欲しいものがどこにもないのなら──

「俺が中学に上がって手が掛からなくなったからだと思います」

 窓の外では蝉がせわしなく鳴いていた。

 残暑が未だ厳しい季節。家庭教師としての立場に徐々に慣れてきたころ、隣で小テストの自己採点をする泰星に『母親は今日何時ぐらいに帰ってくるの?』と尋ねたら、「さあ、いつでしょうね」と泰星は答えたのに続いてこう言った。

「残業も増えたし、飲み会に行くことも増えましたし。ごくたまに出張で家を空けることもありますね。基本は事前に予定伝えてくれますが、時々何の連絡もまま行ってしまうんですよね。困った母親だと思いませんか?」

 私は当時泰星のことを全然知らなかったし、だからこそ、このとき泰星がふふ、と笑い声を上げるものの顔だけが一切笑ってないのが印象的だった。

「両親が離婚した時期は、俺の入院中だったんです」

 二人で乗った電車は空いている。窓から射す西日に目を細めていると、ボックス席に向かい合って座る泰星はぽつりと呟いた。これはいつの話だっただろう。ああ、昨日だったかな。どうだったかな。突然の場面転換に、これは夢を見ているんだな、と私は気がつくけど、まだ寝ていたくてそのまま続きを見る。これが明晰夢というものなのだろうか。

「母親に離婚原因があったみたいで。ちゃんとは知らないままですが」
「訊かないの?」
「うーん。なんだか怖いじゃないですか。正直、自分が原因の一端を担っている気がしているし、だから余計に聞きづらくて」

 泰星は笑う。私はその表情をただ見つめていた。

「大変だね。空しいね、悲しいね。可哀想だね」

 泰星にやっと声をかけたのはしばらくしてからで、私は泰星の腕を掴むとベッドに引き寄せる。戸惑ったような泰星にキスをして、覆い被さるように組み伏せると……ってちょっと。

 待て。いやちょっと待って。夢にしてはたちが悪すぎる。いい加減夢から覚めないと。私は重い瞼を開ける。

「おはようございます」

 視界に飛び込んできたのは私を間近でのぞき込む泰星の顔だった。おはよう、と返した自分の声が嫌に嗄れて聞こえる。ベッドから上体を起こせば骨が軋む感覚が全身を駆けめぐった。

 泰星は隣のベッドに座り、テレビをつけた。ニュース番組の左上に記された時刻は八時四十七分。コメンテーターが淡々と機械的にレポートをしている。

 大きく伸びをすると首のあたりがスカスカして、胸元に目線を落とすと白地に青い縦縞の浴衣を着ているのに気がつく。こんな服を私はいつ買ったっけ。「やっと起きた。みちるさんって朝弱いんですか?」泰星が訊いてくる。私は頷く。あれ。どうして部屋に泰星がいるんだっけ。というか、そもそも。

「ここ、どこ」
「熱海のホテルですよ。寝ぼけすぎじゃないですか?」

 泰星はけらけらと笑う。尚も私が呆けていると「えっ。覚えてないとかそんなことあります?」と、驚いたと言わんばかりの表情で、泰星の目が瞬く。

 昨晩の記憶をゆっくりたぐり寄せていく。私は昨日大学を抜け出して泰星の家に行き、それからまた熱海行きの電車に乗って日が暮れてから駅に到着し、宿を押さえて泊まり。記憶がぼんやりしているのは何故だろうと悩み、部屋の中を見回す。ベッドが二つ、壁際には鏡台とテレビ、窓際にはローテーブルを囲むように配置された一人掛ソファーが二脚。テーブルに置かれたものに目が留まる。ビールやチューハイの缶が五、六本は置かれていた。

「なるほど。飲み過ぎた」
「電車乗ってるときも飲んでましたからね……」
「そっか……ごめんね」

 穴があったら入りたいとはまさにこのことか。というか、本当に連れ出すなんてしなくてもよかったでしょ、私よ。いくら昨日錯乱していたとしても。家にいるしおりのこともどうしよう。でも、考えることは山ほどあるけど、ひとまずは。

「着替えるから、一旦部屋出てもらえる? 終わったら呼ぶから」

 泰星は暖かそうなセーターにジーンズ姿へとすでに着替え終わっている。私も支度をして朝食をとって、それから今日のことを考えよう。

 分かりました、と部屋を出て行こうとする泰星。その後ろ姿を見たときふと背筋が冷えた。「泰星くん」私は呼び止め、言葉を選んでこう尋ねる。

「あのさ、昨晩、一緒のベッドで寝てないよね?」

「寝てませんよ。焦らなくても心配するようなことは起きてません。大丈夫です」

 余裕ありげに笑って部屋を出て行く泰星。私は力が抜けて思わずベッドに再び寝ころぶ。深呼吸を二回して、今度こそベッドから下りる。




 昨日着ていた黒いニットのワンピースに袖を通し、手早く化粧を済ませる。そして髪をとかす。少しパーマがとれてきたせいで首筋を這うように伸びる裾を、ドライヤーとブラシで適当に巻いて整える。ピアスをつけながら顔色をチェックする。顔色はまずまずだけど、少しむくんでいる気がする。支度の合間にしおりへ『遅くとも翌朝には戻る予定』とメッセージを送ったものの、まだ既読マークはついていなかった。

 一通りの準備を終えた私は、一階のロビーで待機していた泰星と合流しホテルの朝食をとりに向かう。

 バイキング形式の朝食会場は老人の団体客や家族旅行客で埋められ、賑わいというより騒がしい。

「このあとの行き先は決まってますか?」

 泰星は質問しながら目玉焼きと小盛りのかけそばをテーブルに置いた。

「なんとなく、しか」
 私は溜め息をつき、白米を一口食べる。

 観光地巡りとしての行き先は決めている。田崎と前に決めたルートは私の興味そのものだったから、それに準じて回れたらいいと思っている。問題は、泰星のことだ。

 実際に連れ出してようやく、事の重大さに思い至った。未成年の無許可外泊。誘拐扱いにでもされたらたまったものではない。

「泰星くん。連れ出しておいて今更だけどさ、親御さんに連絡はした? 私からはまだ伝えてなくて」
「ああ、俺から連絡しましたよ。特に言われなかったので大丈夫です。みちるさんによろしく、と」

 そばをすすってから泰星は言う。私はお茶を一口飲んで沈黙した。不意に泰星のスマホがテーブルを震わせる。泰星はすぐ手に取って確認する。

「お母さんから?」
「……いえ、友達から。大したものじゃないですよ」

 何やら返事を打つ動作をしてから、泰星はスマホをジーンズのポケットにそそくさとしまった。まるでこれ以上私に追及させまいとしているみたいだ。だけど探るのも面倒に思えて見逃すことにする。

「ところで。みちるさんを待ってる間いろいろ調べてたんですけど、せっかく海が近いから海は見に行きたいです。あとは海鮮丼か何か食べられたらいいなあって」
「随分と張り切ってない?」
「はい。突然とはいえ約束の『遠出』ですからね」

 楽しみだなあ、と幼い子どものように明るく弾んだ口調で泰星は言った。

 テーブルの端に寄せていた私のスマホが点滅する。しおりからのメッセージだった。送られてきた、OKの文字を掲げながらクマが踊るスタンプを確認し、スマホを置く。文句の一つや二つ言ってくると予想していたのでいささか拍子抜けした。

 当初の予定していた通りで、かつ障害もないなら、別に何も心配することはないじゃないか。開き直って自分の好きなようにすればいいんだ。自由に回って、あとのことは考えなくてもいい。

 私が心配するようなことがないということは、それと同時に、誰にも心配されていない。そういうことだ。
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