第二話
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「ハルっ…もう駄目です…終わりにしましょう…よっ…!」
無慈悲にもシャーディス教官に死ぬ寸前まで走り続けろと言われてから、およそ五時間以上はこの訓練場を走り続けているだろう。
ゼエゼエと喉が鳴る音が次第に大きく聞こえ、空腹と体力も限界寸前まで来ているというのに、食堂の方からは104期の訓練兵達がなにやら楽しげに夕食を取っている会話が聞こえ、極め付けには美味しそうなご飯の香りも漂ってきて、サシャはすっかりと走ることに失念していた。
しかし、そんなうちにも気づけば食事の時間は終わり、宿泊舎に戻る時間を知らせる鐘の音が駐屯地に響き渡った。
食事を済ませた同期たちは未だ走り続けているサシャとハルのことを横目に見ながら、各々気の毒そうな視線を向けてきたり、あるいは笑いものにしながら宿泊舎へと戻っていく。
そうして人気がなくなった頃合いで、サシャは自分の前を走るハルの背中に、もう終わりにしようと訴えた。体感的には一日中走り続けているような気がして、疲労も空腹も眠気も限界だった。
しかし、前を走るハルはこちらを少し顔だけで振り返り、「まだ駄目だ」なんてことを言うので、えぇと思わず顔を渋くしてしまう。
サシャは狩猟民族の集まるダウパー村で生まれ育ってきた。森で狩をし野を耕して、自給自足の生活をしてきたため体力には自信があったが、前を走るハルは息は上がってはいるものの、まだ走れそうな余力が残っているようにも見える。
「まだ指定された時間まで三十分残っているし、何より教官が何処かで見ていたら面倒だ。…今日の晩ご飯どころか、明日の朝食だって抜かれかねないよ」
朝食を抜かれるという言葉と正論のダブルパンチを受け、息も絶え絶えだったサシャは思わず目眩を覚えると、足を縺れさせ地面に鬱向けに倒れ込んでしまった。
ズシャア…
「え…サッ、サシャ!?」
土埃を上げて盛大に倒れたサシャに、ハルはギョッとして足を止めた。慌てて後ろを振り返りサシャの元へと駆け寄ると、両膝を地面につき、倒れている体を仰向けに抱え起こす。
「サシャ…しっかりして!」
「も、もう限界ですっ… ハル、私を置いて先に行ってください…」
まるで死の瀬戸際にいるかのようにそう言ったサシャは、よろよろと右手をハルに伸ばした。そんなサシャにハルは首を横に振って見せて、サシャの差し出した手をぎゅっと掴む。
「そんなっ、サシャを置いていくなんてこと出来るわけないじゃないか!…それに、折角ここまで走り続けてきたんだ…、あともう少しだから…!一緒に頑張ろう、サシャ」
眉を開いて自分を見下ろすハルは、本心で自分のことを気にかけてくれていると分かってしまって、サシャは嬉しい気持ちと比例して罪悪感で胸が一杯になるのを感じた。
完全なるとばっちりで自分と同じペナルティーを受け走らされているというのに、サシャに対してハルは恨み言一つだって口にはしなかった。それどころか、挫けそうになっている自分を頑張れと励ましてくれている。
ハルがそんなに前向きなのに、自分がへこたれているわけにもいかない。とは、思うのだが…、やはり限界は限界なのである。
「ハル…すみません、私の所為でこんな目にあったのに」
それでもなんとか力を振り絞って懸命に体を起こそうとすると、ハルは自分の体を支え起こしてくれながら言った。
「気にすることじゃないよ。…これも、身になることだと思えば悪いことじゃない」
ニッと人当たりの良い笑みを浮かべて、ハルは何の事はないというようにサシャの体を肩に背負うように支えながら、再び歩き出した。
そんなハルの横顔を、サシャは相変わらず申し訳ないと言う気持ちと、嬉しい気持ちを抱えながら見つめた。
自分はずっと、外の世界を拒絶して…外の世界で生きる人たちのことも拒絶して生きてきた。
それは自分が狩猟民族であるということに誇りを持っていたからでもあり、マリアが陥落してからは木々を切り倒して、動物たちを横取りする人間が増えてきたこともあって、森の外で生きている人間達に対しての嫌悪感が募っていた。私たちは外の人間に迷惑もかけず、頼らずに生きているのに、外の人間は私たちから大切な生きる糧を奪っていく。それは不平等なことだといつも腹立たしく思っていた。
正直なところ、外のことを知る必要もないし、関わることも面倒くさいと思っていた。
しかし、それは違うのだと父に否定をされてから、私はそれを受け入れられなくて、悔しくて家を飛び出しこんなところにまで来てしまったのだった。
父は、私が臆病者なのだと言った。
家を飛び出した時は、父の言葉に納得がいかなかった。それでも、森を出てからというもの、普段普通に生活していくだけでも、不安ばかりがまとわりつくのだ。
普通に人と会話をするだけでも、今まで気にしたことさえもなかった訛りが気になってしまったり、森では自由に羽を広げていられたのに、ここでは人の目ばかり気になってしまう。息苦しくて…、正直つらいと感じていた。故郷に帰りたいと…何度も思ってしまっていた。
それでも、今…初めて外の世界に来て、良かったと思えている自分が居た。
自分は酷く迷惑をかけたのに、ハルはそれを受け入れて、笑って支えてくれている。
そんなハルにはそもそも、人に対して平等や不平等さを求め、感じる概念すら無いようにも思えてしまう。
細くて白い腕なのに、自分の体を支えてくれている熱が、とても優しくて、力強くて…。
涙が出てしまいそうになるくらいに、優しさで溢れた人も、外の世界にはいるのだということを知って、それが嬉しくて、何だかとてもホッとして、堪らなくなった。
––––そして、気付かされてしまった。
他人に対して常に平等であることを求めることの、心の貧しさを––––
ハルもまた、自分と同じように故郷を荒らされたシガンシナの人間だ。自分が嫌悪し続けてきた外の人間だった。
そして、その外の人間は、私が初めて出会った、とても温かくて、優しく思いやりに溢れた少女だった。
「あ、あの… ハル」
「?」
その温かな気持ちに背中を押されるように、唇が勝手に動いてしまう。
「私と……その、友達になって、くれませんか?」
すると、ハルは突然歩みを止め、黒い双眼を丸くして、こちらへと視線を向けた。そのあまりにも真っすぐな目に、思わずたじろいでしまう。
「いや、そ、そのっ!こんな迷惑かけておいて…言うことじゃなかったかもしれないですけどっ…!」
そうだ。
こんな面倒事に巻き込んでおいて、普通に考えれば自分なんかとはもう関わりたいなんて思わないだろう…。
サシャは無謀なことを口走ってしまったなと後悔しながら苦笑を浮かべる。が、対してハルはサシャの両肩をがしりと掴んで、少し身を乗り出すようにして声を上げたのだ。
「サシャ!!」
「うわあ!?なっ、なんですか!!」
サシャは驚いて少し身を引き後方へと下がるが、がっしりと両肩を掴んでいるハルは追いかけるように二歩前に出て、満面の笑みを浮かべた。
「なるよ!!いや、なってよ!!」
あまりに意気揚々として嬉しそうに瞳を輝かせているハルに、サシャは呆気に取られてしまう。
「い、いいんですか…?私、迷惑をかけたのに…」
「迷惑なんかじゃない!そんなことよりも、断然、サシャが友達になってくれるっていうのが嬉しいよ!」
そう言ったハルは、至極満足げに微笑みを浮かべたまま、夜空に向かって顔を上げた。
こんな巻き添えを食らっても、自分と友達になることなんかで全部相殺されてしまう。あまりにもお人好しで、楽天的だけれど……それでも、そんなハルがサシャにはとても好ましいと思えた。そういう風に、自分も生きて行けたらなとさえ、思えてくる。
今までうじうじと悩んでいた自分が何だか馬鹿らしくなってきて、サシャは思わず吹き出してしまった。
「ハル、前向きやね!」
そして隠してきた方言まで出てしまったことにハッとして、サシャは顔を赤く染め口を押さえた。しかし、ハルは馬鹿にするようなことも、怪訝に思う素振りさえも見せず…。細い指先で、訓練場の乾いた地面と足元を指差した後、ゆっくりと腕をぐっと夜空に伸ばして、地に向けていた指先を天に向けて言った。
「下を向いてるよりは、ずっといいよ」
月光に照らされた、ハルの闇夜に溶け込むような黒髪と、双眼。同じ黒を携えているというのに、どうしてか、その瞳は太陽のような温かさと輝きを孕んでいる。
サシャはそんなハルの、天へと伸ばされた指先を追って、視線をゆっくりと持ち上げた。
そして息を呑む。
足元ばかり見て走り続けていた時間は、とても苦しく、辛かった。
走っても、走っても、自分がどこまで進んできたのかも分からず、どこに向かっているかも分からずに、終わりも見えなかった。
それでも、こうして目線を少し上げただけで、こんなにも世界は広がり、美しく輝くのか。
夜空に浮かんでいる満天の星空に言葉を失い、見惚れているサシャ腕を、ハルがそっと掴んで、再び走り出す。
そうすると、夜空の星が流れていくように見えて、まるで自分が広い空を駆ける鳥のようにも思えてしまう。
(ああ、そっか…)
ハルが時より走りながら、空を仰いでいたのは、こういう理由があったからだったのか。
「そう…やね」
胸から溢れ出すような感嘆を混えて、サシャはそう囁き、もう一度ハルへと視線を向ける。
自分の手を引くハルの背中が、快活に前を走っている。
その背中を、追い駆けていたい。
何故だかそんな気持ちになって、サシャは先程まで抱えていた重たい感情を脱ぎ捨てて、ハルに引かれて動かしていた足を、自分の意思で前へと動かす。
そうすると、不思議と走り始めた時よりもずっと…、心も足も、軽くなっていた。
闇夜に浮かぶ彼女の背中には、まるで翼があるかのようだ
サ(ハル!!なんだか私、あと10周は出来る気がしてきましたよ!)
(えっ!?…10周?!そっ、それは流石に…)
サ(やりましょうよ!そうしたらきっと、明日の朝ごはんは数倍美味しく感じる筈ですよ!?)
(いやぁ…そ、それは無理があ)
サ(頑張りましょうねハル!!)
(え“ぇ?!)
完