欲しいものがどこにもないのなら──
バスから下車するやいなや、「さむっ」と泰星は声を漏らした。
まだ雨がしとしと降り、通りに植えられたヤシの木が風になびく。観光の目玉の一つとうたわれるこのビーチも、生憎の空模様とあってはずっと離れたところに一人二人いるだけで、周囲には私たちしかいない。
「視界が開けたところは気持ちがいいですね」伸びをする泰星。
「そうだねぇ」
白いタイルが敷き詰められた階段を降り、砂浜に立つ。私は白く飛沫をあげる波打ち際へ足を向ける。ヒールが砂に埋まって落ち着かない。
「あの。みちるさんやっぱり、顔色が」
泰星が後ろをついてきている。私を気遣うその声が、今となっては重たくて、しんどい。
「泰星くん。手間で悪いんだけどさ、すぐそこのコンビニで飲み物買ってきてもらえないかな? おやつも適当に選んでいいから」
振り返って、軽く泰星の肩を手で叩く。泰星は私の顔と手の間で目線を往復させて逡巡していたけど、最後には「雨が避けられそうなところで待っていてください」と言って来た道を引き返していった。
私はひとり波打ち際へと近づいていく。穏やかに押し寄せては引いていく波。地平線は何も浮かべていなくて、ただ黒い海が広がっている。
今日という日が晴れであれば良かったかもしれない。こんな気鬱にならず、ただ好き勝手してすっきりすることが出来たのに。
でもそれは違う。そうじゃない。もう一人の自分が指摘する。泰星を連れ出してここに来た全てが間違っているのだ。自分のことは自分でけりをつけろ、と。
あたりがやたらと静かになった。何も聞こえない。何も聞きたくない。
水面に左足をつける。革越しに水の冷たさがひやりと伝わる。右足、続けてまた左足と、私は進んでいく。
足首の上まで浸ったころ、私は突然後ろに引っ張られた。
「何してるんですか?」
泰星が私の右腕を掴んでいる。体を捻って泰星と真正面から向き合う。腕を振り払おうとすると左腕も掴まれてしまった。二人とも傘が砂の上に放り投げられる。私は尚も抵抗するけど、泰星の腕の力が想像以上に強くてびくともしない。
私は泰星をじっと睨む。泰星も無表情ながら強い目つきで私を見据える。
「手、離していいよ。何もしないから」と、膠着状態の末、先に口を開いたのは私だった。
「ならすぐ、上がってください。海から」
泰星は心配するような口ぶりで言う。
「大丈夫だよ、泰星が心配するような問題じゃないから」
私は怪訝な顔をする彼の指示を聞かなかったことにする。
「これを見て大丈夫とは到底思えないのですが。心配ですよ」
「いいから、私をひとりにしてよ」
「無理です」
はっきりと言い放つ泰星。かあっと血が上るのを私は感じていた。勢いのままに私は言う。叫びとなって、私の耳をつんざく。
「私がどうしようと誰も気にしないくせに。私のすること、別に泰星に関係ないでしょ!」
「関係あります。落ち着いて……疲れてるんですよ、みちるさん。頑張りすぎです」
「落ち着いてるから!」
「落ち着いてません」
「だから!」
私はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら息を吸った。全身が震える。
「泰星さ、随分と私のこと買ってるけど、別に私あんたのこと好きじゃないし。ちょっと優しくしただけで懐くとかそれ格好のカモにされてるだけだし。ただ泰星は都合のいい相手なだけだから。可哀想だから相手してるだけ!」
「知ってますよ」
「私のこと買い被って勝手に幻滅し、て……?」
泰星の言葉にはっとする。泰星はなんと言った? 知っている? 何を?
私の力が緩んだのを泰星は見逃さなかった。ぐいと引っ張られて、波の届かない位置までよろけながら私は砂浜に戻る。
「知ってます。みちるさんの自尊心を保つために、俺は利用されてるって」
「いつから……?」
「確信したのは秋になったばかりのころです」
秋口といえば、泰星に初めてキスをしたくらいの時期だ。そんなに前から。すっと背筋が冷える。
「昨晩もお酒でよっぽど酔ってたのかいろいろ言ってたのに、覚えてないって言われてびっくりしましたよ。俺が可哀想だのいけ好かないだの、散々だったのになあって」
あの夢は全部が夢というわけではないことを突きつけられ、私は思わず絶句する。そんな私を見て、くすりと笑う泰星。彼は怒る素振りを一つも見せてこないから、私の頭はますます混乱する。
「怒らないの?」
「怒られたいんですか?」
「……私は、泰星を利用してきた。怒られてもおかしくないくらい、泰星には酷いことをしているから」
自分はちっとも他人を好きじゃないのに、でも他人には愛されたい。愛して、自分を満たしてほしい。私が私のことを好きになれない代わりに、他人には愛してもらいたいのだ。ただそれだけのために、私は泰星を利用している。教師と生徒の間柄にあって、彼の立場の方が私より弱いから。
「真面目なのか不真面目なのか……」
泰星は大仰に肩をすくめ、それから言った。
「利用しているのは俺も同じです」
「利用? 何を?」
「みちるさんのそういう俺を軽んじる気持ちとか、同情心とかですよ」
言っている意味が分からない。私の頭はますますこんがらがる。目も回りそうだ。
泰星は私から左手を離して傘を拾い、相傘を差す。雨音が再び大きく聞こえ出す。私の傘は風で砂の上を転がって、届かない距離に行ってしまっていた。
「小さいときは入院生活。入院中に両親が離婚。退院後は虚弱体質を抱え学校に行けない日もある。そんな有様ですから、不憫がられたりするのは慣れてるんです。俺にとっては、それが普通の周囲の反応だから」
「私も、泰星のことは可哀想な子だと思ってるよ。あと……」私は続きを言うか言わないか迷い、俯いて言葉を切る。
「いいですよ続けて。俺は怒りませんから」
「……たかが中学生なのに妙に余裕があって悟ってて、いけ好かない」私はゆっくりと顔を上げる。泰星は首を軽く振った。
「それも何となく分かってました。けど、改めて言われると多少堪えますね」
「もしかして、泰星は私のこと好きだった?」
「好きですよ。俺のことを何やかんやうざったく思いつつも真面目に接してくれるところとか。ああ、でも恋愛面では、……少しもそんなことは」
泰星は若干当惑したように目を細くする。
恋愛面で好かれていたらどうしよう、なんて余計な心配は杞憂だったみたいだ。内心少しほっとする。自分からちょっかいをかけておいて言うのもどうかと思う。とはいえ、だけれど。
「なら、どうして私を」
泰星が私を好きでないなら、私を相手にする理由が一層分からない。そう尋ねると、泰星は私の疑問を一笑する。
「みちるさんが俺に構うからです。学校の友達、親戚、父も弟も……母親でさえも、退院後の俺との接し方は悩むみたいで。遠回しに見るような、壊れ物に触れるような接し方をしてくる。でもみちるさんはそうじゃない。俺の隣で勉強を教えて、いろいろなところに連れ出してくれる」
泰星の、私の手を握る強さが強くなる。いつもより硬い笑顔なのは真剣だからだろうか。
別に、泰星のために私は行動を起こしてきたわけじゃない。だから、そんなことを言われても正直、困ってしまう。
「泰星を連れ出したのも、私自身のためだし」
「ええ。だから俺も『利用』したんです。みちるさんが自尊心を満たすために俺を使ったように、俺も自分の願いに近づくためにみちるさんを使ってる」
歩き出した泰星に手を引かれる。波が次第に遠くなる。なぜだかもう、抵抗する気は私から失せていた。
「俺は早く大人になりたい」
私たちは海岸沿いに設けられたデッキから、ぼんやりと海を眺める。雨雲はますます暗くなり、海との境界線を無くしていく。
砂浜から回収した私の傘は畳んだままで、私たち二人は横に並んで泰星の傘に入っていた。私は泰星に右手を握られたままだ。『まだ、飛び込もうと走りはしないという確証がないので』と、泰星が首を縦に振らないから。
「大人になりたい。大人になって、自由になりたい。危ないとか体に障るとか、そんなことを並べ立てるだけで手を差し伸べてはくれない、俺に挑戦のチャンスも与えない周囲から逃げ出したい。……そりゃあ、どうあがいても、今の俺は非力な子どもですよ。でも、腹を立てる権利くらいはある」
ぽつりぽつりと、ゆっくり泰星の口から紡ぎ出される言葉は、鋭く吐き捨てるようなものに変わっていく。顔つきも険しい。私は今、混じりけのない、今まで幾重にも覆い隠されてきた彼の内面に直に触れているのかもしれない。
私に横顔を見られているのに気がついたのか、泰星は深呼吸をして、再びいつもの柔らかな調子に戻った。意識的に口角を上げようとしているのか、まだ表情がぎこちなく見える。
「でも教師役として来たみちるさんは、内心俺を哀れみこそすれ、ないがしろにはしないから。みちるさんといる間は、子どもだってことをさほど意識せずに済む。誰よりも俺と目線や意識が近いのがみちるさんだって、俺は思うから」
「こういうときは普通、家族じゃない?」
「弟はまだ小さいし、父親は優しいけど近くにはいない。一番身近な母親にいたっては、後ろめたさで俺と距離を置こうとする。……俺は母の浮気でできた子だから、父と血がつながっていないんですよ。それが俺の病気をきっかけに明るみに出て」
冷ややかな笑みを浮かべる泰星。その表情が不意に高校時代の自分と重なって見えて、どきりとする。家族関係に悩み、保健室で臥っていたころの自分はよく、こんな顔をしていた。
「そうだったんだ。でも、どうして私にそれを話すの?」
「みちるさんには知っておいてもらいたかったからです」
今度は微笑みを浮かべる泰星。だけど、その目だけは笑っていない。
ああ、きっと泰星も感じているのだろう。私と泰星は根底で通じ合うものがあることを。
「俺はね、みちるさん」泰星は私の方へ向き直る。「大人で、真面目なあなたがうらやましい。親元から出て、一人でちゃんと暮らしてて、学校にも通って」
「いや……やっぱりどう考えても、泰星くんは私を買い被ってるよ」
「少なくとも、俺には義理堅い人に見えますよ。今こうやって冷静になってからは、俺のことを『泰星くん』って君付けして呼ぶところとか。俺は年下だし生徒だし、別に呼び捨てでも良かったと思うんですが」
「あっ……」
指摘されるまで呼び方を変えていたことに気がつかなかった。家族以外を、特に男性を呼び捨てにするのに慣れていないから、という元々は些細な理由からだったけど。
「やっぱり気がついてなかったですか」と泰星は苦笑し、それからさっと表情を真顔に変える。
「うらやましいからこそ、俺には理解ができない。みちるさんが何に悩んでここに来たかはよく分からないままですが、その悩みはみちるさんを海に沈めるほど大きくて重たいものですか? 大人が逃げ場もなくただ潰されることしかできないものなんですか?」
ぐっと目に力を込める泰星。射抜くようなその瞳が私を捉え、何を言ってるんだと言いたくなる気持ちは消し去られていく。
「私は」私は、言う。「私は、誰も愛してくれないから、消えたかった」
自分の声が弱々しく聞こえた。心臓が早鐘を打つ。
「愛されないと生きられないですか? みちるさんを大事にしてくれない人からであろうと、愛されないと駄目なんですか?」
泰星はきっぱりと言い、それからにっこりと笑う。
「……それは」
駄目じゃない。私のことを大事にしてくれる人でないと嫌だ。もう、あんなつらい思いはしたくない。そう返事をしたいけど、漏れるのは嗚咽ばかりで、当分言葉になりそうになかった。
「ごめんなさい。決して泣かせるつもりはなかったんです」
頬に柔らかい布が当てられる。泰星のハンカチだった。受け取って、目尻を拭う。
「なんでかな、なんか、止まらない……」
「いいですよ。近くに誰もいない。俺たちしかいませんから」
泰星は私の手を離すと、その手で私の頭を撫でる。その体温が心地よくて、ますます涙が止まらなくなった。私たちはしばらくずっとそのままでいた。
次第に目の熱が引いてきて、私は深呼吸を何度も繰り返す。落ち着きを取り戻すまでの間、泰星は静かに私を見ていた。その温かな瞳はとてもくすぐったくて、意識した途端、私はむず痒さを覚える。
「やっぱり、余裕綽々って感じで、腹立つ」
「えっ!?」
「嘘。冗談だよ」
えへへ、と声を立てて私は笑ってみせる。
泣いたら結構すっきりした。目はまだ少し熱さを持っているし、化粧がいくらか落ちてしまっているけど、どうだってよく思える。
「ありがとう、泰星」
愛が欲しい、その思いは変わらない。
でもその前にまず、自分を認めてあげたい。自分を大事にして、それから他人を愛したい。その想いが通じ合ったら最高だけど、まだそこまでは欲張らない方が身のためだと思う。素直にそう思える自分に驚く。大分気が楽になったからなのか、気が大きくなったからなのか。
とはいえきっと、すぐには変われない。今考えていることだって、少し無理をしているかもしれない。でも私は、今日のこの選択を信じて、少しずつでも進んでいきたい。そう願う。
「少しは役に立てたのなら良かったです。あ、みちるさん」
泰星が前方の空を指さす。
「見てください。空が」
雲間から淡い夕陽が差して、海を赤色に優しく染めていた。今日見た中で一番、いやここ数年で一番綺麗な景色だ。
『春にまた来れたらいいかもしれませんね』
ふと、先ほどバラ庭園で泰星が話した言葉を思い出す。
春になって美しい花がたくさん咲いたら、私は誰とその風景を見たいと願うだろうか。
「泰星くん。春になったら、そして泰星くんが大人になったら、またここに来ない?」
私は脳裏に浮かんだ言葉を、正直に口にする。実現するかは分からない。泰星には彼女がきっと出来ているだろうし、そもそも私のことが煩わしくなっているかもしれない。だけど、一緒にまたここに来るという未来があったら面白いんじゃないかって、私は想像するのだ。
「大人になったらですか?」
「うん。お酒二人で飲めるし」
「……みちるさんって結構お酒好きですよね」
呆れたように呟いた泰星。私は目を伏せる。酒には気をつけよう。また迷惑をかけすぎないように。
「いいですね。では大人になった春に、またここで」
泰星が手招きのジェスチャーをする。その通りに近くに寄ると、頬に軽くキスをされる。
「えっ、どうして」
好きではないと言った口で、何故私にキスをしたのか。戸惑う私に泰星はにっこりと私に笑いかける。
「ちょっとした仕返しです」
「びっくりして心臓止まるかと思った……」
「大げさな。さすがにちょっと傷つきますよ」
「体張らなくてもいいのに」
「これくらいしないとやり返しには不十分じゃないですか」
不満げな口ぶりの割に、楽しげに目を細める泰星。
「みちるさん。また来ましょうね。絶対。約束ですよ」
泰星はとても綺麗に笑った。その姿は目に焼き付いて、しばらく消えそうにないな、と思う。
まだ雨がしとしと降り、通りに植えられたヤシの木が風になびく。観光の目玉の一つとうたわれるこのビーチも、生憎の空模様とあってはずっと離れたところに一人二人いるだけで、周囲には私たちしかいない。
「視界が開けたところは気持ちがいいですね」伸びをする泰星。
「そうだねぇ」
白いタイルが敷き詰められた階段を降り、砂浜に立つ。私は白く飛沫をあげる波打ち際へ足を向ける。ヒールが砂に埋まって落ち着かない。
「あの。みちるさんやっぱり、顔色が」
泰星が後ろをついてきている。私を気遣うその声が、今となっては重たくて、しんどい。
「泰星くん。手間で悪いんだけどさ、すぐそこのコンビニで飲み物買ってきてもらえないかな? おやつも適当に選んでいいから」
振り返って、軽く泰星の肩を手で叩く。泰星は私の顔と手の間で目線を往復させて逡巡していたけど、最後には「雨が避けられそうなところで待っていてください」と言って来た道を引き返していった。
私はひとり波打ち際へと近づいていく。穏やかに押し寄せては引いていく波。地平線は何も浮かべていなくて、ただ黒い海が広がっている。
今日という日が晴れであれば良かったかもしれない。こんな気鬱にならず、ただ好き勝手してすっきりすることが出来たのに。
でもそれは違う。そうじゃない。もう一人の自分が指摘する。泰星を連れ出してここに来た全てが間違っているのだ。自分のことは自分でけりをつけろ、と。
あたりがやたらと静かになった。何も聞こえない。何も聞きたくない。
水面に左足をつける。革越しに水の冷たさがひやりと伝わる。右足、続けてまた左足と、私は進んでいく。
足首の上まで浸ったころ、私は突然後ろに引っ張られた。
「何してるんですか?」
泰星が私の右腕を掴んでいる。体を捻って泰星と真正面から向き合う。腕を振り払おうとすると左腕も掴まれてしまった。二人とも傘が砂の上に放り投げられる。私は尚も抵抗するけど、泰星の腕の力が想像以上に強くてびくともしない。
私は泰星をじっと睨む。泰星も無表情ながら強い目つきで私を見据える。
「手、離していいよ。何もしないから」と、膠着状態の末、先に口を開いたのは私だった。
「ならすぐ、上がってください。海から」
泰星は心配するような口ぶりで言う。
「大丈夫だよ、泰星が心配するような問題じゃないから」
私は怪訝な顔をする彼の指示を聞かなかったことにする。
「これを見て大丈夫とは到底思えないのですが。心配ですよ」
「いいから、私をひとりにしてよ」
「無理です」
はっきりと言い放つ泰星。かあっと血が上るのを私は感じていた。勢いのままに私は言う。叫びとなって、私の耳をつんざく。
「私がどうしようと誰も気にしないくせに。私のすること、別に泰星に関係ないでしょ!」
「関係あります。落ち着いて……疲れてるんですよ、みちるさん。頑張りすぎです」
「落ち着いてるから!」
「落ち着いてません」
「だから!」
私はひゅうひゅうと喉を鳴らしながら息を吸った。全身が震える。
「泰星さ、随分と私のこと買ってるけど、別に私あんたのこと好きじゃないし。ちょっと優しくしただけで懐くとかそれ格好のカモにされてるだけだし。ただ泰星は都合のいい相手なだけだから。可哀想だから相手してるだけ!」
「知ってますよ」
「私のこと買い被って勝手に幻滅し、て……?」
泰星の言葉にはっとする。泰星はなんと言った? 知っている? 何を?
私の力が緩んだのを泰星は見逃さなかった。ぐいと引っ張られて、波の届かない位置までよろけながら私は砂浜に戻る。
「知ってます。みちるさんの自尊心を保つために、俺は利用されてるって」
「いつから……?」
「確信したのは秋になったばかりのころです」
秋口といえば、泰星に初めてキスをしたくらいの時期だ。そんなに前から。すっと背筋が冷える。
「昨晩もお酒でよっぽど酔ってたのかいろいろ言ってたのに、覚えてないって言われてびっくりしましたよ。俺が可哀想だのいけ好かないだの、散々だったのになあって」
あの夢は全部が夢というわけではないことを突きつけられ、私は思わず絶句する。そんな私を見て、くすりと笑う泰星。彼は怒る素振りを一つも見せてこないから、私の頭はますます混乱する。
「怒らないの?」
「怒られたいんですか?」
「……私は、泰星を利用してきた。怒られてもおかしくないくらい、泰星には酷いことをしているから」
自分はちっとも他人を好きじゃないのに、でも他人には愛されたい。愛して、自分を満たしてほしい。私が私のことを好きになれない代わりに、他人には愛してもらいたいのだ。ただそれだけのために、私は泰星を利用している。教師と生徒の間柄にあって、彼の立場の方が私より弱いから。
「真面目なのか不真面目なのか……」
泰星は大仰に肩をすくめ、それから言った。
「利用しているのは俺も同じです」
「利用? 何を?」
「みちるさんのそういう俺を軽んじる気持ちとか、同情心とかですよ」
言っている意味が分からない。私の頭はますますこんがらがる。目も回りそうだ。
泰星は私から左手を離して傘を拾い、相傘を差す。雨音が再び大きく聞こえ出す。私の傘は風で砂の上を転がって、届かない距離に行ってしまっていた。
「小さいときは入院生活。入院中に両親が離婚。退院後は虚弱体質を抱え学校に行けない日もある。そんな有様ですから、不憫がられたりするのは慣れてるんです。俺にとっては、それが普通の周囲の反応だから」
「私も、泰星のことは可哀想な子だと思ってるよ。あと……」私は続きを言うか言わないか迷い、俯いて言葉を切る。
「いいですよ続けて。俺は怒りませんから」
「……たかが中学生なのに妙に余裕があって悟ってて、いけ好かない」私はゆっくりと顔を上げる。泰星は首を軽く振った。
「それも何となく分かってました。けど、改めて言われると多少堪えますね」
「もしかして、泰星は私のこと好きだった?」
「好きですよ。俺のことを何やかんやうざったく思いつつも真面目に接してくれるところとか。ああ、でも恋愛面では、……少しもそんなことは」
泰星は若干当惑したように目を細くする。
恋愛面で好かれていたらどうしよう、なんて余計な心配は杞憂だったみたいだ。内心少しほっとする。自分からちょっかいをかけておいて言うのもどうかと思う。とはいえ、だけれど。
「なら、どうして私を」
泰星が私を好きでないなら、私を相手にする理由が一層分からない。そう尋ねると、泰星は私の疑問を一笑する。
「みちるさんが俺に構うからです。学校の友達、親戚、父も弟も……母親でさえも、退院後の俺との接し方は悩むみたいで。遠回しに見るような、壊れ物に触れるような接し方をしてくる。でもみちるさんはそうじゃない。俺の隣で勉強を教えて、いろいろなところに連れ出してくれる」
泰星の、私の手を握る強さが強くなる。いつもより硬い笑顔なのは真剣だからだろうか。
別に、泰星のために私は行動を起こしてきたわけじゃない。だから、そんなことを言われても正直、困ってしまう。
「泰星を連れ出したのも、私自身のためだし」
「ええ。だから俺も『利用』したんです。みちるさんが自尊心を満たすために俺を使ったように、俺も自分の願いに近づくためにみちるさんを使ってる」
歩き出した泰星に手を引かれる。波が次第に遠くなる。なぜだかもう、抵抗する気は私から失せていた。
「俺は早く大人になりたい」
私たちは海岸沿いに設けられたデッキから、ぼんやりと海を眺める。雨雲はますます暗くなり、海との境界線を無くしていく。
砂浜から回収した私の傘は畳んだままで、私たち二人は横に並んで泰星の傘に入っていた。私は泰星に右手を握られたままだ。『まだ、飛び込もうと走りはしないという確証がないので』と、泰星が首を縦に振らないから。
「大人になりたい。大人になって、自由になりたい。危ないとか体に障るとか、そんなことを並べ立てるだけで手を差し伸べてはくれない、俺に挑戦のチャンスも与えない周囲から逃げ出したい。……そりゃあ、どうあがいても、今の俺は非力な子どもですよ。でも、腹を立てる権利くらいはある」
ぽつりぽつりと、ゆっくり泰星の口から紡ぎ出される言葉は、鋭く吐き捨てるようなものに変わっていく。顔つきも険しい。私は今、混じりけのない、今まで幾重にも覆い隠されてきた彼の内面に直に触れているのかもしれない。
私に横顔を見られているのに気がついたのか、泰星は深呼吸をして、再びいつもの柔らかな調子に戻った。意識的に口角を上げようとしているのか、まだ表情がぎこちなく見える。
「でも教師役として来たみちるさんは、内心俺を哀れみこそすれ、ないがしろにはしないから。みちるさんといる間は、子どもだってことをさほど意識せずに済む。誰よりも俺と目線や意識が近いのがみちるさんだって、俺は思うから」
「こういうときは普通、家族じゃない?」
「弟はまだ小さいし、父親は優しいけど近くにはいない。一番身近な母親にいたっては、後ろめたさで俺と距離を置こうとする。……俺は母の浮気でできた子だから、父と血がつながっていないんですよ。それが俺の病気をきっかけに明るみに出て」
冷ややかな笑みを浮かべる泰星。その表情が不意に高校時代の自分と重なって見えて、どきりとする。家族関係に悩み、保健室で臥っていたころの自分はよく、こんな顔をしていた。
「そうだったんだ。でも、どうして私にそれを話すの?」
「みちるさんには知っておいてもらいたかったからです」
今度は微笑みを浮かべる泰星。だけど、その目だけは笑っていない。
ああ、きっと泰星も感じているのだろう。私と泰星は根底で通じ合うものがあることを。
「俺はね、みちるさん」泰星は私の方へ向き直る。「大人で、真面目なあなたがうらやましい。親元から出て、一人でちゃんと暮らしてて、学校にも通って」
「いや……やっぱりどう考えても、泰星くんは私を買い被ってるよ」
「少なくとも、俺には義理堅い人に見えますよ。今こうやって冷静になってからは、俺のことを『泰星くん』って君付けして呼ぶところとか。俺は年下だし生徒だし、別に呼び捨てでも良かったと思うんですが」
「あっ……」
指摘されるまで呼び方を変えていたことに気がつかなかった。家族以外を、特に男性を呼び捨てにするのに慣れていないから、という元々は些細な理由からだったけど。
「やっぱり気がついてなかったですか」と泰星は苦笑し、それからさっと表情を真顔に変える。
「うらやましいからこそ、俺には理解ができない。みちるさんが何に悩んでここに来たかはよく分からないままですが、その悩みはみちるさんを海に沈めるほど大きくて重たいものですか? 大人が逃げ場もなくただ潰されることしかできないものなんですか?」
ぐっと目に力を込める泰星。射抜くようなその瞳が私を捉え、何を言ってるんだと言いたくなる気持ちは消し去られていく。
「私は」私は、言う。「私は、誰も愛してくれないから、消えたかった」
自分の声が弱々しく聞こえた。心臓が早鐘を打つ。
「愛されないと生きられないですか? みちるさんを大事にしてくれない人からであろうと、愛されないと駄目なんですか?」
泰星はきっぱりと言い、それからにっこりと笑う。
「……それは」
駄目じゃない。私のことを大事にしてくれる人でないと嫌だ。もう、あんなつらい思いはしたくない。そう返事をしたいけど、漏れるのは嗚咽ばかりで、当分言葉になりそうになかった。
「ごめんなさい。決して泣かせるつもりはなかったんです」
頬に柔らかい布が当てられる。泰星のハンカチだった。受け取って、目尻を拭う。
「なんでかな、なんか、止まらない……」
「いいですよ。近くに誰もいない。俺たちしかいませんから」
泰星は私の手を離すと、その手で私の頭を撫でる。その体温が心地よくて、ますます涙が止まらなくなった。私たちはしばらくずっとそのままでいた。
次第に目の熱が引いてきて、私は深呼吸を何度も繰り返す。落ち着きを取り戻すまでの間、泰星は静かに私を見ていた。その温かな瞳はとてもくすぐったくて、意識した途端、私はむず痒さを覚える。
「やっぱり、余裕綽々って感じで、腹立つ」
「えっ!?」
「嘘。冗談だよ」
えへへ、と声を立てて私は笑ってみせる。
泣いたら結構すっきりした。目はまだ少し熱さを持っているし、化粧がいくらか落ちてしまっているけど、どうだってよく思える。
「ありがとう、泰星」
愛が欲しい、その思いは変わらない。
でもその前にまず、自分を認めてあげたい。自分を大事にして、それから他人を愛したい。その想いが通じ合ったら最高だけど、まだそこまでは欲張らない方が身のためだと思う。素直にそう思える自分に驚く。大分気が楽になったからなのか、気が大きくなったからなのか。
とはいえきっと、すぐには変われない。今考えていることだって、少し無理をしているかもしれない。でも私は、今日のこの選択を信じて、少しずつでも進んでいきたい。そう願う。
「少しは役に立てたのなら良かったです。あ、みちるさん」
泰星が前方の空を指さす。
「見てください。空が」
雲間から淡い夕陽が差して、海を赤色に優しく染めていた。今日見た中で一番、いやここ数年で一番綺麗な景色だ。
『春にまた来れたらいいかもしれませんね』
ふと、先ほどバラ庭園で泰星が話した言葉を思い出す。
春になって美しい花がたくさん咲いたら、私は誰とその風景を見たいと願うだろうか。
「泰星くん。春になったら、そして泰星くんが大人になったら、またここに来ない?」
私は脳裏に浮かんだ言葉を、正直に口にする。実現するかは分からない。泰星には彼女がきっと出来ているだろうし、そもそも私のことが煩わしくなっているかもしれない。だけど、一緒にまたここに来るという未来があったら面白いんじゃないかって、私は想像するのだ。
「大人になったらですか?」
「うん。お酒二人で飲めるし」
「……みちるさんって結構お酒好きですよね」
呆れたように呟いた泰星。私は目を伏せる。酒には気をつけよう。また迷惑をかけすぎないように。
「いいですね。では大人になった春に、またここで」
泰星が手招きのジェスチャーをする。その通りに近くに寄ると、頬に軽くキスをされる。
「えっ、どうして」
好きではないと言った口で、何故私にキスをしたのか。戸惑う私に泰星はにっこりと私に笑いかける。
「ちょっとした仕返しです」
「びっくりして心臓止まるかと思った……」
「大げさな。さすがにちょっと傷つきますよ」
「体張らなくてもいいのに」
「これくらいしないとやり返しには不十分じゃないですか」
不満げな口ぶりの割に、楽しげに目を細める泰星。
「みちるさん。また来ましょうね。絶対。約束ですよ」
泰星はとても綺麗に笑った。その姿は目に焼き付いて、しばらく消えそうにないな、と思う。