欲しいものがどこにもないのなら──
傾斜地に建つ美術館はそれなりに混んでいた。外は冷たい雨が降っていて、一階と二階に跨がる吹きぬけの大きな窓を白く曇らせる。窓際にあるこのカフェは他のエリアより少し肌寒い。ひんやりと感じられるのは、床も壁もテーブルも白色で統一されているせいかもしれない。両手で包み込むようにして持っているカフェラテの、その温かさが心地よく感じられる。
来たからには多少観光をしないといけない気がして、私は高台にある美術館と庭園に行くことを提案した。加えて、泰星からは「海が見たいです」と改めてリクエストを受けたのだけど。
「横浜も海近いよね。海は特段珍しくないでしょ?」
「あそこは港と商業地が主ですから。こちらのビーチ? は、また違う雰囲気みたいなので見てみたいです」
「そう? ただ海岸線が広がってるだけな気もするけど。いや、よく知ってるわけじゃないけどね」
「なら、なおさら見たいんですが。駄目ですか?」
こんなやりとりを経て、浜辺にも立ち寄ることにした。
行く場所を決めると、私がチェックアウトのためフロントに並んでいる間にバスの時刻表や施設の営業時間を泰星が調べていて、私が戻ってくるなり「美術館、庭園、ビーチの順が回りやすいと思います」と嬉しそうに報告してきた。そして泰星の案に乗っかる形で、私たちはまず美術館に来ている。
カフェオレを口に運ぶ。砂糖を入れていないカフェオレの苦みがおいしく感じられる。昼食時だからかカフェはほぼ満席で、だけど不思議と静かな空間なのは、美術館ゆえに皆自然と言葉が少なくなるからかもしれない。
私は泰星を待っていた。泰星は随分と熱心に作品を見ていてペースが合わなかったので、先に展示室を抜けて一息ついているのだ。
芸術の善し悪しはよく分からない。中学までの美術の授業は好きでも嫌いでもなく、高校は書道選択だったので、技法やら作風やらを説かれても理解が出来ない。美術品の正しい見方を私は知らなかった。美術品に対して私が言えることがあるとしたら、好きか嫌いかということだけだ。
「ごめんなさい。待たせてしまって」
後ろから声がして振り向くと泰星がこちらに向かってきていた。私の向かいの席につくと、ふうと息を吐く。
「楽しかった?」
「はい。とても」
泰星は至極ご満悦の体だ。手にはミュージアムショップの小さな袋を持っている。
「おみやげ?」
「自分へのおみやげです。ポストカードです。さっき展示してあって好きだなって思ったものを買いました」
そう言いながら泰星はポストカードを私に見せてくる。梅の木が描かれた多分浮世絵と、藤の絵柄が入った壷。チョイスが渋い。
「泰星くんは絵とか詳しいの?」
「ああいえ、全然。全くそんなことはなくて、見るのが好きなだけです。色がきれいだとか形が好きだとか、作者は何を思って作ったのかなと勝手に想像するのが楽しくて」
「なるほど」
にこにこと語る泰星の話に相槌を打つ。
何が正解とか悩まずに鑑賞できるのは子どもだからこその観点かもしれない。美術館というのは子どもの情操教育に良いですね。中学生以下は入場無料だし、これは修学旅行です。なんて、家庭教師としての私が茶化す。茶化さないとやってられない、と不意に思った。どうしてそう急に不安が頭をもたげたのか分からない。でも、重苦しさがお腹のあたりにのさばる。
「あ、俺も何か買ってきて食べていいですか?」
「お昼まだだもんね。あっ。そうだ、これを泰星くんに」
私は財布から五千円札を出して、泰星に差し出す。
「お小遣い。欲しいもの全部は買えないかもしれないけど」
「いえそんな、お小遣いなんて」
「いいのいいの。そもそもどうせ家庭教師代としてお母さんからもらってるのが出処だから、ね」
優しく言い聞かせると、泰星は少し口をすぼめたけどそれも一瞬のことで、すぐに「ありがとうございます」と五千円札を受け取ると注文カウンターに向かっていった。私はその様子を見送る。
そもそも美術館をあいつ、もとい田崎とのデートプランに入れていたのは定番スポットだからであって、それ以上でも以下でもなかった。だから、泰星が目を輝かせて作品を眺めている様子には少し考えさせられるものがある。
とはいえ、泰星を楽しませるためにここに来たわけじゃない。……来たわけじゃないけど、有無を言わせず連れ出した罪悪感が急に湧いてきて、胸のあたりがざわざわする。
だけど、私の手の届く範囲にいて、私の言うことを聞いてくれて、都合よく使えそうなのは泰星しかいなかった。気が滅入る。いろいろと。
泰星はこの旅行をどう考えているのだろう。物静かで賢いあの子どもは、私とここに来た意味をどんな風に捉え、そして記憶に残すのだろうか。気になる。でも、知るのはちょっと怖い。知ってしまったらもう泰星に近づけない、そんな気がして。
そのうちに泰星はあんパンとカフェオレをトレーに載せて戻ってきた。カフェオレに砂糖を一つ二つ、三つと入れる。少しだぼついた袖から出る華奢で白い指がスプーンを持ってゆっくりとかき混ぜると、細い湯気が立ち上る。落ち着き払っているその様を、私は泰星がカップを口につけるまでじっと見つめていた。
来たからには多少観光をしないといけない気がして、私は高台にある美術館と庭園に行くことを提案した。加えて、泰星からは「海が見たいです」と改めてリクエストを受けたのだけど。
「横浜も海近いよね。海は特段珍しくないでしょ?」
「あそこは港と商業地が主ですから。こちらのビーチ? は、また違う雰囲気みたいなので見てみたいです」
「そう? ただ海岸線が広がってるだけな気もするけど。いや、よく知ってるわけじゃないけどね」
「なら、なおさら見たいんですが。駄目ですか?」
こんなやりとりを経て、浜辺にも立ち寄ることにした。
行く場所を決めると、私がチェックアウトのためフロントに並んでいる間にバスの時刻表や施設の営業時間を泰星が調べていて、私が戻ってくるなり「美術館、庭園、ビーチの順が回りやすいと思います」と嬉しそうに報告してきた。そして泰星の案に乗っかる形で、私たちはまず美術館に来ている。
カフェオレを口に運ぶ。砂糖を入れていないカフェオレの苦みがおいしく感じられる。昼食時だからかカフェはほぼ満席で、だけど不思議と静かな空間なのは、美術館ゆえに皆自然と言葉が少なくなるからかもしれない。
私は泰星を待っていた。泰星は随分と熱心に作品を見ていてペースが合わなかったので、先に展示室を抜けて一息ついているのだ。
芸術の善し悪しはよく分からない。中学までの美術の授業は好きでも嫌いでもなく、高校は書道選択だったので、技法やら作風やらを説かれても理解が出来ない。美術品の正しい見方を私は知らなかった。美術品に対して私が言えることがあるとしたら、好きか嫌いかということだけだ。
「ごめんなさい。待たせてしまって」
後ろから声がして振り向くと泰星がこちらに向かってきていた。私の向かいの席につくと、ふうと息を吐く。
「楽しかった?」
「はい。とても」
泰星は至極ご満悦の体だ。手にはミュージアムショップの小さな袋を持っている。
「おみやげ?」
「自分へのおみやげです。ポストカードです。さっき展示してあって好きだなって思ったものを買いました」
そう言いながら泰星はポストカードを私に見せてくる。梅の木が描かれた多分浮世絵と、藤の絵柄が入った壷。チョイスが渋い。
「泰星くんは絵とか詳しいの?」
「ああいえ、全然。全くそんなことはなくて、見るのが好きなだけです。色がきれいだとか形が好きだとか、作者は何を思って作ったのかなと勝手に想像するのが楽しくて」
「なるほど」
にこにこと語る泰星の話に相槌を打つ。
何が正解とか悩まずに鑑賞できるのは子どもだからこその観点かもしれない。美術館というのは子どもの情操教育に良いですね。中学生以下は入場無料だし、これは修学旅行です。なんて、家庭教師としての私が茶化す。茶化さないとやってられない、と不意に思った。どうしてそう急に不安が頭をもたげたのか分からない。でも、重苦しさがお腹のあたりにのさばる。
「あ、俺も何か買ってきて食べていいですか?」
「お昼まだだもんね。あっ。そうだ、これを泰星くんに」
私は財布から五千円札を出して、泰星に差し出す。
「お小遣い。欲しいもの全部は買えないかもしれないけど」
「いえそんな、お小遣いなんて」
「いいのいいの。そもそもどうせ家庭教師代としてお母さんからもらってるのが出処だから、ね」
優しく言い聞かせると、泰星は少し口をすぼめたけどそれも一瞬のことで、すぐに「ありがとうございます」と五千円札を受け取ると注文カウンターに向かっていった。私はその様子を見送る。
そもそも美術館をあいつ、もとい田崎とのデートプランに入れていたのは定番スポットだからであって、それ以上でも以下でもなかった。だから、泰星が目を輝かせて作品を眺めている様子には少し考えさせられるものがある。
とはいえ、泰星を楽しませるためにここに来たわけじゃない。……来たわけじゃないけど、有無を言わせず連れ出した罪悪感が急に湧いてきて、胸のあたりがざわざわする。
だけど、私の手の届く範囲にいて、私の言うことを聞いてくれて、都合よく使えそうなのは泰星しかいなかった。気が滅入る。いろいろと。
泰星はこの旅行をどう考えているのだろう。物静かで賢いあの子どもは、私とここに来た意味をどんな風に捉え、そして記憶に残すのだろうか。気になる。でも、知るのはちょっと怖い。知ってしまったらもう泰星に近づけない、そんな気がして。
そのうちに泰星はあんパンとカフェオレをトレーに載せて戻ってきた。カフェオレに砂糖を一つ二つ、三つと入れる。少しだぼついた袖から出る華奢で白い指がスプーンを持ってゆっくりとかき混ぜると、細い湯気が立ち上る。落ち着き払っているその様を、私は泰星がカップを口につけるまでじっと見つめていた。