安赤ワンドロワンライ

バレンタイン

「あれ、寝ちゃったの?」
「ああ……」
 沖矢は、机に突っ伏しているかわいい寝顔に見入っている。この男の前で、安室が眠るとは。こんなにも安心しきった顔で。
(赤井さん、めちゃめちゃ嬉しそうじゃねーか) 
 放っておけばいつまでも見つめていそうだったが、呼び出しがかかった。
「はい……わかりました。一時間後には」
 電話を切った沖矢は、「すぐ戻る」と言って出かけ、本当にすぐに戻ってきた。
「え、もう終わったの?」
「いや、今から向かう。これを」
 くうくうと眠る安室の横にそっと置かれたのは、何ともファンシーな、小さな紙の手提げ。薄い水色の地に、星やハートや花が描かれている。 「もしかして、チョコレート?」
「ああ。ちょうど佐藤刑事がいてな。アドバイスしてもらった」
 おそらくはコンビニで、二人がバレンタインのコーナーで話すのを想像する。佐藤刑事のアドバイスって何だ。
「参考になった?」
「ああ。彼女はすごいぞ。俺がチョコレートの棚を見ただけで、『安室さんにあげるの?』と聞いてきた」
「あ、そう……」
「じゃあ、行ってくる。大して時間はかからない。……彼にいい土産を持ってきたいものだ」
 優しい目で、肩に掛けたブランケットを直してやっている。つまりは公安案件か。
(喜ぶより怒るんじゃねーの?いやでも「君へのプレゼントだ」ってこの人に言われたら、安室さんは怒ることを忘れそうな気もする……)
「行ってらっしゃーい……」
 コナンは、乾いた声で沖矢を見送った。二人の恋が静かに進行していることに気付いていないのは、幸せそうに眠るトリプルフェイスの男だけだった。彼は、懐かしい夢を見ていた。

   ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

「うん……?これは。……バーボンか」
「ああ」
「寒そうな恰好で寝ているじゃないか……」
 ライの足音が聞こえる。彼が起きる気配に、咄嗟にたぬき寝入りをした僕は、わけもなく大きくなる心臓の音に戸惑った。
 ふわっ
 ライは、何かを僕に掛けてくれた。多分、僕が彼に掛けた上着だ。落ちないように、丁寧に……優しい手つき。肩に手が置かれた。それが頬に移動して……ん?何か、やわらかいものが。
「お前……」
「ん?」
「キ、キ、キス」
「ああ……つい。弟のようにかわいいと思ってな」
「あ、そう……」
 ヒロとライの会話は、その後も続いていたけどよく聞こえなかった。キス……?弟……弟だって。ふふ……ライの弟かあ。

    ♢ ♢ ♢ ♢ ♢

「ん……あれ?寝てた……」
 安室は少しの間、自分がどこにいるのかわからなかった。熟睡していた。工藤邸の書斎のようだ。
(そうだ、コナンくんと……赤井と、打ち合わせをして……その後、おしゃべりしてたら眠くなって)
 自分がこういう場所で眠り込んだことに内心驚いていると、「あ」とかわいらしい声がした。
「安室さん?起きた?」
「コナンくん」
 離れたところで本を読んでいたらしい少年が、立ち上がって近寄ってきた。自分が突っ伏していた机の上には、何やらかわいい袋がある。
「これ……ああ、バレンタインか。蘭さんから君にだね?」
「いや、安室さんに」
「え?蘭さんからの義理チョコかい?悪いなあ」
「じゃなくて……その、あ、安室さんが多分この世で一番気になってる人からの」
「赤井から!?」
「あ、うん」
 やっぱりそうなんだ。とは、コナンは口に出さなかった。 安室は、じっと袋を見つめている。
「コナンくん……あいつ、僕のことをどう思ってるのかな」
「えー……この世で一番気になってるんじゃない?」
「そうかな……うん、そうだといいな」
「ホワイトデーにお返ししてあげなよ?」
「……うん」
「あと、受け取ったお礼は、早く言ってあげた方がいいと思う」
 実際の年齢でもひと回り違うのに、恋はこの子の方が上手だ。
「君のアドバイスは役に立ちそうだ」
 安室は、迷って迷って、実に一時間もかけて、一通のメールを送信した。

「赤井くん、今日はやけに機嫌がいいな」
「ええ、いいことがありましてね」
「ほう?」
「生き返る理由が見つかりました」
「それは何よりだ」
 ジェイムズは心の底からホッとした。今のままでは、降谷が気の毒で見ていられないと思っていたのだ。
 変装したままの赤井は、難なく狙撃を済ませると、公安への連絡はジェイムズに任せて車へ戻った。エンジンをかける前に、さっき届いたメールをまた表示させ、繰り返し読む。
『僕はお前の弟じゃない。はっきりしろ』
 悩んで悩んで送信して、「うわっ、送っちゃったっ……ストップ!」と慌てている様子が目に浮かぶ。気が緩んで、滑るように指が動き、返信した。

 送ったメールは取り返しがつかない。
(とんでもないものを送ってしまった。いや、はっきりしないあいつが悪いんだ……)
 心の中でそう繰り返していた安室は、握りしめている端末の通知音に、恐る恐る画面を見た。
「メール……」
 ドキドキする。コナンは別の部屋に行っている。でも小さな足音が聞こえてくるから、早く見ないと。
「……!!」
『You are the best thing that happened to me.』
 息が詰まる。顔が真っ赤になる。目が潤む。
(赤井……赤井。好き、だ……)
 食い入るように……それから、安堵して、優しく抱きしめるような眼差しで画面を見つめ続ける男。それをドアの隙間から見た小さな名探偵は、足音を忍ばせて引き返していった。

 頬を染め、けれどいったん落ち着いて、幸福を身に纏って部屋から出てきた男に、コナンは声をかけた。
「安室さん」
「コナンくん。すっかりお邪魔してしまったね」
「赤井さん、すぐ戻ってくるって言ってたよ?待ってれば?」
「そ、それはその」
 会いたい。今すぐ会いたい。好きな相手が、君は俺の宝物だと言ってくれたのだ。抱きしめたい。あわよくば、押し倒したい。……それはまずい。場所が良くない。
「ホワイトデーまで、待とうかと思っているんだ」
「声、裏返ってるよ」
「そ、そうかなっ」
  一か月も待つ自信はないが、赤井があそこまで言ってくれるのだから、一か月で心変わりするとも思えない。恋にうつつを抜かしている場合でもない。
(それとも……一度でも、抱けば)
 この炎は静まるんだろうか。とにかく今、燃え盛っていてやばい。
「ホワイトデーはホワイトデーで別に考えて、今は素直になったら?大事なことは、伝えられる時に伝えた方がいいと思うよ」
「……うん。そうだね」
 安室はコナンの切なさを感じ取った。彼が工藤新一であることは、自分と赤井には明かされたが、蘭はまだ知らない。彼女の寂しそうな顔を何度も見た。赤井はそんなタマではないだろうが、一か月のうちに何が起こるかわからない。チャンスは、今、目の前にあるのだ。
 そこへ、車が止まる音と、耳に馴染んだリズムで車のドアを開け閉めする音が聞こえてきた。だが、家の中へ入っては来ない。
「あれ、待ってるんじゃない?」
「そうみたいだね。ありがとう、コナンくん」
 チョコの袋を提げて玄関へと向かう男は、完全に降谷零に戻っていた。

 夜の庭に、仮の姿の想い人が佇んでいる。
「お疲れ様です」
 闇を滑らかに裂くテノールは、シャープな響きの中に甘さを含む。公安が追っていた人物の逃亡を阻止してくれたことは、風見から報告が入っていた。煙草も吸わず、祈るように空を見上げていた男は、いつになく緩慢な動きでこちらを向いた。
(照れてる?)
 献身的というか、傍若無人というか。気ままに生きているように見えるのに、実のところは情で動いている。赤井の方へとひと足進むごとに、体がふわりと軽くなった。この男の情は、今、まっすぐに自分へと向けられている。
「どうやら、怒られずに済みそうだ」
 冗談めかした口調に、普段のいたずらっ子のような調子はあまりない。緊張と、降谷に対する甘え。それも、無意識の。
(全く、たちが悪い……)
 玄関の明かりと月の光に浮かび上がった長身を見れば、体つきや醸し出す雰囲気はやっぱり赤井で。探し出し、共闘するまでになった現実に、あらためて満足を覚える。
「怒るわけないだろ……ありがとう」
 欲しくてたまらなかった人。ゆっくりと抱きしめる。チョコの袋が、カサッと音を立てた。
「安室くん」
「今は、そっちじゃない……」
「……そうか」
「うん……」
 大きな手が背中にまわる。その指先も、首筋から服の中へと忍び込んでくる吐息も、震えている。
「さっきくれたメール、僕も同じ気持ちです」
 安心させたくてそう言うと、赤井の手の力が強まった。肩が震えている。顔を伏せて、泣いている。
(赤井……あなたは僕の宝物だよ)
 冷たい夜の空気で肩が冷えないようにと、なでて、さすって、月が雲に隠れるまで、そうしていた。
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