理由はいらない。ただ愛されたい。
ダイニングルームのドアを開けると妹のしおりが私を出迎えた。
「ん。おかえり」
「おじゃましてます、の間違いじゃないの」
「おじゃましておりますお姉さま」
しおりは座椅子にあぐらをかいてテレビを見ている。周囲には取り込んだままの洗濯物が放り投げられたままだ。
バイトが終わって泰星のところを出たのが二十時半過ぎ。そこから自宅アパートの最寄り駅に着いてスマホを見ると二十一時半になるところだった。昔ながらの下町らしさの残る雑然とした飲み屋街を通りつつ、多少機嫌良くのんびり歩いて帰ってきたらこの有様だ。今日は自分の家に帰るんじゃなかったのと訊けば、面倒になったんだよね、メッセージ送ったでしょ。と、返事をされる。確かにそんな通知があったかもしれない。
「明日は帰ってよね」
私は洗濯物の山からピンクや白のふわふわしたしおりの服を除けつつ、自分のタオルとエプロンを手に取りながらそう声を掛ける。はいはい、と適当に頷くしおり。
一DKとうたってはいるが実は一Kなんじゃないかと思うくらい狭い部屋に、バラエティー番組のかしましい声が響いている。女性アイドルが高級レストランのローストビーフを食べていて、ぐう、と私の腹の虫が大きく鳴いた。そういえば、泰星のところでいつもの通りご飯をともにしたものの、イマイチ食欲がわかずサンドイッチを一つ摘んだきりだ。何か食べようとキッチンに立ってエプロンをする。夜遅いこの時間だけど、たとえ明日多少肌荒れしたとしても食べたい。
「みちる。あたしもおなか空いた」
「昨日のオムレツが冷蔵庫にあるはずだから、食べるんならそっちから消費して」
「みちるが帰ってくる前にそれ食べちゃった」しおりがのんびりと言う。
「え? は? 何それ」
確認すると、しおりが言った通りオムレツを載せていた青い丸皿がシンクに確かに置かれているし、なんなら私が使った覚えのないコップや箸やスプーンや皿なんかもある。もしや、と思い慌てて冷蔵庫を開けると中身はほぼ空で、口に出来そうなのは牛乳と豆腐くらい。明日のお弁当用に仕込んでいた食材も無くなっている。
「なんもないね」こちらに寄ってきて一緒に冷蔵庫をのぞき込んだしおりは、気の抜けた声で事も無げに言い放った。
「しおり……」自分の口から深い溜め息が出る。「あんたさ、使った分は補充するとか、そもそもそんなに食べるんだったら自分であらかじめ買っておくとか、多少なりとも考えないわけ?」
「弁当用に置いてたやつはごめん」
「それだけじゃないでしょ」
「別に好きにしたらいいって言ってたじゃん」
「一日いるだけだったらいいけど、もうそういうレベルじゃないからね。二週間だよ? うちに入り浸るの」
「いてもあたしのごはんはあたしでやってたじゃんよ。そっちは自分と彼氏さんの分しか熱心にやんないし」
「やってもらえると思うのが違うの。そもそも。ご飯だけの話じゃないし。洗濯も掃除も全部私がやってるんだよ?」
目眩がする。これじゃ実家にいたときとまるで変わりがない。
父親は私たちが小さいころに死んで居ないし、母親は母親で多忙だと言い、私たち姉妹をあまり多く気にかけるタイプではなかった。そうなると家事や一歳下のしおりの面倒を見るのは私しかいなくて、助けてくれる人もいない中、私は進学したら絶対に実家を出るという目標を胸に日々をどうにかやり過ごしていた。そして、晴れて大学に入学し実家を離れたのが二年前。やっとつかみ取った私の自由。
ところが今年、私を追うように上京してきたしおりによって、私の自由は崩れ始める。
そもそも進学するとは一言も聞いていなかったからしおりが短大に入ったのにびっくりしたし、うちと電車で二時間ほど離れた大都会東京に一人暮らしの居を構えたにも関わらず月に二、三度は私の家を訪ねてくるし、来たら来たで実家のように振る舞うし、居候なのに家事も何も手伝わないし。更に近頃は一週間平気で居座ったりする。一切変わらないしおりの自由奔放さには辟易する。私の家にはしおりの甘ったるいフェミニン趣味の服やメイク道具といった私物がどんどん増えていって、私の夢が侵されていくばかりだ。
「あのさ、しおり。私にも私の生活があるの。そろそろ自重ってものを覚えてくれない? 実家じゃあるまいし。あんたも大人なんだし。実家のころはやってあげられたけど、もう自立してよね」
目線を合わせるために少し顎を上げ、じろりと睨みつける。しおりも無表情に見つめ返してきて、やがて息を吐いた。
「みちるさ、年々母親に似てくるね」
「なっ……」
すんでの所で握り拳を振り上げるところだった。
「一緒にしないで」
なんとか思いとどまった私は、言葉を絞り出す。
しおりは嘲るように私を見た。
「だいたい一緒じゃん。よく『やってあげてる』って言うけどさ、所詮はそっちの自己満足だし。勝手にやって、巻き込んで、キレるのさ、やばいからね」
「あんた何言って……!」
しおりの左手首を掴んだのはもはや衝動だった。──駄目、みちる。こんなことしちゃいけない。
「ごめん」
私は手を離す。袖がまくれたしおりの手首にはくっきりと大きな斑点状の青あざが出来ていた。そんなに力を込めていたのか、と背筋が冷える。
しおりは体を強ばらせていたけど、我に返って「あたし帰るわ」と荷物を取って玄関に向かっていく。
「ムカつくと手を上げるところとか、男のためっていって相手の都合も聞かず尽くしまくるところとか、ホント、ないわ」
そう言い残すと、しおりは出て行った。
鍵を閉めようと私も玄関に立つと、強く握りしめていた右手から血が出ているのに気がつく。食い込んだ爪が手のひらにつけた痕を確認して、じんわりと罪悪感が湧いてくる。
自分が悪い。分かっている。でも、私をいたわってくれないと分かり切っている相手に無条件に優しく出来るほどの余裕はないのだ。
大きく深呼吸をする。キッチンに戻って、冷蔵庫を再び開けた。お腹が空いているのがよくないのだ、こういうときは。
牛乳パックを取り出す。予想以上の軽さに首を傾げつつマグカップに注ぐと、半分ほどしかマグカップを満たしてくれなかった。なんかもう、いいや。どうでもいい。今日は疲れた。適当に潰した紙パックをゴミ箱に投げ捨てる。
「ん。おかえり」
「おじゃましてます、の間違いじゃないの」
「おじゃましておりますお姉さま」
しおりは座椅子にあぐらをかいてテレビを見ている。周囲には取り込んだままの洗濯物が放り投げられたままだ。
バイトが終わって泰星のところを出たのが二十時半過ぎ。そこから自宅アパートの最寄り駅に着いてスマホを見ると二十一時半になるところだった。昔ながらの下町らしさの残る雑然とした飲み屋街を通りつつ、多少機嫌良くのんびり歩いて帰ってきたらこの有様だ。今日は自分の家に帰るんじゃなかったのと訊けば、面倒になったんだよね、メッセージ送ったでしょ。と、返事をされる。確かにそんな通知があったかもしれない。
「明日は帰ってよね」
私は洗濯物の山からピンクや白のふわふわしたしおりの服を除けつつ、自分のタオルとエプロンを手に取りながらそう声を掛ける。はいはい、と適当に頷くしおり。
一DKとうたってはいるが実は一Kなんじゃないかと思うくらい狭い部屋に、バラエティー番組のかしましい声が響いている。女性アイドルが高級レストランのローストビーフを食べていて、ぐう、と私の腹の虫が大きく鳴いた。そういえば、泰星のところでいつもの通りご飯をともにしたものの、イマイチ食欲がわかずサンドイッチを一つ摘んだきりだ。何か食べようとキッチンに立ってエプロンをする。夜遅いこの時間だけど、たとえ明日多少肌荒れしたとしても食べたい。
「みちる。あたしもおなか空いた」
「昨日のオムレツが冷蔵庫にあるはずだから、食べるんならそっちから消費して」
「みちるが帰ってくる前にそれ食べちゃった」しおりがのんびりと言う。
「え? は? 何それ」
確認すると、しおりが言った通りオムレツを載せていた青い丸皿がシンクに確かに置かれているし、なんなら私が使った覚えのないコップや箸やスプーンや皿なんかもある。もしや、と思い慌てて冷蔵庫を開けると中身はほぼ空で、口に出来そうなのは牛乳と豆腐くらい。明日のお弁当用に仕込んでいた食材も無くなっている。
「なんもないね」こちらに寄ってきて一緒に冷蔵庫をのぞき込んだしおりは、気の抜けた声で事も無げに言い放った。
「しおり……」自分の口から深い溜め息が出る。「あんたさ、使った分は補充するとか、そもそもそんなに食べるんだったら自分であらかじめ買っておくとか、多少なりとも考えないわけ?」
「弁当用に置いてたやつはごめん」
「それだけじゃないでしょ」
「別に好きにしたらいいって言ってたじゃん」
「一日いるだけだったらいいけど、もうそういうレベルじゃないからね。二週間だよ? うちに入り浸るの」
「いてもあたしのごはんはあたしでやってたじゃんよ。そっちは自分と彼氏さんの分しか熱心にやんないし」
「やってもらえると思うのが違うの。そもそも。ご飯だけの話じゃないし。洗濯も掃除も全部私がやってるんだよ?」
目眩がする。これじゃ実家にいたときとまるで変わりがない。
父親は私たちが小さいころに死んで居ないし、母親は母親で多忙だと言い、私たち姉妹をあまり多く気にかけるタイプではなかった。そうなると家事や一歳下のしおりの面倒を見るのは私しかいなくて、助けてくれる人もいない中、私は進学したら絶対に実家を出るという目標を胸に日々をどうにかやり過ごしていた。そして、晴れて大学に入学し実家を離れたのが二年前。やっとつかみ取った私の自由。
ところが今年、私を追うように上京してきたしおりによって、私の自由は崩れ始める。
そもそも進学するとは一言も聞いていなかったからしおりが短大に入ったのにびっくりしたし、うちと電車で二時間ほど離れた大都会東京に一人暮らしの居を構えたにも関わらず月に二、三度は私の家を訪ねてくるし、来たら来たで実家のように振る舞うし、居候なのに家事も何も手伝わないし。更に近頃は一週間平気で居座ったりする。一切変わらないしおりの自由奔放さには辟易する。私の家にはしおりの甘ったるいフェミニン趣味の服やメイク道具といった私物がどんどん増えていって、私の夢が侵されていくばかりだ。
「あのさ、しおり。私にも私の生活があるの。そろそろ自重ってものを覚えてくれない? 実家じゃあるまいし。あんたも大人なんだし。実家のころはやってあげられたけど、もう自立してよね」
目線を合わせるために少し顎を上げ、じろりと睨みつける。しおりも無表情に見つめ返してきて、やがて息を吐いた。
「みちるさ、年々母親に似てくるね」
「なっ……」
すんでの所で握り拳を振り上げるところだった。
「一緒にしないで」
なんとか思いとどまった私は、言葉を絞り出す。
しおりは嘲るように私を見た。
「だいたい一緒じゃん。よく『やってあげてる』って言うけどさ、所詮はそっちの自己満足だし。勝手にやって、巻き込んで、キレるのさ、やばいからね」
「あんた何言って……!」
しおりの左手首を掴んだのはもはや衝動だった。──駄目、みちる。こんなことしちゃいけない。
「ごめん」
私は手を離す。袖がまくれたしおりの手首にはくっきりと大きな斑点状の青あざが出来ていた。そんなに力を込めていたのか、と背筋が冷える。
しおりは体を強ばらせていたけど、我に返って「あたし帰るわ」と荷物を取って玄関に向かっていく。
「ムカつくと手を上げるところとか、男のためっていって相手の都合も聞かず尽くしまくるところとか、ホント、ないわ」
そう言い残すと、しおりは出て行った。
鍵を閉めようと私も玄関に立つと、強く握りしめていた右手から血が出ているのに気がつく。食い込んだ爪が手のひらにつけた痕を確認して、じんわりと罪悪感が湧いてくる。
自分が悪い。分かっている。でも、私をいたわってくれないと分かり切っている相手に無条件に優しく出来るほどの余裕はないのだ。
大きく深呼吸をする。キッチンに戻って、冷蔵庫を再び開けた。お腹が空いているのがよくないのだ、こういうときは。
牛乳パックを取り出す。予想以上の軽さに首を傾げつつマグカップに注ぐと、半分ほどしかマグカップを満たしてくれなかった。なんかもう、いいや。どうでもいい。今日は疲れた。適当に潰した紙パックをゴミ箱に投げ捨てる。