頑張れば頑張るほど、かなしさばかりが募っていく。

 不思議な子ども。今年の夏に出会ったときから、泰星のことをそう思っている。小学六年生って言われても納得してしまうくらい小柄な体をしているのに、穏やかな表情や利口な話っぷりは高校生、いやそれ以上の年齢相当だ。私は今まで見たことがないタイプの彼とどう接していいか迷った。けど、泰星が私を受け入れたから、今こうして家庭教師を出来ているのだと思う。

 彼はいつも微笑み、何事にも乱されることなく全てを優しく受け入れる。この私のことも。私は泰星を見ているとふとした瞬間に、その顔や手に触れて、甘えたくなる。とともに、温厚な外見に隠されているであろう、未だ得体の知れない中身を引きずり出してぐちゃぐちゃにしたくてたまらない。

 どうしたってもう、私は泰星が苦手なのだ。子どもだからというのも十分にあるのは理解しているつもりだけど、周囲から蔑まれることもなく守られていて、その上で本人は憎らしいほど大人びているときたらもうたまらない。泰星は私が子どものころに欲しくてたまらなかった自由と大人からの庇護を全て持っている。子どもに嫉妬するなんてばからしいのは分かっている。十分分かっているけれども。

「みちるさん。メニュー決めました?」
「あっ、うん。店員さん呼ぶね」

 泰星の問いかけに、私は我に返る。適当に手を上げると、すぐにウェイターがやってきた。私はラザニア、泰星はドリア。セットドリンクはコーヒーとオレンジジュース、タイミングはメインと一緒で。と注文する。

 本屋での買い物を終えてから私と泰星は桜木町付近のイタリアンカフェに来て、窓際の席で向かい合っていた。時刻は十八時を回ったところで、店内には仕事帰りのカップルや近隣に住んでいるのであろう家族連れがまばらに座っている。私は周囲から浮いてはいないだろうか? 少しあたりを見回すけど、私たちを気にする風な人たちはいない。差し当たり、姉弟にでも見られていればそれでよい。まあ、カップルと錯覚する物好きはいないはずだけど。

 この店は以前、田崎元カレとも来たことがあった。日曜日のカフェタイムで、ウェイターにおすすめされたカプチーノを二人で飲みつつ、旅行雑誌やツアーのパンフレットを見ながら、年末の旅行計画の話をして楽しかったのに、今や両方、手元から無くなってしまった。田崎の顔もぼんやりとしか思い出せない。……いや、付き合っていたころから彼は取り立てて言うほどの特徴もなく、他人を引きつけるような強い印象を与えるタイプではなかったけれど。ウェイターがシーザーサラダを私たちの目の前に置く。

「ありがとうございます。本、買っていただいて」
「試験終わったご褒美だから気にしないでいいよ。あと小説、読み終わったら貸してほしいな」

 私が言うと、はい、とアーモンド型の眼を嬉しそうに細めた泰星。彼のショルダーバッグには先ほどの本屋で買った本が五冊も入っていて、それらは全部私のおごりだ。ついでに言うならこのイタリアンもおごりなので、泰星にとっては私に感謝する理由がないなんて全くないはずだ。恩は売れるときに売って、稼ぐ。

 オープンカフェが併設されたこの店は美術館とショッピングモールへ続く通りに面している。平日でもそれなりに人通りの多い場所にあって、ここの店内は心地の良い落ち着いた空間だった。大きなガラス壁の向こうには、淡く映った私たちの姿の奥にライトアップされた並木道が見えていて、鮮やかな青と金といった光の風景を一生懸命写真に収める人々がいる。家族やパートナーと笑いあう彼らを見て、自分はああいう生き方は出来ないのかもしれない、なんてふと考え、落ち込む。

「あっ。あの家族連れ」

 サラダのレタスを頬張りつつ窓の外を見ていた泰星が、幼稚園児くらいの女の子二人を連れた家族を指さして言った。

「ぬいぐるみ抱えて。かわいいですね」

 泰星が指した子どもたちは、一人はうさぎ、もう一人はかえるのぬいぐるみを抱えてはしゃいでいるみたいだった。クリスマスにはまだ二週間ほど早いから、誕生日か何かなのかな。

「年の近いきょうだいって趣味が似るんでしょうか」
「どうだろう。同じ家に住んで同じものを見ている以上、あれくらいの年頃なら似るかも」
「ああそっか。みちるさんにはしおりさんがいますもんね」

 泰星にはしおりのことを私が家庭教師始めてすぐに紹介したきりだ。お互い近くに親戚がもういない今、せっかくだから遠縁とはいえ縁故で顔合わせくらいはしておこう、くらいの軽い気持ちだったんだけど、さすがに覚えているみたいだ。泰星はおとなしいし、しおりも人見知りゆえの寡黙さを発揮して、会話はイマイチ盛り上がらなかったとはいえども。

「しおりさんとは趣味、似てたんですか?」
「中学生くらいにはもう違ってたけど、その前はどうだったかなあ……でも似てるところもあったし、違うところもいっぱいあったね」

 趣味が違う、というか、正確に言うなら区別化されたというか。

 同じ両親から生まれたのは確実だが、私としおりの容姿はあまり似ていない。小さかったころは肩幅がしっかりしており髪がショートカットだったのも相まってよく男の子に間違われた私に対し、しおりは色白で目がぱっちりしていて、お人形さんみたいね、なんて近所のおば様方からは評されていた。

『みちるはしっかりもののタフな子で、しおりは甘えん坊で引っ込み思案な子』

 母はこんなイメージで私たち姉妹を認識していて、日常生活の道具やクリスマスプレゼントなんかを、そのイメージに基づいて買い与えていたものだった。青、オレンジ、黒、ストライプ柄、クール担当は私。ピンク、パープル、白、レース柄、ガーリー担当はしおり。

 うさぎとかえるのぬいぐるみを抱えている子どもがもし、私としおりだとしたら、しおりはうさぎを、私はかえるを抱えているだろう。そしてお互いに持ってるものは満更でもないけどあっちのぬいぐるみがいいかもなあ、なんてちらちらと様子を窺うのだ。

 私たちの前にテーブルにラザニアとドリアが置かれる。チーズがいっぱいかかっておいしそうだ。いただきます、と二人で手を合わせる。スプーンを入れると湯気が一層立って、猫舌の私にはまだ食べられそうになかった。

「みちるさん、聞いてほしいことがあるんですが。ああでも、今からする話は母に内緒にしてもらいたくて」

 少し声を潜めつつ泰星は唐突に切り出してきた。泰星とこうして過ごすこととか泰星に手を出していることとか、内緒の話はもうたくさん抱えているので今更では。と言葉が出掛かるも、私は頷いて続きを促す。

「俺には小三の弟がいます。これ、聞いたことないですよね」
「え、うん。弟いたんだ?」

 泰星の入院時代といい、この期に及んでまだ新事実が出てくるって。というより、泰星の母親がうちの母や私に情報隠しすぎなので、もうなんと言えばいいやら。他人の家庭事情に踏み込むのは難しいとはいえども。うちは片親だってことも伝えているし、なんならしおりとも引き合わせたというのに。

 母は父と弟のことをあまり外に言いたくないみたいで、と泰星は額に皺を寄せる。

「うちの両親が離婚したことは知ってますよね。それで、離婚した父親の方に佑星ゆうせいが……ああ、弟は佑星っていいます。にんべんに右の星と書いて佑星。弟は父親側に引き取られていて、俺とはたまに会う仲なんです。それで相談なんですが」

 一旦言葉を切って、妙に真剣な顔をしながらオレンジジュースに口をつける泰星。私はラザニアを切るナイフの手を止めて泰星の言葉を待つ。

「二ヶ月後、次に会うときは弟の誕生日なんです。みちるさん、プレゼントにいい案ありますか? あんまり高いのは無しとして」

 発言の流れからして深刻な話題かと勘ぐって手をわざわざ止めたけど、取り越し苦労だったようだ。

「なら、鉛筆とかペンケースとかはどう? 小学生なんだし。弟くんの好きなキャラクターとか色とかの」
「いいですね。文房具はいくら持ってても困るものではないですし」
「そうそう。で、佑星くんはどんな子なの?」
「すごく元気でおしゃべりな子、でしょうか。運動が得意で最近サッカー始めたって聞いてます」

 泰星は嬉しそうに目を細くする。その様は兄と言うよりは親というかおじいちゃんみたいで、ちょっと滑稽だ。

「プレゼント渡すだけじゃなくて、どこか遊びに行くのもいいよね。一緒にサッカーするのもいいんじゃない?」
「サッカーは俺の体力が持つかどうかが心配かな……。でもいいアイデアですし、考えてみます。ありがとうございます。みちるさん」

 ウェイターが私たちのテーブルをちらりと確認し、サラダが盛られていた空の器を下げた。そろそろデザートを出すタイミングを見計らっているんだろうな。私も泰星もまだメインが四分の一ほど皿に残っていた。

「てっきり弟と一緒に暮らすにはどうしたらいいと思います? とかそんな質問かと思っちゃったよ」

 冗談めかしてそう言ってみる。すると泰星はドリアの最後の一口を飲み込んでから、微笑んだ。辛抱するような、年相応の情けない笑い顔。

「子どもにはどうしようもできないことって、世の中にいっぱいありますから」

 ──泰星はおそらく、病気で入院していたことや離れて暮らす弟のこととか、この年で経験しなくてもいいようなつらいことをあまねく集めてしまっているのだろう。少なからず私も似通った点がある。痛みが分かるもの同士、本来なら通じ合えるのかもしれない。

 私たちの目の前にデザートが置かれる。私はティラミス、泰星はジェラート盛り。ティラミスには洋酒が入っている。泰星も最初ティラミスにしようとしていたものの、メニューの説明書きを読んで頼めないと分かると残念そうにしていた。

「そうだ。みちるさん、今度の冬休みも今日みたいにどこか連れて行ってくださいよ」
「いいねそれ。そうしたらさ、返ってきた期末テストの点が良かったら、遠出も考えてあげる」
「あはは、結果返ってくるのが楽しみになりますね」

 一緒に出かけるのは吝かじゃないけど面倒。しかし変な点数取ってこられるのもよろしくない。難しい状況だ。嬉しそうににやける泰星に、安心しきって暢気にしていられるのも今のうちかもしれないよ、と心の中で呟いた。私は酷い人間だから。

 とはいえ実のところ、弟と病気の話を知ってしまった以上、私は泰星と根っこの部分で理解し合える存在なのかもしれないという考えが脳裏に浮かぶ。けれど理解してしまったら、私は自分がますますみじめに思えるだけだ。泰星は小癪な中学生でいてもらわないと、困る。困ると同時に、彼の境遇を共感することを拒む自分のあり方について、頭のどこか遠くで警鐘が鳴る。

 こんなときはアルコールでも摂取して気を紛らわせたいところ。まあ、今は無理なので仕方なくコーヒーを飲む。ぬるくて、出されたときより酸っぱい味がした。
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