大切なものほど、繋いだ手からこぼれ落ちていく。 嫌いなものが、ますます私を縛り付ける。

 しおりを横浜駅で見かけて以降何となく嫌な予感がして、メッセージを送ってみるけれど既読無視が続いていた。

 今日もう一度だけ連絡してみてリアクションがなければしおりの住むアパートに行こう。喧嘩していようが不仲だろうが、長くともに生きてきた肉親なのだから。

 スマホが知らない番号からの着信で鳴ったのはそう決めた朝だった。
「菅谷しおりさんの姉の、みちるさんで間違いないですか?」

 大学に向かうための各駅停車ではなく反対方向の急行に飛び乗って、私はその呼び出し電話を掛けてきたところ──東京都内の病院へと急ぐ。

 そうして十日ぶりに会ったしおりは痛々しいとしか言いようがない姿をしていた。顔の右半分はガーゼが当てられ、左腕には包帯が巻かれている。診察室に私が足を踏み入れた途端、しおりは覆われていない左目で私の姿を確認すると、「みちる」と、縋るように小さく呟いた。

「どうしたのその傷」

 私は言う。正直なところ、電話をもらった直後はめんどくさいなぁ、なんて内心溜め息ついていた。しかしこの有様は思いの外ずっと酷く、心臓がどくどくと脈打ってうるさい。

 しおりを診察した医者が、自宅付近の路上でうずくまっていたところを通行人が通報し救急車でここに運ばれたのだと話す。

 しおりさんの傷は以前からあったものですか? と尋ねてきて、いいえ知りませんと返そうとした瞬間、ふと記憶が蘇る。家で見た手首の青あざ。駅で寄り添っていた金髪の男と傷。しおりの方に顔を振り向ける。しおりはぼんやりと虚空を見ていた。

「昨晩別れたの。この傷は別れ話してるときにつけられたやつ」

 病院を出た私たちは、とりあえず病院の向かいにあるファミレスに入った。しおりは医者にした返答を繰り返しながらメニューの表紙をじっと眺めている。時刻は十一時になろうかというところ。まだ空いている店内ではラジオ放送のジャズが流れていて、お年寄りたちが新聞を読んだり、うつらうつらしたり。周囲はのどかだ。

「ちゃんと別れはしたの?」
「うん」

 時々しおりは顔をしかめている。ガーゼに覆われた顔では口が満足に開かないのか、傷に水分が染みて痛いのか、さっきドリンクバーで取ってきたホットコーヒーにもなかなか手をつけようとしない。

 付き合った男に暴力を振るわれていた。昨日恋が冷めて別れ話を切り出したところ、病院送りにされるほどボコボコにされた。ただし別れること自体には成功した。断片的で今一つ要領を得ないしおりの話を総合すると差し詰めこんなところだった。

「いや、それさ、本当に別れてる?」
「ペアリングを向こうが部屋に投げ捨ててったし」
「あー。まあ、それなら確かにそう思っていいのかな……うーん」

 油断は出来ない気がする。すぐに今夜か明日あたりにでも『ごめん、俺が悪かった。チャンスをくれ』とかなんとか言って戻ってきそう。自分の歴代彼氏にそんな屑はいなかったけど、周囲からそういう事例は聞いているわけで。

 珍しく弱々しく、俯きがちなしおりを観察する。そして、思案ののち私は言った。

「しおり。今日からうちにおいで。今から貴重品だけ取りに帰って、簡単に荷物まとめよう。一緒に行くから」

 服やコスメはうちに置きっぱなしだし、なんなら着いてから買っても貸してもいい。もし学校も知られているのならば何日かサボるのもやむなしだ。とにかく今は、完全にしおりからその男を完全に引きはがすのが重要だと思う。

 私の提案を聞いたしおりは、口を尖らせながら私を見た。

「帰れって言ったばっかりじゃん」
「それはそれ、これはこれ。というか、そんな酷い目に遭ってることどうして言わなかったの? うちに入り浸ってたのもつまりはそういうことだったんでしょ?」
「それは……」

 口を噤むしおり。私も黙ってぬるくなったコーヒーをすする。店員がやって来てテーブルにパンケーキを置いた。取り皿にパンケーキを一枚とホイップクリームをよそいしおりに渡す。

「言っても無駄だと思ってた。みちる、このごろ余裕なさそうだし」
「そんなことはないけど」

 私は笑ったけどしおりは笑わない。

「みちるも訊いてこなかったじゃん。何も」
「一から十まで察するのは無理だってば。こっちも四六時中しおりのこと考えているわけじゃないんだから」
「おかしいとは思わなかったの?」
「あざのこととか、家で妙にぼーっとしてるところとか。後々言われてみれば分かるけど」

 私は一旦言葉を切ってパンケーキを口に放り込む。蜂蜜の甘さが疲れた体に染みておいしい。

「だけどさ。しおりも結局話をしなかったでしょ?」

 しおりといい、また泰星といい、言わなきゃそちらの事情なんてこちらは知り得ないのだ。生憎こちらは勘がめちゃくちゃ鋭いわけでも暇なわけでもない。

「……うん。そうだね」押し黙っていたしおりがようやく呟く。
「あたしが言えてればよかったんだよね。言えばこうして聞いてくれるんだから」

「あんなにつんけんしてたのにやたらと素直になるじゃない」

 茶化しながら私が言うと、しおりはパンケーキをやっと一口咀嚼したあとで「だって」と言葉を発する。

「頼れるのはみちるしかいないんだもん」
 しおりは潤んだ目で私を見つめ、そして首を垂れた。

「お願いします。助けてください」
「……姉妹なんだから。いいよ今更。改まらなくたって。ほら顔上げて、食べたらとっとと家行こうね」

 私は言ってパンケーキ最後の一口を食べる。蜂蜜がたっぷりかかっているはずなのに何故だか味が薄かった。

『お姉ちゃんなんだからしっかり守ってあげるのよ』

 耳にたこができるほど母親には言い聞かされて。離れないようにしおりの手を握ってはふりほどかれて。でも迷子になったしおりを見つけて慰めるのはいつだって私だった。私はそういう役回りなのだ。

 どれだけ周囲に傷つけられても、しおりには私がいる。だけど私には、誰もいない。友人も恋人も家族でさえも、私を支え甘やかしてくれはしない。自分の足で立て。頼られる人間であれ。そうささやくのだ。頼られるのが嫌なわけじゃない。嫌ではないけど──。

 私はしおりの手を引いて店を出る。葉の散った銀杏の間から仰いだ空は厚い雲に覆われ、灰色をしている。
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