全てが覚めない夢だったら、よかったのに。
旅行から帰ってきてすぐ熱が出た。風邪だった。雨に打たれたせいかもしれない。
泰星は体調を崩していないだろうか、と心配になってメッセージを送ってみたら、『いたって元気ですよ』と返事が来たのでひとまず安心する。
毛布にくるまってがたがたと震え、うとうとと浅い眠りにつく。そんな状態を繰り返す私を看病したのは、しおりだった。
しおりはいつの間にかしゃっきりとした顔つきになっていた。うちのキッチンできびきびと働く姿に、私は寝ぼけているんだろうかと自分の頬をつねる。現実だと分かる。
「どういう風の吹き回し?」と私が聞けば、「なんだっていいじゃん」としおりはぶすっとした。けれど、言い方に棘は感じられない。私がいない間、しおりなりにいろいろ考えていたのかな。と、少し塩っ気の強いおかゆを食べながら思った。
ともあれ、私は家でずっと休んでいた。
寝込んでいる間、いろいろなことが頭に浮かんでは目が覚めた。冷たかったり苦しかったりという悪夢の類ではない。ただ淡々と夢を見ていた。
夢の中の私は子どもだったり大人だったりした。母親やしおり、田崎、それと愛理たちといった大学の面々が出てきて、子どもの私が一緒にその場にいることもあった。その様子を、夢だ、と理解しつつ眺めている自分が存在している。
おそらくこれらの夢は、私の葛藤なのだ。これは自分を認め、大切にするための過程として、自らと闘っている。起きるとずっしりと体が重だるくて疲れていることもあるけれど、心は不思議とつらくなかった。
泰星の夢は見なかった。その代わり、起きているときはよく彼のことを考えていた。
紛れもなく、私は泰星に救ってもらった。そのことに感謝しつつ、けれど私自身の未熟さゆえの横暴っぷりが申し訳なく、思い返すたびに悶えている。
少しでも自分が成長して、泰星に一からきちんと向き合えるようになるまでは、なるべく泰星に会わないでいよう。私はそう決めた。未熟なままではまた泰星を振り回してしまう。幸い冬休みで、泰星のテストが近くない代わりに、私の大学のテスト期間が近い今の時期は、元々家庭教師をお休みする予定だった。だから、私にとってはいいタイミングだった。
次に泰星と会ったときは、どんな話をしよう。どんな話をしたら、彼は笑ってくれるだろうか。
風邪は大晦日には治っていた。しおりと二人、実家には帰らず穏やかに年を越す。そして気がついたら、いつの間にか冬休み最後の日を迎えていた。
実家から電話がかかってきたのはその日の夜だった。
母にしては珍しく、抑揚のない声で簡潔に私に告げる。
「泰星くん。昨日の夜、亡くなったそうよ」
私は、全身の血液が凍るような感覚に、体がすくんだ。
棺の中に横たわる姿は、ただ寝ているだけに見える。声をかければ『おはようございます』なんて言って、はにかみながら起きてきそうだ。そう思えるくらい、泰星は普段と変わらない顔でここにいた。
キクにカーネーション、アイリスといった、白や黄色の花々で彩られた棺。枕元には手紙やお菓子、そして泰星の幼少期の写真が納められている。幼稚園の門の前に立って元気にピースサインする姿が写っていた。
「……みちる」
しおりが私の袖を軽く引っ張る。焼香はとうに終わっていたらしい。私は遺影に一礼し、それから遺族である泰星の両親、弟にも一礼してから、しおりと一緒に弔問客の席に戻る。
私は泰星の急逝の知らせを受けてからずっと、体が鉛のように重く、内臓を直に掴まれているかのように気持ち悪い。どうやって会場に来て、通夜がいつ始まったかも分からない。
通夜が始まる前に、泰星の母親と偶然にも顔を合わせた。そのときにこう明かされた。
『朝、いつもの時間になっても起きてこなくて。本当に突然のことだった』と。話している間、泰星の母親はずっと憔悴しきった表情をしていた。
会場からはすすり泣きが聞こえる。通夜には泰星の同級生も多く来ていて、泰星を悼んでいる。学校は休みがちだったというけれど、慕われるような真っ当な人付き合いをしていたんだろう。
導師の僧侶が退場し、泰星の両親は通夜挨拶を始める。悲嘆に暮れる両親。そして、あれは泰星の弟……確か佑星くんといっただろうか、その子も目を腫らし、真一文字に口を結んで泣き出しそうな悲しみに耐えているような様子だった。
私は泣けなかった。悲しいのに、未だ涙は出ない。ただ呆然とするばかりで、ぼんやりと前方を見ている。
「……?」
ふと、私に向けられた視線を感じる。
視線の元を探ると、どうやら佑星くんが私を見ているようだった。私たちの間にはたくさんの人が座っているから、実際のところはどうか分からない。
私は佑星くんを見つめる。すると彼は顔を逸らすことなく、父親が話し終わるまでの長い間ただじーっと、ずっとこちらを見つめ返していた。
佑星くんは、いつか何かの折に写真で見た昔の泰星よりも体が大きくて、目鼻立ちもがっしりとしている。いかにも活発なスポーツ少年って感じで、泰星とはまるで対極的な印象だ。けれど、その優しげな目元だけは、兄の泰星によく似ている。
泰星は体調を崩していないだろうか、と心配になってメッセージを送ってみたら、『いたって元気ですよ』と返事が来たのでひとまず安心する。
毛布にくるまってがたがたと震え、うとうとと浅い眠りにつく。そんな状態を繰り返す私を看病したのは、しおりだった。
しおりはいつの間にかしゃっきりとした顔つきになっていた。うちのキッチンできびきびと働く姿に、私は寝ぼけているんだろうかと自分の頬をつねる。現実だと分かる。
「どういう風の吹き回し?」と私が聞けば、「なんだっていいじゃん」としおりはぶすっとした。けれど、言い方に棘は感じられない。私がいない間、しおりなりにいろいろ考えていたのかな。と、少し塩っ気の強いおかゆを食べながら思った。
ともあれ、私は家でずっと休んでいた。
寝込んでいる間、いろいろなことが頭に浮かんでは目が覚めた。冷たかったり苦しかったりという悪夢の類ではない。ただ淡々と夢を見ていた。
夢の中の私は子どもだったり大人だったりした。母親やしおり、田崎、それと愛理たちといった大学の面々が出てきて、子どもの私が一緒にその場にいることもあった。その様子を、夢だ、と理解しつつ眺めている自分が存在している。
おそらくこれらの夢は、私の葛藤なのだ。これは自分を認め、大切にするための過程として、自らと闘っている。起きるとずっしりと体が重だるくて疲れていることもあるけれど、心は不思議とつらくなかった。
泰星の夢は見なかった。その代わり、起きているときはよく彼のことを考えていた。
紛れもなく、私は泰星に救ってもらった。そのことに感謝しつつ、けれど私自身の未熟さゆえの横暴っぷりが申し訳なく、思い返すたびに悶えている。
少しでも自分が成長して、泰星に一からきちんと向き合えるようになるまでは、なるべく泰星に会わないでいよう。私はそう決めた。未熟なままではまた泰星を振り回してしまう。幸い冬休みで、泰星のテストが近くない代わりに、私の大学のテスト期間が近い今の時期は、元々家庭教師をお休みする予定だった。だから、私にとってはいいタイミングだった。
次に泰星と会ったときは、どんな話をしよう。どんな話をしたら、彼は笑ってくれるだろうか。
風邪は大晦日には治っていた。しおりと二人、実家には帰らず穏やかに年を越す。そして気がついたら、いつの間にか冬休み最後の日を迎えていた。
実家から電話がかかってきたのはその日の夜だった。
母にしては珍しく、抑揚のない声で簡潔に私に告げる。
「泰星くん。昨日の夜、亡くなったそうよ」
私は、全身の血液が凍るような感覚に、体がすくんだ。
棺の中に横たわる姿は、ただ寝ているだけに見える。声をかければ『おはようございます』なんて言って、はにかみながら起きてきそうだ。そう思えるくらい、泰星は普段と変わらない顔でここにいた。
キクにカーネーション、アイリスといった、白や黄色の花々で彩られた棺。枕元には手紙やお菓子、そして泰星の幼少期の写真が納められている。幼稚園の門の前に立って元気にピースサインする姿が写っていた。
「……みちる」
しおりが私の袖を軽く引っ張る。焼香はとうに終わっていたらしい。私は遺影に一礼し、それから遺族である泰星の両親、弟にも一礼してから、しおりと一緒に弔問客の席に戻る。
私は泰星の急逝の知らせを受けてからずっと、体が鉛のように重く、内臓を直に掴まれているかのように気持ち悪い。どうやって会場に来て、通夜がいつ始まったかも分からない。
通夜が始まる前に、泰星の母親と偶然にも顔を合わせた。そのときにこう明かされた。
『朝、いつもの時間になっても起きてこなくて。本当に突然のことだった』と。話している間、泰星の母親はずっと憔悴しきった表情をしていた。
会場からはすすり泣きが聞こえる。通夜には泰星の同級生も多く来ていて、泰星を悼んでいる。学校は休みがちだったというけれど、慕われるような真っ当な人付き合いをしていたんだろう。
導師の僧侶が退場し、泰星の両親は通夜挨拶を始める。悲嘆に暮れる両親。そして、あれは泰星の弟……確か佑星くんといっただろうか、その子も目を腫らし、真一文字に口を結んで泣き出しそうな悲しみに耐えているような様子だった。
私は泣けなかった。悲しいのに、未だ涙は出ない。ただ呆然とするばかりで、ぼんやりと前方を見ている。
「……?」
ふと、私に向けられた視線を感じる。
視線の元を探ると、どうやら佑星くんが私を見ているようだった。私たちの間にはたくさんの人が座っているから、実際のところはどうか分からない。
私は佑星くんを見つめる。すると彼は顔を逸らすことなく、父親が話し終わるまでの長い間ただじーっと、ずっとこちらを見つめ返していた。
佑星くんは、いつか何かの折に写真で見た昔の泰星よりも体が大きくて、目鼻立ちもがっしりとしている。いかにも活発なスポーツ少年って感じで、泰星とはまるで対極的な印象だ。けれど、その優しげな目元だけは、兄の泰星によく似ている。