掌編

 寄せては返す波の音。目の前に広がる海は、今日は風が弱く穏やかだ。

「よいしょ、っと」

 ぼんやりと景色を眺めていたスーツ姿の女性。彼女はおもむろにパンプスを脱いで、堤防に上がる。潮の香りを吸い込んで、それから歩き始めた。ストッキングが裂ける、砂利が肉にめり込む。足裏の感覚を味わうように進んでいった。

 水平線の向こうに隠れていく太陽が水面を、砂浜を赤く染めあげる。

 不意に、飛び降りた。荷物を投げ飛ばし、身ひとつで砂浜に転がり落ちて、彼女は笑い声を上げる。跳ねるように起きあがり、ジャケットを脱ぎ捨て、水際へと駆けていく。ぐんぐんと速度を上げ、海の中へと入っていく。

 足を止めたときには、彼女の身体はひざ下まで水に沈んでいた。

 彼女はすぅと息を吐き、両手を喉に当て。

「…………っ!!」

 叫ぶ。言葉にはならなかった。しかし、心は思いを叫び続ける。息を吸っては吐き出す。幾度となく繰り返す、腹と肺いっぱいに溜まっていたもやを追い出すように。

 ぱたりと、彼女は叫ぶのをやめた。その頃には太陽がわずかに見えるだけで、波の高さはひざ上まで迫っていた。重たくなったスカートを持ち上げながら、まばらに光る街灯を頼りに彼女は砂浜へと戻る。

 辺りを見回し人の目がないか確認してから、スカートを脱いで絞って履き直す。もっとも、誰かいたところで変わらなかったのだが。相手が目を逸らしてくれるものだと、彼女は経験上知っていた。

 ジャケットやパンプス、カバンやその中身を拾い身に着けながら堤防に戻り、縁に腰掛けた彼女。砂まみれになった全身を撫でるようにして砂を払いながら、またぼうっと、海を見つめている。

 やがて月が煌々と照り出して、彼女はぽつりとこう言った。

 ーー沈んでしまいたい。でも、波は私を呼んでくれない。私は返されてしまう。けど、海は優しい。

 彼女はゆっくりと立ち上がる。そして大きく息を吸い込み、街の闇へと走り去っていった。足元は覚束ないが、早く早くと自らを急かし。

 海に包みこまれた感触が残るうちならまだ帰れる。と。
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