欲しいものがどこにもないのなら──
思っていたよりもバラ庭園はそれほど混んでいなかった。この時期は花の見頃をとうに過ぎたオフシーズンで、パンフレットで見ていたような鮮やかな色味はないし、かぐわしい花の香りもあまり感じられない。上空を覆う灰色の雨雲が更にこの場所の彩度を落としている。そんな中でも、カップルやグループ連れが歓声を上げながら熱心に写真を撮っていて、そんな人々の差す傘が庭園を盛り立てようと咲いているみたいだった。私たちも、彼らと間隔を空けながらあとに続けて石畳の散策路を歩いていく。雨粒が次第に大きくなってきて傘を打ちつける。
見えるのは概ね緑の葉や落葉して残された低木の幹。土しかないところもある。だけど、ところどころ花も咲いていた。
「サザンカが咲いてるんですね。あとツバキも」
「泰星くん、花の種類分かるの?」
「さっき幹にネームプレートかかってたのを見ただけです。見てぱっと分かるような知識はとても俺には」
「よく観察してるんだね。すごい」
腰のあたりに咲いていたピンク色の花に私はそっと触れる。柔らかい花びらの上を雨水が伝って手のひらに落ちた。晴れの日だったらにおいが分かったのかもしれない。今は湿った空気と、かすかな土のにおいがする。
「冬に来るものじゃなかったかな。ここは」思わず口について出た。
いや……違う。季節はどうだっていいのだ。
まず、そもそもの話として、鬱憤やら無力感やらが溜まった末の癇癪みたいなものが、この旅行の発端だ。純粋に楽しむには憂鬱が過ぎる。かといって、自分探しの旅とするには仰々しい。だから言うなればきっと、これは、逃避行。嫌なことから目を背けるためだけの旅。だからそう表すのが一番しっくり来る。
泰星はいわば私の癇癪に巻き込んでここに連れてきたようなものだ。いや、でも、癇癪は昨日今日に始まったものではなくて……ああそうか。だから私は泰星から旅行の感想を聞くのが怖いんだ。好きに行動しようだなんて開き直ったつもりだったのに、冷静になってしまったから、泰星を連れている自分が怖くて、呆れて。泰星に嗤われやしないかとひやひやして。心底自分を見放したくなる。今ここで腑に落ちるなんて、最悪だ。
「みちるさんは今一つ楽しくないですか?」
「泰星くんは楽しい?」
「楽しいですよ」泰星は即答した。「なかなか普段遠くに行けないし、普段見ないもの見れてますし。第一、こうしてみちるさんと一緒ですから。こう見えてはしゃいでますからね、俺」
最後の方は聞き取るのもやっとなくらいの、消え入りそうな声だった。傘に阻まれて表情はよく見えない。
散策路は長い下り階段にさしかかる。一人が通れる幅しかないので私が泰星の前に出て、濡れていて滑りそうな階段を私は一段ずつ目で確認しながら慎重に下っていく。傘を持っているせいかそれともブーツのヒールのせいか、我ながら体のバランスが少し心許ない。
私の前にいるカップルは、彼氏が彼女の手を引いて歩いている。振り向きざまにこちらに見えた顔には、この世で一番幸せと言わんばかりの笑顔を浮かべていた。
『重たくてとてもじゃないけど受け止められないから、別れてください』
電話で別れ話を切り出され数日経ってようやく顔を合わせたとき、田崎が懇願してきたのを私はふと思い出していた。
田崎とは、今年の春先まで在籍していた元バイト先で知り合った仲だった。告白を受けるまでは、外見は悪くはないが凡庸と言い表す他ない男としか印象になくて、全く自分の意識外にいた。でも田崎は私のことを好きだと言った。それは付き合うには十分な理由に思えたし、ちょうどそのころ、愛理たちと話を合わせるのにも疲れてきていたので好都合だった。
私と田崎の通う大学は別だったから、付き合いだした翌日から時間を工面して昼休みに会いに行ったり、向こうの授業が終わるタイミングを見計らって校門の前で待ったり、そのまま家に行ったりした。お弁当やちょっとしたお菓子を持って行くのもしょっちゅうだった。そんな私の献身を嬉しそうに受けていた田崎。
ただの依存じゃないの? 相手がいるという現実に満足しているだけで、相手のことを愛してはいないでしょ。弁当を作る私の後ろでしおりにそう言葉を投げかけられたこともあった。まさに、しおりの言った通りだと思う。でも私はこのやり方しかよく知らない。私は私の手にある方法を繰り返すしかなかった。
だけど、次第に都合がつかない、と言われ田崎と会えない時間が増えたし、お弁当も食べ残しがある状態で戻されるようになっていった。
本人はばれてないつもりのようだったが、田崎が私のアパートから私物を少しずつ引き上げていったころから、彼にはどうやらもう一人女がいるらしいということに私は感付いていた。それが別の彼女なのか片思いなのか詳細は分からなかったものの、田崎の心が私から離れていっているのは確実だった。
元バイト先の女の先輩と田崎が、田崎のアパートで抱き合っているという場面を目にしたとき、私はあまり驚きはしなかった。驚きはしなかったけど、このままでは恋人関係が終わってしまうと焦った。先輩は声を張り上げて私を糾弾し威圧しているつもりみたいで、私はその様子を眺めながら、こんなベタな展開があるなんてと段々面白くなって、終いには笑い出していた。
田崎は私に謝った。ごめん。もう浮気しないから。そう頭を下げた。
けれど、三回目に先輩との逢瀬の現場を押さえたときは違った。別れてくれ、俺は先輩を好きになったんだ。と、田崎は私を見つめて怯えるように伝えてきたのだった。
厄介払いされるように田崎のアパートを締め出され、自分の家に帰ってきて部屋を掃除すると、田崎のものはとっくに一つ残らず無くなっているのに気がついた。気が抜けた私はそのままベッドに倒れ込んで眠りに落ちるまでの幾ばくかの時間に、考えた。
もしも恋人同士じゃなくて親子だったら上手く相手にしてもらえたのだろうか。綺麗な親子関係も知らない私にはなかなか難しいように思える。ならば主従関係ならよかったのだろうか。いや。そもそも全てが、最初から間違っているような。田崎にふられてから気づいたわけじゃない。ふられる理由も、ふられるという未来も、そんなことは告白を受けたときからぼんやりと分かっていた。そして、きっと相手が田崎でなくても私は同じ行動をしていただろう。
ふと我に返る。ずっと前方を行く集団が、一際歓声を上げるのが聞こえた。何だろうと顔を上げると、突然、ぐらりと視界が歪み光が点滅する。足下に何も無くなったような感覚。傘が手から離れる。転ぶ、と瞬時に直感する。
けれど待っていても思っていたような衝撃は来ない。
「あっぶな……」耳元に泰星の息がかかる。「大丈夫ですか? 足、くじいてませんか?」
私は泰星に背後から腕を掴まれ、両腕で抱き留められる格好になっている。とっさに彼が動いてくれたおかげで階段から転げ落ちずに済んだみたいだ。
「ありがとう、助かったよ」
「びっくりしました……。怪我がないなら、よかったです」
泰星は息の上がった様子のまま私の体から手を離す。泰星の傘はすぐ横にあるバラの木に引っかかっていた。私はトゲに刺さって破れないよう気をつけながら傘を拾い、泰星に渡す。足下に落ちた自分の傘も拾ってから私たちは階段を下りきった。息が上がったのは急いで下りたせいか、それとも恥ずかしさのせいか。
それから庭園の最終エリアに到達するまで、私たちは無言で並んで歩き続けた。
最終エリアに着くと、ハーバリウム体験とかちょっとしたおみやげコーナーとかが設けられた建物があって、私たちの前を行っていたグループたちは体験コーナーに集まっている。
私と泰星はパラソルの下にあるベンチに腰掛けた。私は自販機で買ってきたミルクティーを飲みながら、さっきまで歩いてきた庭園を眺める。
泰星は鈍色の雲を、先ほど建物の中で手に入れた花の栞に透かして見ていた。庭園のおみやげらしさのある、バラのドライフラワーがあしらわれた栞。なんとまあ、可愛らしいものを持っているものだ。
雨脚は弱くなったが風が出てきた。風に揺れた葉がざわざわと鳴る。
泰星がこちらに振り向く。そして私に顔を近づけて、低い声で言う。
「みちるさん。顔色がよくないですが、体調悪いですか?」
「ううん、全然。ちょっと寒いくらいかな」
「建物の中入りますか?」
「大丈夫。もし寒いなら、私のことは気にせず行っていいからね」
「ああいえ、平気です。俺は」
泰星はやや歯切れの悪い返答をして、困ったように沈黙した。
「ごめんね」私は言う。「付き合わせてごめんね。つまらないよね」
私がもっと上手く人と関われるならこんなことにはならなかったと思う。自分が強い意志を持った人間であったなら。
泰星は曖昧に笑った。そして私に向き直って「別に俺に気を使わなくていいですよ」と言った。
「春に向けて土を整え種や球根を埋めたり、枝を整えたり。確かに冬の庭はちょっと地味だと思いますよ。でも、春にきれいな花を見るためって考えたら十分有意義だし、そういう支度の時期を鑑賞するというのも悪くないです。俺にとっては。まあ、花を楽しみにして計画に入れたみちるさんにとっては今回イマイチだっていうのは分かってますが」
「春支度、ねぇ」
「はい。目玉のバラ以外にもチューリップとかダリアとか咲くようですし。春にまた来れたらいいかもしれませんね」
顔をほころばせる泰星。
私は春になったら花を見に行く、そんな場面を想像する。誰と見るのだろう。どんな景色が見られるのだろう。どちらも黒いもやがかかったようで、上手く想像できない。……出来ないんじゃない。想像するべき未来が私にはないのだ。
「みちるさん。もしも……いや、もしかして、俺を旅行に連れてきたことに罪悪感を持っていますか?」
心の中を言い当てられてどきりとする。私が何も言えないでいると、泰星は私を射抜くように見つめてくる。目を逸らすことが出来ない。
「今回の旅行はみちるさんのためにあるんです、前提として。だから、みちるさんのしたいようにすればいいんです。俺は俺で、勝手に価値を見いだして楽しんでるんですから」
そう言う泰星の声は今まで聞いた中で一番穏やかな声だった。まるで、子どもに言い聞かせるような、それでいて少し咎めるような。
「そっかあ」私は言った。実のところ、泰星の言葉は、私の曇りきった心には響かない。
目を閉じて、私は願う。──今すぐにでも消えてしまいたい、と。
見えるのは概ね緑の葉や落葉して残された低木の幹。土しかないところもある。だけど、ところどころ花も咲いていた。
「サザンカが咲いてるんですね。あとツバキも」
「泰星くん、花の種類分かるの?」
「さっき幹にネームプレートかかってたのを見ただけです。見てぱっと分かるような知識はとても俺には」
「よく観察してるんだね。すごい」
腰のあたりに咲いていたピンク色の花に私はそっと触れる。柔らかい花びらの上を雨水が伝って手のひらに落ちた。晴れの日だったらにおいが分かったのかもしれない。今は湿った空気と、かすかな土のにおいがする。
「冬に来るものじゃなかったかな。ここは」思わず口について出た。
いや……違う。季節はどうだっていいのだ。
まず、そもそもの話として、鬱憤やら無力感やらが溜まった末の癇癪みたいなものが、この旅行の発端だ。純粋に楽しむには憂鬱が過ぎる。かといって、自分探しの旅とするには仰々しい。だから言うなればきっと、これは、逃避行。嫌なことから目を背けるためだけの旅。だからそう表すのが一番しっくり来る。
泰星はいわば私の癇癪に巻き込んでここに連れてきたようなものだ。いや、でも、癇癪は昨日今日に始まったものではなくて……ああそうか。だから私は泰星から旅行の感想を聞くのが怖いんだ。好きに行動しようだなんて開き直ったつもりだったのに、冷静になってしまったから、泰星を連れている自分が怖くて、呆れて。泰星に嗤われやしないかとひやひやして。心底自分を見放したくなる。今ここで腑に落ちるなんて、最悪だ。
「みちるさんは今一つ楽しくないですか?」
「泰星くんは楽しい?」
「楽しいですよ」泰星は即答した。「なかなか普段遠くに行けないし、普段見ないもの見れてますし。第一、こうしてみちるさんと一緒ですから。こう見えてはしゃいでますからね、俺」
最後の方は聞き取るのもやっとなくらいの、消え入りそうな声だった。傘に阻まれて表情はよく見えない。
散策路は長い下り階段にさしかかる。一人が通れる幅しかないので私が泰星の前に出て、濡れていて滑りそうな階段を私は一段ずつ目で確認しながら慎重に下っていく。傘を持っているせいかそれともブーツのヒールのせいか、我ながら体のバランスが少し心許ない。
私の前にいるカップルは、彼氏が彼女の手を引いて歩いている。振り向きざまにこちらに見えた顔には、この世で一番幸せと言わんばかりの笑顔を浮かべていた。
『重たくてとてもじゃないけど受け止められないから、別れてください』
電話で別れ話を切り出され数日経ってようやく顔を合わせたとき、田崎が懇願してきたのを私はふと思い出していた。
田崎とは、今年の春先まで在籍していた元バイト先で知り合った仲だった。告白を受けるまでは、外見は悪くはないが凡庸と言い表す他ない男としか印象になくて、全く自分の意識外にいた。でも田崎は私のことを好きだと言った。それは付き合うには十分な理由に思えたし、ちょうどそのころ、愛理たちと話を合わせるのにも疲れてきていたので好都合だった。
私と田崎の通う大学は別だったから、付き合いだした翌日から時間を工面して昼休みに会いに行ったり、向こうの授業が終わるタイミングを見計らって校門の前で待ったり、そのまま家に行ったりした。お弁当やちょっとしたお菓子を持って行くのもしょっちゅうだった。そんな私の献身を嬉しそうに受けていた田崎。
ただの依存じゃないの? 相手がいるという現実に満足しているだけで、相手のことを愛してはいないでしょ。弁当を作る私の後ろでしおりにそう言葉を投げかけられたこともあった。まさに、しおりの言った通りだと思う。でも私はこのやり方しかよく知らない。私は私の手にある方法を繰り返すしかなかった。
だけど、次第に都合がつかない、と言われ田崎と会えない時間が増えたし、お弁当も食べ残しがある状態で戻されるようになっていった。
本人はばれてないつもりのようだったが、田崎が私のアパートから私物を少しずつ引き上げていったころから、彼にはどうやらもう一人女がいるらしいということに私は感付いていた。それが別の彼女なのか片思いなのか詳細は分からなかったものの、田崎の心が私から離れていっているのは確実だった。
元バイト先の女の先輩と田崎が、田崎のアパートで抱き合っているという場面を目にしたとき、私はあまり驚きはしなかった。驚きはしなかったけど、このままでは恋人関係が終わってしまうと焦った。先輩は声を張り上げて私を糾弾し威圧しているつもりみたいで、私はその様子を眺めながら、こんなベタな展開があるなんてと段々面白くなって、終いには笑い出していた。
田崎は私に謝った。ごめん。もう浮気しないから。そう頭を下げた。
けれど、三回目に先輩との逢瀬の現場を押さえたときは違った。別れてくれ、俺は先輩を好きになったんだ。と、田崎は私を見つめて怯えるように伝えてきたのだった。
厄介払いされるように田崎のアパートを締め出され、自分の家に帰ってきて部屋を掃除すると、田崎のものはとっくに一つ残らず無くなっているのに気がついた。気が抜けた私はそのままベッドに倒れ込んで眠りに落ちるまでの幾ばくかの時間に、考えた。
もしも恋人同士じゃなくて親子だったら上手く相手にしてもらえたのだろうか。綺麗な親子関係も知らない私にはなかなか難しいように思える。ならば主従関係ならよかったのだろうか。いや。そもそも全てが、最初から間違っているような。田崎にふられてから気づいたわけじゃない。ふられる理由も、ふられるという未来も、そんなことは告白を受けたときからぼんやりと分かっていた。そして、きっと相手が田崎でなくても私は同じ行動をしていただろう。
ふと我に返る。ずっと前方を行く集団が、一際歓声を上げるのが聞こえた。何だろうと顔を上げると、突然、ぐらりと視界が歪み光が点滅する。足下に何も無くなったような感覚。傘が手から離れる。転ぶ、と瞬時に直感する。
けれど待っていても思っていたような衝撃は来ない。
「あっぶな……」耳元に泰星の息がかかる。「大丈夫ですか? 足、くじいてませんか?」
私は泰星に背後から腕を掴まれ、両腕で抱き留められる格好になっている。とっさに彼が動いてくれたおかげで階段から転げ落ちずに済んだみたいだ。
「ありがとう、助かったよ」
「びっくりしました……。怪我がないなら、よかったです」
泰星は息の上がった様子のまま私の体から手を離す。泰星の傘はすぐ横にあるバラの木に引っかかっていた。私はトゲに刺さって破れないよう気をつけながら傘を拾い、泰星に渡す。足下に落ちた自分の傘も拾ってから私たちは階段を下りきった。息が上がったのは急いで下りたせいか、それとも恥ずかしさのせいか。
それから庭園の最終エリアに到達するまで、私たちは無言で並んで歩き続けた。
最終エリアに着くと、ハーバリウム体験とかちょっとしたおみやげコーナーとかが設けられた建物があって、私たちの前を行っていたグループたちは体験コーナーに集まっている。
私と泰星はパラソルの下にあるベンチに腰掛けた。私は自販機で買ってきたミルクティーを飲みながら、さっきまで歩いてきた庭園を眺める。
泰星は鈍色の雲を、先ほど建物の中で手に入れた花の栞に透かして見ていた。庭園のおみやげらしさのある、バラのドライフラワーがあしらわれた栞。なんとまあ、可愛らしいものを持っているものだ。
雨脚は弱くなったが風が出てきた。風に揺れた葉がざわざわと鳴る。
泰星がこちらに振り向く。そして私に顔を近づけて、低い声で言う。
「みちるさん。顔色がよくないですが、体調悪いですか?」
「ううん、全然。ちょっと寒いくらいかな」
「建物の中入りますか?」
「大丈夫。もし寒いなら、私のことは気にせず行っていいからね」
「ああいえ、平気です。俺は」
泰星はやや歯切れの悪い返答をして、困ったように沈黙した。
「ごめんね」私は言う。「付き合わせてごめんね。つまらないよね」
私がもっと上手く人と関われるならこんなことにはならなかったと思う。自分が強い意志を持った人間であったなら。
泰星は曖昧に笑った。そして私に向き直って「別に俺に気を使わなくていいですよ」と言った。
「春に向けて土を整え種や球根を埋めたり、枝を整えたり。確かに冬の庭はちょっと地味だと思いますよ。でも、春にきれいな花を見るためって考えたら十分有意義だし、そういう支度の時期を鑑賞するというのも悪くないです。俺にとっては。まあ、花を楽しみにして計画に入れたみちるさんにとっては今回イマイチだっていうのは分かってますが」
「春支度、ねぇ」
「はい。目玉のバラ以外にもチューリップとかダリアとか咲くようですし。春にまた来れたらいいかもしれませんね」
顔をほころばせる泰星。
私は春になったら花を見に行く、そんな場面を想像する。誰と見るのだろう。どんな景色が見られるのだろう。どちらも黒いもやがかかったようで、上手く想像できない。……出来ないんじゃない。想像するべき未来が私にはないのだ。
「みちるさん。もしも……いや、もしかして、俺を旅行に連れてきたことに罪悪感を持っていますか?」
心の中を言い当てられてどきりとする。私が何も言えないでいると、泰星は私を射抜くように見つめてくる。目を逸らすことが出来ない。
「今回の旅行はみちるさんのためにあるんです、前提として。だから、みちるさんのしたいようにすればいいんです。俺は俺で、勝手に価値を見いだして楽しんでるんですから」
そう言う泰星の声は今まで聞いた中で一番穏やかな声だった。まるで、子どもに言い聞かせるような、それでいて少し咎めるような。
「そっかあ」私は言った。実のところ、泰星の言葉は、私の曇りきった心には響かない。
目を閉じて、私は願う。──今すぐにでも消えてしまいたい、と。