生きるため。そう信じて、小さな希望をかき集めていく。(完)

 とにかく眠い。体は鉛のように重く、頭は白いもやがかかったようにぼんやりしている。欠伸が出そうになったけれど、ちょうど向こうからセーラー服を着た女子生徒が歩いてきたから、私は欠伸を噛みころした。さようなら、と挨拶しながらすれ違ったあとで、私は小さく伸びをする。

 渡り廊下を抜け、突き当たりにある目的の部屋に入る。教科書やプリントといった様々な本や紙類が、壁際の本棚の中や机の上に所狭しと積まれている。

 部屋には私しかいない。それをいいことに、私は椅子の上に勢いよく座った。ギィ、と少々年季の入った合皮のオフィスチェアが軋む。

 八畳間ほどのこの空間が、職場で落ち着ける数少ないお気に入りの場所だった。公民科準備室とこの学校で呼ばれるこの場所は、公民の授業担当の先生たちが利用しているけど、他の公民の授業担当たちはこの部屋の狭さと北向きであるがゆえの日中の薄暗さを嫌って、普段は職員室にいる。だから、ここは私一人になりやすい空間であり、ちょっと息抜きをするにはいい場所なのだ。

 ゆっくりと三度、深呼吸をする。少しだけ体がほぐれる感じがする。

 ──大学を卒業してから丸五年が経った。私は現在、高校教師として働いている。

 新学期が始まり、学校内はとても慌ただしい。私ももちろん例外ではなく、今年は三年生のクラス担任として授業計画だけでなく進路指導を行うことになっている。

 ここ数週間は何かと忙しかった。何せこの春初めて転勤になり、その上三年生という受験期の担任をするのも初めてなのだ。三月中旬からのここ一ヶ月、目まぐるしくあっという間に過ぎていく。まあ、いろいろ任されるのは嫌ではないけど。嫌ではないものの、疲れるものは疲れるのだ。私は凝りをほぐすように首を回す。

 閉門時間まで三十分を切った構内は静かだった。半分ほど開けた窓からは仄かな夕陽とともにゆるやかな風が吹き込み、カーテンを揺らす。中庭に面した桜が見えることも、私が部屋を気に入っている理由だった。今は見頃を少し過ぎ、青々とした葉が出始めた桜が見える。目線を少し下に落とせば、花壇に咲いたチューリップが見頃を迎えていた。窓枠を額縁に見立て、春らしいその暖かな風景をゆったりと眺める。嫌になるくらい春らしい景色に、私の心はちくりと痛む。

 春はつらい。大学二年の冬に泰星がいなくなってからというもの、ずっと。

 春になり新学期を迎えるたび、私はあるはずのない姿を探してしまう。先生、と生徒たちに声をかけられると、しばしば彼の……泰星の姿を重ねてしまうのだ。白昼夢を見るのは春だけに限らないけど、春は一際回数が多い。新入生の中にいたらいいのに、と荒唐無稽な妄想を心の奥底に抱いたまま過ごす季節は、どんなにいい陽気であってもやるせない気持ちにさせられる。

 私が教師になったのは、結局のところ、泰星との思い出を自分自身の中に留めておきたかったからだ。誠実に他者の人生に関わる教師という仕事をしていれば、泰星と繋がっていられる気がして。罪滅ぼしとまでは言わないまでも、泰星にしてあげられなかったことの少しくらいは出来ればいい。と、思いながらこの職を選んだ。……私がいくら悔やんだところで、泰星は戻ってこないけど。

「しんどいなあ」

 机に頬杖をついて、目を閉じる。

 奇跡は起こらない。泰星がいてくれたら、なんて夢想に明け暮れることほど馬鹿馬鹿しいことなどなく、それが無意味であることくらい理解している。

 でも、夢の中に小さな希望を見いだすのは個人の勝手だ、とも考えている。誰に許しを請うわけでもないけれど、それくらいは許されたい。泰星がいたことを忘れたくない。記憶の風化はさせない。

 その一方で、未だ生々しく残る泰星との記憶は、私をこう責めたてるのだ。

 忘れるな。泰星がいなくなってから頑張ったところで、全てが遅すぎる。

 私は勝手気ままに振る舞った。私のことを好きだといった泰星の気持ちを想像すらしないままに。そもそも、泰星が私を好いていたというが、それは本当のことなのか? 都合のよい解釈をしてはいないだろうか。……いや、泰星が私を慕ってくれていて、私も泰星のことを大切に思っていたのは事実だ。いっそ泰星が私を嫌っていてくれた方が良かったのにと思うのは、私のエゴだ。

『大人になった春に、またここで』
『絶対。約束ですよ』

 春になったら。という、泰星と旅行先で交わした約束は、泰星が亡くなってから七年経った今も忘れたことはない。

 私にとって、春は泰星の象徴なのだと思う。春は、彼が望んでも手に入れられなかったもの。だから春が近づくと、泰星と春を迎えられなかったことが一層実感として湧き、私の心を締め付けるのだ。七年間誰にも打ち明けられないままずっと悩み続けている。

「どうしたらいいんだろうね、泰星くん」

 泰星の顔を虚空に思い浮かべながら尋ねる。泰星は微笑んだまま、何も言葉を返さない。

 びゅうびゅうと、突然窓が大きく鳴る。勢いよく部屋の中に入ってきた風。舞い上がるプリントの束。

 ドアがノックされ、一人の男子生徒が入ってきたのは、床一面に散らばったプリントを拾おうと屈んだときだった。

「大丈夫ですか。手伝います」

 私を見下ろしていた男子生徒はそう言ってすぐ、背負っていたリュックサックを下ろし、一緒にしゃがんで手際よく拾い始めた。

 二人がかりで行ったおかげもあり、すぐにプリントは拾い終わった。男子生徒は私にプリントの束を渡し、立ち上がる。私も立ち上がって、見つめ合う格好になる。

 随分と背が高い。一歩下がる。それでも見上げないとよく顔が見えない。百八十センチは優にありそうだ。

 ツーブロックにした黒髪。浅黒く、彫りの深い顔。きりっと結ばれた口元が印象的なこの凛々しい生徒に、見覚えはなかった。学ランの襟元に輝くひし形の校章バッチは赤色だ。この学校において、赤色は二年生を示す色である。

「ありがとうね。助かったよ」
 私はにこりと笑いかける。

 男子生徒は頷いた。それから静かに私の顔を見つめ、何か言いたげにしている。

「どうしたの? 他の公民の先生なら職員室にいると思うよ」
「いえ。みち、じゃないや、先生に用があって。菅谷先生、で合ってますよね? この間の着任式で三年生の担当になるって挨拶していた」
「ええ。菅谷です」

 面識がないはずであろう生徒がどうして私を訪ねてきたのだろう。私は思い当たる理由がなくてどきどきしている。

 男子生徒は何やら考え込むように目を伏せていたけれど、やがて、意を決したように話を切り出した。

「菅谷先生は、『原野泰星』を知っていますか?」

 ──泰星。その名前を聞いた私の心臓は貫かれるような衝撃を受ける。

「先生は七、八年前に原野泰星の家庭教師をしていた、菅谷さんですか?」と、男子生徒は続けて問いかけてくる。

 私は思わず息を呑んだ。この子は、何者なのだろう。

「……ええ。間違いないです」

 激しく動悸する心臓を深呼吸して落ち着かせ、やっとの思いで返事をする。

「そうですか。……あーよかった! 合ってた」

 アーモンド型の眼を細め、ほっとしたように男子生徒は笑う。敵意や不信感などといった感情は彼の表情から読みとれない。

『みちるさん』

 不意に、男子生徒に泰星の顔が重なる。微笑んだときの柔和な面立ち、特に目元が、泰星と男子生徒でよく似通っている。……まさかと思いつつも、私は記憶の中から一つの心当たりを捜し当てる。

「もしかして、佑星くん?」
「はい。坂出さかいで佑星です。原野泰星の弟です、俺は」

 男子生徒、もとい佑星くんは快活に言った。

 彼を見たのは泰星の葬儀以来になるだろうか。当時はまだ小学生だったのに、今やこんなに大きくなっているなんて。過ぎ去った年月の長さに私は驚く。

「着任式で挨拶していたのを見て、もしや!? と思って。兄貴の葬式で見かけて以来で、俺は小学生だったし自分の記憶があてになるかでホントにめちゃくちゃ不安だったんですけど、よかったです。あーマジでよかった。奇跡みたいだ」

 興奮したように早口でまくし立てる佑星くん。

 私もびっくりだ。まさか赴任先で佑星くんと出会うとは。髪をショートにしたくらいの外見変化しか私にはないのだけど、それでも彼はよく私を覚えていたものだと思う。

 泰星の家族とは泰星が亡くなってから会うことも一切なく、疎遠になっていた。泰星の母親が住んでいた高層マンションを引き払って市内の別の町に引っ越したのを聞いていただけだったし、まして佑星くんの居住地なんて知る由もなかった。本当に偶然で、奇跡的な私たちの再会。

「あっごめんなさい。一方的にしゃべって。実は、先生と話したくて」佑星くんは言う。「兄のことで、ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」

 話が長くなりそうな気配を感じた私は、佑星くんに適当な椅子に座らせてから、彼と向かい合うようにして私も再び席につく。

 泰星のこと、か。いったい何だろう。私が語る資格などあるのだろうか。不安で胸がざわつく。

 佑星くんはリュックサックを足下に引き寄せると、中をがさごそと漁って封筒を取り出して机に置き、私に差し出す。

「これなんですけど。見覚えありませんか」と、佑星くんが尋ねる。

 封筒自体は何も書かれていないただの茶封筒だ。私は中身を確認する。入っていたのは、バラの押し花の栞が一枚とポストカードが二枚。ポストカードの裏面には梅の木が描かれた浮世絵と、藤の花が描かれた壷の写真。表面には美術館名のロゴが記されている。熱海にある美術館の名前だ。私は、これらに覚えがある。

「これは、泰星が熱海に行ったときのものだね。多分。自分へのおみやげだって言ってたかな……」
「そのときって先生、一緒に行ってませんでしたか? 合ってます?」
「うん、そうね。合ってるよ。あのときのカード、残ってると思ってなかったな」
「俺がずっと持ってたんです。兄貴が亡くなって、兄貴の部屋に入ったときにこれが本棚にあって。ちょうど俺自身の誕生日が近いし、父さんも兄貴の形見分けだっていうし、じゃあそれならって持ち帰った中にこれがあって」

 虚空を見上げ懐かしむように語る佑星くん。だけど、すっと表情を真剣なものに変えたかと思うと、私の目を見据える。

「だけど、ポストカードと栞は先生が持っていたほうがいいと思うんです」

 封筒を手に取る佑星くん。逆さにして小刻みに振ると、ひらりと一枚のメモが飛び出してくる。佑星くんはそのメモを指で摘んで、私に見せる。

『みちるさんと。熱海で。六年後の約束。宝物』メモにはこう記されている。筆跡は泰星のものに間違いない。

「随分と断片的なメモだと思いませんか? だから見つけた当時の、小三の自分には意味がよく分からなくて。中学生になって、これがどこで買えるものなのかとか、『みちるさん』って兄貴の葬式で見かけたあの人かなとかいろいろ調べて、それでやっとこのメモの意味が分かったのかなーと。少しは」

 佑星くんは白い歯を見せて笑うようにしながら言った。

 約束。宝物。……あの熱海の日の光景が波のように押し寄せ、私の心を満たす。苦々しくもあり、けれどそれより遥かに優しく温かな思い出。

「大事に取っておいてくれてありがとう、佑星くん。けど、どうして私が持っていたほうがいい、って?」
「これは兄貴とみちるさんの……あー、先生じゃなくてみちるさんって呼ばせてもらいますけど、あえて。その、これは兄貴とみちるさんの絆を表すものだと思うんです。だから俺はみちるさんに持っていてほしい」

 私も、出来ることなら手元に置いておきたい。図々しいお願いをするようだけれど。

「いいの? 本当に」
「どうぞ、是非とも。代わりと言っちゃなんですが」佑星くんは一旦言葉を切り、そして「兄貴のことを、教えてください」と会釈をした。

 佑星くんの思惑が読みとれなくて、思わず私は戸惑ってしまう。目を伏せたまま、佑星くんは言葉を続ける。

「俺にとって兄貴は、なんつうか、ふわふわした存在でした。俺が小学校に入るまでずっと入院していたし、退院してからは親の離婚で離れて暮らしていたし。だから『原野泰星』という人間が兄だと頭では理解していても、正直実感はわかなかった」

 憂いを帯びた声で語る佑星くん。

「兄貴はいつも優しかったから、俺は兄貴のことが好きでした。だからこそ、もっと一緒に遊びたいなとか話をしたいなとか思ってたんですけど、それは難しかった。何が好きかとか、何に興味があるかとか。俺がよく知らないまま、兄貴と深く関われないうちに、兄貴は死んでしまった。……だけど、このメモの意味が少し分かって、兄貴が『家庭教師のみちるさん』のことを楽しそうに話してたのをフラッシュバックするみたいに思い出して、気づいたんです。みちるさんは、俺が知らない兄貴のことを絶対知ってるって」

 佑星くんはそう言うと、前のめりになりながら高揚したように目を見開く。

「兄貴にとってみちるさんは心の支えだった。好きだったんだと思います。きっと、いや絶対」
「……支え、か」

 何故だろう。言葉が胸につかえて、私は上手く声が出せない。

「お願いします、何だっていい、ちっちゃいことでも。みちるさんの知っている兄貴のことを俺に教えてください」

 縋るみたいにして、佑星くんは私に迫ってくる。必死の形相で。

 けれど彼の表情は、はたと消えて、狼狽したように口をパクパクさせる。

「ごめんなさい。びっくりさせましたよね、急に現れるなりこんなこと言って」
「ううん、そりゃあ驚きはしたけど、大丈夫」

 自分の声が涙声になっているのを感じながら私は答える。瞬きをすると涙が零れて頬を伝い落ちた。

「今他の先生が部屋に入ってきたら大変なことになるんじゃ。退学とか」
「そんなことにはならないから大丈夫だよ」

 佑星くんが本気で慌てふためくものだから、思わず私は吹き出す。それで少し落ち着きを取り戻すことが出来た。私は佑星くんに向き直って、微笑みかける。

「私の知っていることでいいなら、何でも。是非、お兄さんの……泰星くんのことをお話しさせて」

 胸が震える。嬉しいのだ、泰星のことを誰かに打ち明けられる日が来たことが。泰星という大切な存在がいたこと、その思い出を話せることを。

「みちるさんにとって、兄貴はどんな存在でしたか」
「大切な存在。何にも代えられない、今でも大切な存在」
「俺もです。今も、ですけどね」

 お互い顔を見合わせ、それからけらけらと笑う。

 何から話そうか。楽しかったこと、つらかったこと。私が未熟だったことも、そんな私を泰星が見守っていたことを。

 私は願う。私の中で泰星という灯火は消えない。今度はその灯火が少しでも、佑星くんに分けることが出来たら、これほど嬉しいことはない。
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