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それはゲネの日の出来事だった。
お芝居の舞台稽古が無事終了して、次はショー。休憩を挟んで再びオケボックスにスタンバイ。
今回はちょっと異色なショーなのだけど、物悲しいメロディからクラシック、耳について離れないメロディまで多岐にわたっていて演奏するこちらからすれば結構しんど……遣り甲斐のある公演だ。
上垣先生が指揮台につく。演出の栗田先生と上垣先生とのやりとりが続いている間、楽団員の私たちはそれぞれの楽器を調整したり譜面を確認したりしていつでも演奏を始められるよう心の準備を───
「!!」
すいと視界を横切る影に胸が大きく波打ったのは、漂ってきたその香りを知っていたから。というかつい今朝まですぐそばにあったその香り。
いやでも何で!?混乱する私を知ってか知らずか、何とも不思議な和の衣装に身を包んだそのひとは、指揮台の後ろにあるはしごに手をかけつつちらりとこちらを振り向いた。切れ長のその瞳に射すくめられて頭が真っ白になってしまった私は、(あれなんだっけ、妖精じゃなくて妖怪じゃなくて、ええとええと)今思い出すことじゃないのにそんなことばかりが頭の中にぐるぐる回ってすっかり動けなくなってしまった。
コン、と指揮棒を譜面台に軽く打ちつける音。上垣先生が少し睨むようにこちらを見ている。しまった。お腹に力を入れて深呼吸をひとつ……よし、落ち着いた。私がフルートを口にあてるのを確認してから上垣先生が指揮棒を構える。
視線はあくまでも先生に。けれどその背後で焦点のぼやけたあのひとがうすく笑んだ気がした。
静かに演奏が始まり、やがて身軽に銀橋へと上がったそのひとが「我こそは付喪神……」と歌い出す。ああそうだ、付喪神。昨日教えてくれたんだった。なのに肝心なことだけ内緒にするんだから本当にくえないひとだ。
……そういうところもホントはすきなんだけど。絶対言ってなんかやらない。

* * *

「オケボックスから出るなら出るって、なんで教えてくれなかったんですか!?」
「その方が面白いと思って」
「おも……」
「実際面白かったし」
「おかげで上垣先生に怒られちゃったんですよ!」
「まだまだ修行が足りてないんじゃないの」
「修行って」
「もっと私に慣れないと駄目なんだよきっと」
「……。近い」
「もっと近づこうか?」
唇が軽く触れた後、こつんとおでこがぶつかった。がんばって睨んでみたけど顔が火照っているのがわかるしきっと迫力も何も無いんだろうな。
「……ちなつさんの、いたずらっこ」
「そんなところも好きでしょ?」
「……」
「ありがと」
「言ってない!」
「顔に出てるもん」
「出てない!」
「私にだけ見えるんだよきっと」
とろけるように柔らかく微笑まれたら、もうなんにも言えなくなってしまった。

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