掌編

 水の跳ねる音。きらりと光を放ちながら、くるりくるりと回りつづけるプラチナの指輪。

 バスルームの排水口。その奥を、わたしはしゃがみ込んで見つめていた。

 ふと外したくなって、掌にのせた一瞬のことだった。落としたくて落としたわけじゃない。しかし、拾い上げるには奥に入り込みすぎているし、拾い上げようとも思えなかった。

 排水口の中は掃除されていてカビ一つない。場所柄だろう。ここはホテル。ぎらぎら輝く都会が一望できる窓際。部屋はふかふかとしたカーペット。大理石のテーブルにはワインが注がれたバカラのグラスがよく映える。ガラスで仕切られたバスルームの床まで大理石で、水垢一つない。誰もがここでは、非日常を味わうことができる。日々の悩みも憂いも何もかも忘れて享楽にふけるのだ。……そして、朝になれば日常が戻って、客が帰ったあとの部屋はきれいになり、また新たな享楽の舞台となる。

 わたしも今し方までは欲望に身を委ねていた。けれど、わたしの些末な悦びは押しつぶされる。指輪で封印していた思い……疑念や諦念、疲弊によって。

 背中に降り注ぐシャワーは温かく身体の芯まで染み渡る。少しずつ、日常を取り戻す心積もりができていくようだった。

 シャワーを止める。目尻に浮かんだ涙を指で拭う。新しいバスローブに袖を通す。口紅だけつけて――これはわたしの矜持だから――それからバスルームを後にした。

 白薔薇を描いた品のよい絵画が掲げられた廊下を抜けて、ベッドルームの扉を開ける。部屋の中央にはキングサイズのベッド。その上にいた男は寝転がったままで、わたしに一瞥くれたかと思うとすぐにスマホに向き直った。ニュースを見ているのかもしれない。仕事のメールを見ていたりするのかも。あるいは、奥様とのやりとりとか。画面の内容はわたしにはわからないけれど、彼は最近ずっとこんな調子だ。

 彼にとってわたしの存在は『日常』になったのかもしれない。彼は誰もが羨む人間だ。その彼に選ばれたことは喜ぶべきことである。

 地位も名誉も若くしてこの男は持っている。わたしの世界が広がったのは紛れもなく、彼と多くの時間を過ごすようになってからだ。彼との出会いは私に多くのものをもたらした。

 それでもわたしは……。

「ねえ」
「どうした」
「わたしたち、別れましょう」

 指輪をしていたのはわたしだけ。彼は終ぞお揃いの指輪だけは与えてくれなかった。

 男は首だけもたげてわたしを見た。疑うでもなく、意味がわからないとでも言いたげに目を細めた。わたしは口角をあげて笑顔を繕う。目は開いたまま、真摯に男を見据えるようにして。

 この男と出会ったわたしは不幸ではなかった。しかし、幸福にもなれなかった。

 怒りはない。愛情だってまだ、ちょっぴりある。だけど、もう、終わりにしたいのだ。

「わたしは感謝しています。でももう、十分です」

 わたしは幸せになりたい。ささやかでも一点の曇りなき幸せな日常が欲しい。今まで与えられたもの全てをかなぐり捨てるに等しいとしても。今までの罰が下るときが来るとしても。今更だろうか? 否、遅くはない。

 遅くはないのだ――。
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