16. 武士道
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文政七年の盆明けのこと。
赤楝を迎え入れた喜十郎の弟子たちは、相変わらずの日々を過ごしていた。
武術の稽古と妖術の稽古を繰り返し、里と道場の行き来をする。
道場に住み込みである環那と赤楝は、喜重郎の身の回りのことをこなしつつ、鍛錬に明け暮れていた。
「環那」
赤楝が夜の稽古をするというので、付き合っていた環那。
名を呼ばれたので動きを止めて視線をあげる。
黒い髪に赫灼の瞳である男は、相変わらず矛盾を連想させる顔立ちだ。
対する環那は温和と麗人を体現した姿。
赤楝は自身の矛盾を抱えた容姿は気にしていないようだったが、環那の視線は気にしているようだった。
「あの、聞いてもいいですか……?」
「なんだい?」
「爛のことなんだけど」
赤楝から出てきた名前に、環那はくすりと微笑んだ。
悪い意味ではない。いつか、環那自身が親友になると信じている男の名前だったからだ。
烏丸の姓を名乗る者は天狗の血筋を引いている。
対して春霞は白狐であり、元来この種族同士は仲が悪い。
だが、環那からしたら知ったこと。
当時の妖界からしたら環那の存在は異端でもあっただろう。爛の環那に対する態度の方がよっぽど正常であった。
「私は教養がなく、妖界の歴史についてそこまで知り得ていません。ですが、天狗と白狐が仲が悪いというのは、見ているとわかります」
「そうかな?僕からしたら、爛くんが僕を特別視してくれている証拠だと思うんだけど」
照れ屋なんだと思うよ。とへらっと環那が返せば、赤楝は思わず苦笑い。
「そうでしょうか……?」
「それで、どうしたの。爛くんについてなにかあった?」
「いえ……。日々邪険にされているので、環那のことが少し心配だったんです」
「あはは、ありがとう。でも僕はちっとも気にしてないよ」
「……」
「僕は爛くんとゆくゆく親友になる予定だし、妖界の中で伝承され続けている天狗と白狐の仲についても、どうでもいいさ。僕は爛という男を見ているから」
「……私の取り越し苦労でしたね。安心しました」
赤楝がへらっと笑うので、つられて環那も笑顔になる。
そのまま優しい空気のまま稽古が再開されるかと思っていたが、赤楝は間を置かずに視線を下げてしまう。
環那は左手に構えた竹刀を思わず解き、赤楝に近寄る。
僅かな音で声をかければ、赤楝から思わず本音が溢れた。
「本当、環那は凄いですね……」
「赤楝?」
「爛があれだけの態度でいても、君は君の信念を貫こうとしている。誰に左右されることなく」
ぽつりと続けられるものは、か弱く不安そうだった。
「私は……そんな爛と環那の関係が羨ましいです」
「……」
「言いたいことを言い合え、お互いを認め合う……。己への自信があるからこそ、できることなんでしょうね」
赤楝の目に見えたのは、薄暗い水面のようだった。
清らかな湖、いや泉や湧き水に毒が盛られたあとのような仄暗さ。
ぼそぼそと続く声は、環那でなければ聞き取れなかったかもしれない。
「もしあの時……私がもっと強ければ―――」
―――刹那、環那の異能が働いた。
環那の能力は、茜凪が持っている直感能力も備えていたが、一番は未来予知だったかもしれない。
予知した未来が不穏なものであれば、それを変えるために行動することができる。
「千与様を……人間なんかに―――」
「赤楝」
環那は赤楝から感じられる、冷徹な空気を感じながら思わず彼の腕を掴んだ。
環那に触れられたことをきっかけに、赤楝は自身の感情が渦巻いていたことに自覚する。
噛み締めた唇からは、血が滲んでいた。
「それ以上、その感情に支配されてはいけない」
「……」
「君の過去に何があったのかは知りたいと思わない。大切なのは今の君だから。でも―――」
―――それ以上、心を……憎悪に染めてはいけないよ。
環那は暗に視線で告げていた。
「……すみません」
環那は出会った当初であるこの頃から、赤楝の危うさを感じ取っていた。
気付くたびに語りかけ、彼の未来を闇に引き摺り込まれないようにと声をかけ続けていた。
赤楝ははぐれ者だったこともあり、身にまとう憎悪の空気が具体化しやすかったのかもしれない。
環那にはわかってあげられない部分もあるだろう。
「―――再開しましょう」
折り目正しく告げ、竹刀を構えた赤楝。
一重の瞳の奥に秘められた底冷えする光は、どこへ向かうのだろうか。
環那は願わくば、どうか幸せがあって欲しいと強く望むばかりだった……。
第十六華
武士道
「爛、あんた体調悪いんでしょ?」
環那と赤楝の夜稽古から一夜が明けた。
昼間は喜重郎の指導のもと、高位な妖術や武術を身につけるべく鍛錬に励む弟子たち。
ただ、この日はいつもと違うことがあった。
「別に。大丈夫だっての!」
「明らかに顔色悪いって。無理せず寝てたほうがいいんじゃない?」
今日は組手として二人で武術の修行をしていたのだが、爛の相手をしていた旭が顔をしかめた。
組手の構えを解き、腰に手を充てて仁王立ちになる。
旭の声を聞いていた綴が、視線を爛に投げてみれば、確かに顔色が悪そうだった。
「うるせーな!大丈夫なもんは大丈夫なんだよ!稽古しない方が感覚鈍るだろ」
「風邪ですか?」
「夏風邪は〜―――」
綴が声をかけた合間に旭がくすくす笑う。
続く言葉を発せられないように、爛が旭を睨んだ。
が。
「バカがひくって言うよねぇ」
続きを悪びれる様子もなく告げた環那が立っていた。
思わず額に筋を浮かべた爛は、そのまま環那に掴みかかっていく。
「おいてめー!白狐のくせに天狗の俺をバカにするなぁ!」
「えぇ、これでも心配してるんだよ。大丈夫?熱あるよね」
首元をぐわんぐわんと前後に動かされていたが、環那は気にした様子もなく爛の額に手を当てている。
嫌がってはいたけれど、爛は環那の手を弾く余裕はなかったようだ。
「ちょっと高いんじゃない、爛くん。休んでた方がいいよ」
「お前に指図されたくない!」
「いやいや、指図とかではないよ。それに無理して稽古しても質が悪くなるし」
正論を告げる環那。
旭と綴も後方支援をしようと一言二言つづければ、爛は居辛くなったらしい。
大人しく今日は帰ることにしたようだ。
「……師範に話してくる」
今日は入門希望者が来訪していたこともあり、そちらに回っていた喜重郎に声をかけるために道場を出ていく爛。
背中があまりにもフラフラしていたので、環那が追いかけようとしたのだが。
「あ、爛く―――」
「環那、代わりに私の相手してよ」
爛との視界の間を旭に遮られ、環那は思うように声がかけられなかった。
そのまま姿が見えなくなれば、環那は見送ることしか出来ない。
「……うん、わかった」
仕方なく旭と組手をするために構えた環那。
綴は水煙術の修行を中断させ、そういえば、と姿が見えない赤楝のことを口にする。
「そういえば、今日は赤楝の姿も見ていませんね」
「そういえばそうね。赤楝はどうしたの?」
綴の一言に、旭が思い出したように環那に尋ねる。
環那は気まずそうに笑いながら、答えた。
「えっと……昨日の夜稽古で、ちょっと派手に暴れまして」
「……」
「……」
「僕の竹刀が頭に直撃したせいで、たんこぶが……」
―――どうやらあの後も色々あったようだ。
環那がぽりぽりと頬をかきながら苦笑い。
つまり、怪我をしたので部屋で休んでいるようだ。
「朝、氷を替えに来たときには大事はなさそうだったんだけど……頭がガンガンするって言ってて」
「環那、あなたって人は……」
「はぁ〜、信じられない。赤楝は妖力がないし、私たちより腕力も体力も劣ってるのよ?なのに本気で相手にしたの?」
旭からの呆れた叱責に、環那は「つい力んじゃって」と続けた。
綴は何も言わなかったが、代わりとでも言うように旭が倍にして言葉を連ねる。
「赤楝もここに慣れて来たけれど、元々はぐれ者で、血筋も種族も不明。おまけに妖力も皆無で力もない。私たちの中じゃ最弱なのよ?なのに、対にいる環那が本気で相手してどうすんのよ!」
どんどん目前に迫ってくる旭に、環那は苦笑いしながら後ずさることしかできない。
変なところで物腰が弱く、勝負どころで発揮される度胸は環那の代名詞でもあった。
じりじり後退する環那を他所に、旭もどんどん語気が強くなる。
「師範はああ言ったけれど、赤楝から妖力をまともに感じたことなんてないんだから!どれだけ稽古したって、この状態なら妖術なんて扱えるようになるわけないわ!その事実に赤楝が打ちのめされてるかもしれないのに、環那、あんたが更に追い込んでどうするのよ!?」
「あ、旭……」
「環那、あんたは春霞の純血!この日の本で最強の妖だって言われてるんだからそれくらい理解しなさいよ!」
ひぃい……と恐怖を感じている環那に対し、どんどん表情が険しくなる旭。
綴は旭の声が大きくなってきていることに気をかけていた。
もし、赤楝が近くにいたらそれこそ不快な思いをさせるのではないか、と。
そして―――それは現実になる。
背後、障子戸の向こう側に誰かの気配を感じたからだ。
まさか。と思い、綴が急いで戸に駆け寄る。
「……っ」
だが、相手も綴が近付いてくることがわかったようだ。
静かに足音を殺して遠ざかってしまう。
結局のところ、誰がそこにいたのかもわからなかった。
「赤楝……?」