頑張れば頑張るほど、かなしさばかりが募っていく。


 新しい参考書が欲しいので見繕ってくれませんか。と泰星からメッセージが送られてきたとき、私はちょうど大学構内を出たばかりだった。時間を確認するとまもなく十五時半になるところ。泰星の家の近所でも悪くないけど、せっかくなら横浜にする? と伝えた結果、今から横浜駅で落ち合うことに決まった。そして私は駅に急ぐ。

 二学期の期末テストが終わって、答案が返却されるまでしばらくは休みにしようか、とついこの間話したばかりだというのに、泰星はまじめなものだ。中学二年生という年頃なのだしもっと遊んでもよいだろうに。

 駅に着いてすぐに運良くやってきた急行電車に乗り込むと、乗客はお年寄りと高校生ばかり。参考書とか英単語集を読んでいる高校生が多いのは受験生だからだろう。西日が差し込んで暖かく、落ち着いた時間が満ちている。

 うつらうつらと、何度か体ががくんと傾くたびに瞼を開けてはまた閉じてと繰り返すうちに、横浜駅地下ホームに着いた。地下街を通ってJR側の中央改札まで進んで行くと、待ち合わせに指定したガス灯を模すオブジェの横に、スマホを見ながらひっそりと立っている泰星が見えた。制服のブレザーではなくパーカーにブルゾンの私服姿だ。泰星がちょうど顔を上げたところで私が視界に入ったのだろう、にこりと控えめに笑いながら私に手を振ってくる。

「参考書もそうですけど、定期テスト終わった自分へのご褒美に新しい本を買いたいなって。ここならたくさん選べますよね」

 どうやら泰星は、私が以前この付近は大規模な本屋がいくつかあると話したことを覚えていたらしい。

 私は頭の中に浮かべた本屋リストの中から小説も参考書類もそこそこ充実している本屋を選び、案内するように歩き始める。

「たった二駅なんだからいつでも一人で来られるのに」
「俺、あんまりに人の多いところで買い物するのは得意じゃないんです」

 ついでに白状すると一人の買い物もまだ不慣れで……と、泰星は首を掻く。中学生にもなって珍しい。いや、自分もそんなものだったような気もする。振り返ると小中学生時代、横浜に出てくるときは大抵親か当時の友達とばかりだ。

 今日大学で何をしたんですか? と質問されては答え、人が多いですねとか寒いですねとかお互い取るに足りない雑談を交わしながら、私たちはデパートの中にある目的の店に着いた。社会人の仕事終わりには早いから比較的空いていて、紺色のエプロンを掛けた店員たちがせっせとあちらこちらで商品を補充したりレイアウトを直したりしている。入り口をくぐったすぐ正面、新刊やベストセラーが置かれるエリアで泰星は立ち止まった。

「先に小説とか見るようだったら、気の済んだところで連絡ちょうだいね」

 小説本の置かれた展示棚の前で立ち止まった泰星にそう声をかける。自分も何か見てようかな。旅行雑誌とか。

「みちるさんは小説読まないんですか?」

 目を丸くする泰星。一緒にいてくれないのか、と少し驚いたような様子を見せる。

「読んだり読まなかったりって感じかな。時期や気分にムラはあるけど、読むよ?」

 どちらかと言えば好きだ、くらいの感覚だけど。私はドラマや映画の方がより好きだ。

「そうなんですね。あぁそうだ、この中にある本で知ってる作家ってありますか? あとは読んだことあるものとか」
 泰星は棚を指さす。推理小説に歴史小説、あと平置きスペースに多少青春小説が並んでいる中から、私は知っている作家の名前を見つけて、その新作小説を手に取って渡す。

「この人のは二年前ぐらいに恋愛小説を読んだきりなんだけど、文章小難しくなくて読みやすかったはず。これは推理小説みたいね」
「へぇ。小説家さんっていろんなもの書けて、器用なんですね」

 裏表紙のあらすじを眺め、それから中身をぱらぱらとめくっていた泰星。やがて読む目つきが真剣なものになっていく。

「泰星くんは本、好きなんだね」
「はい。昔から本読むのは好きです。入院してたときによく読んでいて」
「入院?」
「はい。あれっ、母から聞いてないですか」
「ううん、ちょっと聞いてはいるけど、いつごろ入院してたの?」

 私は首を傾げる。家庭教師のバイトを引き受けるか悩んでいる際に、泰星の母親からは『昔、入院していてあまり学校に通えていないから、勉強の出来で周りの子に置いていかれないようにしてほしい。片親で自分は働きに出ていてなかなか勉強までフォローできない』とだけ言われていた。遠縁とはいえ母親と交流のあった親戚、かつ提示された時給が相場より良かったから結局お引き受けしただけで、深い事情は聞いていないし、感付いてもいなかった。入院というのもせいぜい骨折で長くても半年ぐらいではないかと思っていたのだが。

 けれど、私の問いに対して、泰星は「五年間です」と答えた。どう反応していいか分からなくなって戸惑う私に、大した話じゃないけど……なんて前置きして泰星は話し始める。

「小学校二年生から六年生になるまでの間、入院していたんです。血液の病気で」

 さらりと泰星が語ったその内容は、やっぱり私にとって初耳だった。

「治療にも段階があったので断続的な入院でしたし、長期入院中は院内学級で同年代の子たちと遊んでましたけど。でもやっぱり自由には過ごせない場合もあって、そんなときはずっと一人で読んでたんです。図鑑眺めたり、マンガ読んだり、小説読んだり」
「そっか。そう……そうなんだ」

 他の表紙を物色しながら静かに語る姿は、平穏という表現が似合っている。それに対して私はというと未だ動揺していて、同じように本を適当に取って眺めてみるけど目が滑って仕方がない。

 彼の、成長期を迎えているにしては小柄なその体型は、病気に由来するのではないか?と初めてその疑問に思い至って、まじまじと泰星を見つめてしまう。そもそも、今まで泰星は積極的に自分のことを語っていなかったし、私も請われるままに自分の高校時代や大学生活の話をしていた。事情を知らなかった分、泰星が学校を休んだと報告された日も、なるほど不登校気味なんだなって考えて、大して気にしてこなかった。

「母がみちるさんに家庭教師をお願いした理由も、かつての入院生活と多少関係してて」
「お母さんが言ってたこと、悪いけど今ようやく理解したよ、私」

「母は他人に対して家族の事情をあまり話してこなかったので。今はそんなに心配されるようなものもないですけど。ま、そういうことなんです」

 泰星はもう一冊棚から本を手に取ると私に向き直って、取り繕うような笑顔を浮かべた。

「すみません。つまらない話を」
「ううん。私こそ気にかけてあげなくてごめん。大変だったね」

 私は首を振った。何も知らなかったのだ、私は。泰星のことを。最初から分かっていたらもっと効率よく手をかけてやって、もっと……依存してくれたかもしれないのに。

「うーん、そろそろ参考書も見よっか」

 努めて明るい声を出して泰星に笑いかける。同じくらいの身長しかないから目が合わせるのは容易い。「ですね。見たいです」と彼は返事をし、私たちは本屋奥にある参考書コーナーまで並んで歩いていく。

 無性に泰星に触れたくなった。手を握って、握り続けて指の一本や二本折ってしまいたい。そう思いながら、今は本棚に並んだ背表紙をなぞるその白い指の軌跡を追う。
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