魔法の味をあなたに

 


──ああ、これは夢だ。

目覚めた瞬間に理解した。
だって景色に現実味がない。こんな場所は知らない。

それに何より、体が生身なのだ。
鏡なんか見なくても感覚でわかる。
懐かしい、脆く柔らかく温かな手。その手で顔に触れてみる。目。鼻。唇。それぞれに凹凸のある、世界一可愛くて素晴らしかったあのかんばせを感じた。

たとえ夢とはいえ、取り戻したいものを取り戻せたというのに、俺の心はひどく凪いでいた。
この顔への執着がすっかり無くなっているから、と言えば嘘になる。
けれど今はそれよりも優先したいものがあって。
顔が無くても愛してくれる人を得てしまったから、優先度が少しばかり、低くなっていて。

…ま、そんなことは今はどうでも良いか。
所詮は夢だ。いつか覚めるのだから、せっかくの明晰夢を楽しませてもらおう。

あたりを見回す。
そこは学校にある理科実験室のような空間だった。
蛇口とシンク付きの大きな机が三つ並ぶ空間。
簡素な丸椅子に座らされた俺は、その内の一つの机に突っ伏すように寝ていたらしい。

椅子から立ち上がると空間がよく見えた。
前方にはホワイトボード。壁には扉、棚。反対側の壁には冷蔵庫、オーブン、コンロ。なんだこれ。随分と変な取り合わせの空間だった。
実験室というよりは、何かの調理部屋みたいな……。

そこで、はたと気付く。俺は部屋着にしていたラフなスウェットの上に、見知らぬエプロンと三角巾をしていた。はぁ?マジで料理すんの?ここで?こんな格好で?
作った料理を食べさせる相手もいないのに。

着させられていたものを無理やり引き剥がそうとする。しかしエプロンと三角巾はどう足掻いても俺の体から離れなかった。明晰夢の割に融通が利かない夢だ。腹が立つ。

仕方ないので散策をすることにした。
するとホワイトボードに何やら文字が書いてあるのが目に入った。とても小さな文字だった。都合の良いことばかり前面に出して、都合の悪い内容は小さく書くみたいな、意地の悪い広告みたいなサイズ感の字だ。
遠目にはよく見えないので仕方なく近寄って内容を確認すると、そこには踊り出しそうな字でこう綴られていた。

『お目覚めのきみへ
大切な人に贈り物でもしてみない?
この調理室にあるものを自由に使って、素敵なお菓子を作ってね!
もし足りない材料があれば、エプロンのポケットに入ってるベルを鳴らして念じてくれれば係の者が届けるよ。
特別な隠し味も用意したから、ぜひ使ってね!
きっときみの大切な人と、もーっと絆が深まるよ!』

ふざけてる?
夢は俺の記憶の整理のはずだけど、こんな夢に繋がる記憶なんてあったかな。突拍子もない展開に溜息をつき、エプロンのポケットに手を入れるとそこには確かに小さなベルが入っていた。
ところどころが古く錆びついているものの、鈍く黄金に輝いている。重厚そうな見た目の割に軽い。
試しに一振りしてみれば、頭の中で反響するようにチリンチリンとベルの音がした。うげぇ、なんだか気持ちが悪い。
だが気持ち悪い以外には特に何事も起こらなかった。足りない材料ったやつを念じてないからだろうか。ひとまずベルはポケットに戻した。

いけ好かない文面が踊るホワイトボードから視線をずらし、部屋の前方にある扉を見やる。唯一の扉。やっぱりどこかの学校にある教室みたいな引き戸になっていた。
真ん中より下に、レターボックス……の割には大きな箱が取り付けられている。箱の蓋を開けてみても何も入っていない。けどさっき鳴らしたベルで頼んだ物がここに届くのかな、と、何となくそんな気がした。
外はどうなってるんだろ。引き戸に手をかけてみれば、特に施錠をされているわけでもないらしい。引っかかりなく開くままスライドすると、そこには見慣れた銀河が広がっていた。

「──は?!」

ヤバイヤバイヤバイ!だって今、俺、生身!酸素マスクもない!死んじゃう!
慌てて戸を閉める。いや、夢なんだからこんなに慌てなくてよかったかも。冷静にそう考える自分をよそに、脳の奥の奥。深いところにある本能的なものが怯えているのがわかった。
まさか。まさかね。こんなの、夢に決まってるけど。夢じゃなきゃあり得ないんですけど。


気を取り直して室内に視線を戻す。
ホワイトボードから一番遠い机に雑誌のようなものがあるのが目にとまった。近付いて見てみれば、それは『かんたん!お菓子のレシピ本』という浮かれたフォントが添えられた表紙の本だった。
やれブラウニーだ、ガトーショコラだプリンだクッキーだ。地球産のレシピブックらしいそれはどれも大量に砂糖が使われていて、見ているだけで頭がクラクラしてくる。こんなの食べたら確実にラリッちゃうよ。でも美味しそー……あ、イチゴ飴とかもあるじゃん。
パラパラとめくったページの中に、果実を丸々べっ甲あめでコーティングしたフルーツ飴が載っていた。思い浮かぶのはいつも苺フレーバーのキャラメルを選ぶ相棒。常に隣にいる存在がこの場に存在しないことを思い出してしまい溜息が出る。

「はーぁ。せっかくの明晰夢だってのにどうしてカートはいないんだろ。ベルで呼べば出てくる? ……なんて」

独り言は静かな空間に溶けていく。
本当はもう、見て見ぬふりをできる範疇はとっくに越えていた。

噂には聞いたことがある。
この広い宇宙には無数の神様が眠ったり住んだりしていて、俺らみたいな生き物は時々それらと接続してしまうことがあるらしい。
上手いことやれば無事に帰れはする。帰ってきた人の話が噂となって俺の耳にまで届いているのだから。
もしかしたら欲しいものを持ってきてくれるベルで、大切な存在を呼び出すことはできるのかもしれない。
だが、もしも製菓の材料として……食材としてふさわしい形で連れてこられたら?
考えるとゾッとした。十数年ぶりに味わう、全身に鳥肌の立つ感覚。
カートは巻き込みたくない。
俺一人で何とかして、帰らなければならなかった。

幸い、いま俺に求められているのは『大切な人にプレゼントを作っていけ』というノルマだけのようだ。サクッと簡単に作れそうなものを作って帰ればいい。帰り道がどこにどうあるのかは疑問だが、まあそれは進めていけば分かることだろう。
どんなゲームも、小さなフラグをいくつも立てて回収してを繰り返さなければクリアできないのだ。


1/1ページ