ためし読み:行き止まりの道に音楽は鳴らない

 深呼吸をすると、私は玄関のドアを開けた。

 後ろからは、中学生くらいの女の子が泣く声が聞こえる。母が自宅で開いているピアノ教室の生徒さんだ。レッスンを終えた生徒さんたちと庭先ですれ違うことはよくある。泣きながら帰っていく様子を見かけることも、珍しくない。

 私は速やかに家に入ると、教室として使われている南向きの洋間を、半開きのドア越しに覗く。

 ピアノの脇に置かれたソファーに腰かけて手帳を読んでいた母は、気配に気づいたのか「瑞葉(みずは)、おかえり」と言って私を呼び止めた。黒いチュニックにジーンズを履いて、今日はとりわけラフな格好をしている。ラフな姿をしているときは疲れているときに多い。内心ため息をつきつつ、私は部屋に足を踏み入れる。

「ただいま。ママの今日のレッスンは終わり?」
「あと二十分したらもう一人来て、したらおしまい。出張の準備とかは残ってるけどね」
「明明後日から仙台だっけ?」
「仙台は次の次。今回は広島」

 母はやおら立ち上がると、グランドピアノの、閉じられた大屋根の上に積まれた楽譜を一冊手に取って、ピアノの下に広げたキャリーバッグに入れた。真新しい楽譜の表紙、その著者名には『竹富佐葉子(たけとみ さよこ)』と印刷されている。母の名前だ。

 母は関東のピアノ教室ではそれなりに名の知れた教師だ。教則本を出版したり、招聘されていろいろな教室で講演会を行ったり教鞭をとったり、コンクールの審査員をしたりしている。かつて母が師事していた有名教室の出身者からなる一門では多くの先生が活動しているけれど、一門の中でも代表的な存在だと言われている。

「ママ。これ雪歩先生から預かってきた」

 私は鞄から紙の束を取り出して母に渡す。これは来年春に出版予定の教則本のゲラ、らしい。

「ありがとう。あと、これも渡しておいて。次にレッスン行くときでいいから」

 母がピアノの上から新たな紙の束を出してきたので、交換するかたちで再び受けとる。

 アナログ派の母は電子データでのやりとりを殊更厭う。なので、雪歩先生の教室を行き来する私は原稿やらコンクールの書類やらいろいろ持たされるのだ。さながら伝書鳩のようだ、と思う。伝書鳩でしかないなと、憂う自分がいる。

 はぁー、と母は大きなため息をつきながら、がしがしと頭を掻いた。内側から白髪が涌き出るようにして露わになる。そろそろ次の黒染めを勧めないと。母の今日最後のレッスンが終わったら声をかけようか。

 とりあえずは用事も済んだので、私が部屋を出ていこうとすると、「ああ、そうだ」なんて再び母に呼び止められる。

「軽音部? だったっけ。文化祭で弾く曲、聞かせてくれないの?」
「キーボードだけで聴いても面白くないと思うよ」
「どうしても駄目?」
 母はしおらしくなる。目許の笑みはぎこちない。
「練習中にみんなで録った音源でよければ、今度ね」
「あと、本当にコンクールは受ける気ないの?」
「…………うん」

 私は部屋を出ていく。母の返事はどうだか聞いていない。聞きたくなかった。

 母のいる教室が、私は苦手だ。いたたまれなくなるからだ。

 二階の自室に飛び込むと、すぐにドアの鍵をかける。トートバッグを下ろして身軽になると、ようやくほっとした心持ちになって、深く息を吸うことができる。西向きのこの八畳間は、私の城だ。

 ベッドに腰かける。ちょうど西日が差す位置で、目を細めながら窓辺に向かう。

 崖に沿うように建つ我が家の、二階からの見張らしはとてもよい。今も、オレンジの絵の具を垂らしてぼかしたような、暮れようとする夕日がよく見える。

 ふと振り返ると、部屋がオレンジ色の光で満たされて、ふわりと、壁際に置かれたアップライトピアノが照らされる。
 絵になる光景だな、と思うと同時に、ひう、と浅くなった呼吸で喉がなる。

 いつからだろうか。ピアノを見るのもしんどくなってしまったのは。

 十七年生きてきて、これからもピアノを弾いて生きていくものを信じて疑わなかったのに、今は先が靄がかかったように、なにも考えられない。けれど。

「……弾かなきゃ」

 弾かなきゃ、私は私の存在を認められないから。
 震える手で、私は、アップライトピアノの蓋を開けた。




「つまり、八月のコンクールを受けることをまだ佐葉子先生に明かせてないのね」と、雪歩先生に言われた私は、頷くので精一杯だった。ティーカップの紅茶に映る自分の顔はすこぶる渋い。

 雪歩先生の家でのレッスンを終え、私は、リビングでお茶をいただいている。レッスン後のティーブレイクは恒例になって久しかった。

「言いづらければ、やっぱり、わたしから言おうか?」
「大丈夫です。自分から言います。ただちょっとタイミングを逃してしまってるだけで……」

 カップに残っていた紅茶を飲み干す。カモミールの爽やかさがゆっくりと喉を伝い落ちていった。

 夏のコンクールについて、母には受けないからと宣言していたが、実はエントリー済みなのだ。軽音部に幽霊部員としてだけど籍を置いているので、文化祭に専念したいとか学校の夏期講習が忙しいとか理由をつけて、母には黙っている。

 受かる見込みが薄いのに、あまり母の気を揉ませたくないのだ。雪歩先生の手を煩わせるのも心苦しかったので雪歩先生にも明かさないでおこうかと考えたけど、エントリーシートに指導者氏名欄があったので雪歩先生にだけは打ち明けていた。

 そっか。と答える雪歩先生。口調は責めるものなんかじゃなく、ただただ私を心配しているものだというのは分かる。だからこそ、私と母の話に、雪歩先生を不必要に巻き込みたくなかった。

 およそ一年半前の高校入学直後から、私は早乙女雪歩(さおとめ ゆきほ)先生の教室にお世話になっている。

 きっかけは、私と母が、性格的に反りもあわなければ、私のコンクールの結果も芳しくなかったからだった。

 中学生の頃までは母が私を指導していた。けれど、時に弾いている生徒の手を叩くようなことをしたりと、母の指導は厳しいと昔から評判だった。そんな母が自身の後継者とすることを見据えて自らの娘を指導するとなれば、輪をかけて厳しい態度にならざるを得なかったことは、想像に難くない。

 なにも母は私が憎くて厳しいわけじゃない。それは私も小さいときから分かっていた。分かっていたつもりで、私も私なりに精一杯やっていたつもりだった。けれど、結果は年々悪くなる一方で、全国大会はおろか一段階前の関東大会ですら結果がでなくなっていった。

 そして、高校受験を迎えた冬。疲れはててしまった私は、ある行動をした。母の意向を汲んで音楽科のある私立高校の受験を予定していたが、それをすべて勝手に欠席したのだ。

 音楽科の受験に行ってるものと信じていた母は、私がボイコットした挙げ句、音楽科に受からなかったときのためにと申し込んだ近所の普通高校しか受験してなかったと知るや激怒した。

 しかしその頃の私は脱け殻状態で、母に叩かれようと詰られようと反応を返す気力すらなく、受験が終わると自室に引きこもった。

 一ヶ月ほどの争いの末、先に観念したのは母親だった。母は自らの手で教育することを諦め、同門である雪歩先生に私の指導を預けたのである。

「佐葉子先生はあのコンクールの理事もやってらっしゃるからねぇ。大会に瑞葉ちゃんの名前があると気づいた事務局とか他の審査員の先生たちから情報が行くかもしれないよ。私から伝えた方がやっぱり良さそうなら、遠慮しないでね」

 雪歩先生は朗らかに笑った。

 茶髪のショートカットを綺麗にセットし、優しげな顔が引き立つようにお化粧をし、小柄な体に柔らかな素材の花柄ワンピースをまとった雪歩先生は、出会った当初から変わらず、穏やかな人だ。塞ぎこんでいた私を気遣い、レッスンはコンクールのクラシック曲だけでなく映画音楽を取り上げたり、レッスンが終わればこうして雑談しつつのお茶をしてくれたりする。

「そう、ですね……」
 対する私は、もともとの性格から誰かに愛想よくすることがなかなか上手く出来ず、雪歩先生にも素っ気なく返事してしまうことがしばしばあった。母から少し離れて、ようやく自覚したものだった。

 小さく息をついて、気晴らしに大きな窓越しに庭を眺める。見頃を迎えた地植えの百日草を、雪歩先生のお父様が手入れしている。私たちの視線に気づいたのか、お父様が笑いながらこちらに手を振った。娘の雪歩先生と同じ、優しげな顔で。

 雪歩先生が両親と住まうこの家の庭は、一年中花が咲いていてとても美しい。和やかな光景で、いつも胸がじんわりと温かくなる。

 それから他愛もない雑談をするうちにお暇する時間になって、私は雪歩先生から母宛の原稿を受けとると、お父様と雪歩先生に見送られながらおうちを後にした。

 帰り際、いつも考える。きれいなおうち。優しいひとびと。こうなれるには、私はどうしたらいいのだろうな。正直なところ、想像がつかないでいる。

 ピアノをやめてしまえばいいのだろうか。ほぼほぼ、そうだろう。

 でも、自分がなにかわからないままふわふわしているところでピアノを断ち切ってしまったら、ふっと自分が消えてしまう気がする。