予測したのだろう。
真っ直ぐ、誤魔化すことをせずに答えを投げて来た。
「千与様は話すことができません」
「……っ」
「強すぎる心傷により、言葉を失いました」
やるせない。
ぽつりと暗い心にそれだけが灯る。
環那は下げた視線を上げることができなかった。
どうして人を愛したのか。
どうして騙した人をまだ愛しているのか。
どうしてそんなに美しく、でも悲しそうにでも笑い続けるのか。
「……、千与様」
詩織の声が驚いている。
だが、環那は視線を千与や詩織に向けることはできなかった。
そのまま薄暗い庵の地を見つめ続ければ、視界に白い指先が入る。
息を呑んだ。
腕だけで体を引き摺り、前へ出て来た千与がいたからだ。
思わずやっと顔をあげれば、千与と至近距離で視線が絡む。
―――幼い頃、八千代に可愛がってもらった時。
そこに千与もいたのだ。歳の離れた姉のように、慕っていた時間を思い出す。
「千与様……」
「……、……」
言葉は発せられない。
でも、それ以上に言葉をもらった気がした。
環那の頬に触れた千与の指先。小首を傾げて笑う様は愛らしさを感じさせる。
彼女は、微塵も後悔していないように見えた。
「(理解……したい)」
どうして千与は笑っているのか。
こんなに痛めつけられ、侮辱されたのに、満足そうな顔で笑うのはなぜか。
満足そうにしているくせに、悲しみを見せるのはなぜか。
異族であるのに、どうして人間を愛しているのか。
「(愛を知れば……わかるようになるのだろうか……―――)」
環那は瞼を閉じる。
思い出す、仲間達の姿。
温かく、優しさを感じる仲間の姿。
環那は瞼を閉じた闇の世界で、千与の指先を、温もりを感じていた……―――。
第二十華
誠実
環那が道場に戻ってくる頃。
赤楝と爛は夜の深い縁側に座り、みかんを頬張りながら語らっていた。
六年間、気になりながらも聞くことができなかった問い。
赤楝が隠し、抱えたものについて、爛は問いかけた。
共に生きるために、支え合い、笑い合うために踏み出した一歩だった。
そして赤楝もそれに応える。
「私は、鬼に育てられました」
「え……、えぇ!?」
その告白は、予想外のものだった。
はぐれ者だった赤楝が誰かと別れてしまったこと。
その相手を探しにいくために強くなりたいと願っていたことは、兄弟弟子なら皆知っている。喜重郎に入門するときに伝えていたからだ。
「その鬼が、私が探しているお方なんだ」
「そ、そ、そうだったのか……」
思わず吃って瞬きも繰り返してしまう。
つまり、赤楝が強くなりたいと願った先には離れ離れになった鬼を探しにいくためだったということだ。
鬼と妖は密接な関係にあるし、鬼と関わりがあることはなんら不自然ではない。
だが鬼が直々に妖を育てるという事例を、爛は知らなかった。
ある意味、本能的に憧れるし、羨ましいとも思う。
「じゃ、じゃあその鬼の姓は?姓がわかれば、守護についている妖がお前の一族なんじゃ……」
的を得たことを言ったつもりだった。
しかし、赤楝は苦笑いのまま続けた。
「私も同じことを考えたよ。鬼が自ら私を育ててくれたのだから、きっとそうなんだろう、と。でも……」
「でも?」
「そんなはずないんだ。そのお方の姓で、守護についている妖の一族が私だっていうのは……あり得ない」
爛はこのとき察した。
鬼の名は“千与”であると過去に余計なことをしたせいで知っていた。
だが、赤楝が爛に千与の名前を伏せながら話をしようとしているのだと。
―――この時のことは後に後悔する。
手記を読んだことを告げ、千与の名を出せばよかったと。
姓を朧だと聞いておけば、力になれたんじゃないかと。
赤楝の力に。そして環那の力に。
「私は、物心ついたときははぐれ者の集団の中にいたのです。ですが、幼い頃から妖力が微弱で……どの輪にも入れてもらうことができませんでした」
「……」
「幼子の頃は気にかけてもらえていましたが、五つを過ぎた頃からは自立しろと促されました。はぐれ者も数が多く……食うに困る状況は続いていましたから」
「そうか……」
「ろくに動かず、妖力もないのに、腹は空くし疲労もする。生きていくことが辛く、泣くばかりの日々でした。誰も信用も信頼もできず、親切にしてくれる者もいない……。そんな時、町で私に声をかけてくれた唯一の方が、その鬼でした」
艶やかな容姿。なのに勇ましく。
天真爛漫で、太陽みたいな人。
誰にでも優しかった。
強くて、美しくて、非の打ち所がないお方。
「商家から食べ物を盗んだ私の代わりにお金を払い、私に笑いかけてくださいました。名を与え、生きていくための知恵を授けてくださいました」
字の読み書き、手習い。
食事の作り方、作法。
洗濯、掃除。
千与からしたら、赤楝をどうして引き取り、側に置いたのか理由があるのだろう。
今となっては知ることができないけれど。
そして授けてもらった時間、知恵、愛はすべて……赤楝と離れる時のために与えられたものにも思えた。
「彼女と生きていく時間は何にも代えられないくらい、幸せでした」
爛は、赤楝のその一言に想像する。
己の世界の中心が、たった一人の鬼だったとしたら……―――。
「でも、彼女はあるとき……人に攫われてしまいました」
「攫われた?」
「はい。大勢の侍を引き連れて、やってきた人間の男に彼女を連れていってしまい……私とはそれ以来、離れ離れです」
世界の柱が失われた日。
爛は想像し、赤楝は思い出す。
唯一無二の愛を与えてくれた人は、どうして自分のもとを去ってしまったのか。
どうして侍が赤楝を痛めつけるのを振り返りもせずに見ていたのだろう、と。
「あの時、私が強ければ彼女を引き止めることができました」
「……」
「私が軟弱で力がなかった故に、彼女は人の手に渡ってしまった……。だから強くなり、彼女を探しに行きたかったのです。でも……」
「(そっか……だから、繋がるのか)」
―――結論、赤楝は千与を探しにいくことはしていない。
今も、昔も。この道場を離れたことは、入門してから一度もない。
近場の人里で話を聞いたりはしているそうだが、日の本全土へ探しに行く気概はまだないと見受ける。
それは気合の問題ではないのだ。
彼が抱えている劣等感。
自身が何者で、どんな力があり、どんな出自を辿っているのか。
どうして妖力がほぼ皆無といえるほど微弱であり、最弱な妖であるのか。
もし千与を見つけて、助けられたとしても。
後悔がなくなるわけではない。
「再会できてよかったね」と笑える日がくるかもしれないが、千与が酷い目に遭っていたとしたら、“どうして私は妖なのに鬼を助けられなかったんだ”と自分を責め立ててしまう。
詰まるところ、赤楝は自身が許せないのだ。
赤楝は誰なのか、どうしたら強くなれるのか。
千与を今度こそ守るために、自分は誰であるかを理解した上で初めて会いにいけるのだと思っているのだ。
爛からすれば、それより探した方がいいじゃないか。と思うのだ。
だがここは順序の問題らしく、頑として赤楝は譲らないのだろう。
それは、赤楝でなければ理解できないのかもしれない。
「私は一体、誰なのでしょう」
「……」
「私は間違いなく、腹の中に憎悪という化物を飼っています。故に、関ヶ原の遺恨で人を怨む妖の気持ちが痛いほどわかる」
「赤楝……」
「ですが情けないことに、私はこの憎悪すら、手玉に取ることができません……」
―――憎悪すらも力にする。
妖の単純で一番強い力を、赤楝は原動力に変えられていないと自嘲したのだ。
爛はかける言葉を見つけられない。
「思えば、彼女は自らの意志で人についていったようにも思えるんですよ」
「え……?」