大切なものほど、繋いだ手からこぼれ落ちていく。 嫌いなものが、ますます私を縛り付ける。

 清く正しく健やかに愛される、というのは案外難しいことなのかもしれない。膝を抱えて眠るしおりを見て私はそう思った。自分の存在価値を脅かされることない、安心感というものを享受した経験に私たち姉妹は乏しかった。

 しおりが私のアパートに着いてすぐ、母親にはしおりとしばらく同居することについて電話で伝えた。母親の反応は至って薄く、『分かった。みちるもしおりも大人だから大丈夫だろうけど、二人とも仲良くするのよ』と言ったきり、話題は来月あるという職場旅行の話やワイドショーで取り上げられた健康食品の話にシフトさせられてしまい、私は適当に相槌を打つ。大丈夫じゃないからこんな面倒なことになっているのに、菅谷さんの母親は脳天気ですねえ。なんて他人事のように思いながら聞き流した。母には一切の悪気などないのだ。悪気がないから、諦めもつくし期待しないでいられる。

 しおりはというと、うちに来て一週間ほど経った今、目に見える分の傷は少し薄くなってきている。ところが、精神的に受けたダメージが思いの他大きかったようで苦しむ羽目になっているようだった。

 不意に涙が止まらなくなる。夜中に叫んで起きてしまう。こうした症状が出るたびにしおりは私の側を離れようとしない。見捨てるわけにもいかないので、異状が出るたび私はしおりに付き合って夜中に起きたり、学校を休んで一緒に家で過ごしたりしていた。泰星のバイトも一度休んだ。

 とはいえ、私にも自分の生活の都合があるので、ずっとしおりといることは無理である。だから今日は寝ているしおりをアパートに置いて、昼過ぎに大学に来た。外に出るのはたった二日ぶりなのに、足を踏み出す毎にふにゃふにゃと柔らかいものが足裏で感じられる気がして歩きづらい。とりあえず、まずは愛理たち三人と合流するべく学科棟に向かっている。

 教育学科棟一階のラウンジ。奥から三つ目の丸テーブルを囲んでいる彼女らを見つけ、「お疲れさま」と声を掛けながら輪の中に入った。いつものことながら、お菓子や雑誌、メイクポーチがテーブルの上に広げられている。たまたま近くのテーブルに他のグループがいないこともあって私たちの声が空間によく響く。

「これ、みちるちゃんが休んでた授業の分のノートね」
「ありがとー。助かる」

 香から受け取ったノートをぱらぱらとめくり内容を確認する。ノートの脇に授業と関係ない落書きの猫がたくさん踊っていた。板書を写し取ったところもところどころ誤字脱字がある。眠かったんだろうか。これでも三人の中なら香が一番まじめに授業を受けるタイプなのだけど。

「もう少しでクリスマスだね、楽しみだよね」
「そうだねー。クリスマスの服買いに行きたいんだけど、どんなのにしようか迷うなぁ」

 嬉しそうに語り合う由里と香。お気楽でいいなあと内心溜め息をついていると、はっと我に返ったように愛理が私を見て、「しーっ、二人ともちょっと」と由里と香を諫める。

 そして愛理は言う。「みちるちゃんさ、最近彼氏と別れちゃった? 田崎くんだっけ? 駅で違う女の子と手をつないで歩いてたの見ちゃって」

「えー。そうなの?」

 ぎょっとしたように目を丸くする由里と香。

「実はね、うん。あはは」

 ずっと隠すのは無理じゃないかと薄々感じていたけど、今ここでばれるとは思っていなかった。緊張を悟られないようさっぱりと明るい声で返事をする。哀れなんかじゃない、私は。

「えー! クリスマス前に別れちゃうとか災難だね、シングルで過ごすってことでしょ? みちるちゃんあんなに必死に頑張ってたのに」
「ちょっと、香」
「そんな反応したらかわいそうでしょ?」
「でもクリスマスに一人ってマジでかわいそ」
「香、よしなって」
「ごめんね。みちるちゃん」

 好き勝手言ったのち、気まずそうに黙りこくる愛理たち。誰も私と目を合わせない。やめてよ……やめて、それじゃあ本当にまるで私は。

「別れた理由も、私のことも。何も知らないのに、勝手に私は可哀想だって決めつけないで……!」

 踵を返して来た道を駆け戻る。後ろから呼ぶ声が聞こえた気がしたけど振り向かなかった。 

 みんな安易に私を踏みにじる。縋られ振り回され虐げられ、私がどんなに頑張っても尽くしても『やって当然』とでも言いたげな顔をして、私に慰めの言葉一つ掛けてくれやしない。つまらないことで私は怒っているの? 私がおかしいの? 高望みをしすぎているの? 分からない。被害妄想も入っているとは思う。そうだとしてもどうしたらいいのか分からない。ただ、もう、限界。

 どこか遠くに行きたい。私のことを知らない場所へ逃げて消え失せたい。──でもこのまま去るのは癪だ。どうせなら最後に誰かを思いきり自分の都合に巻き込んでみたい。

 大学近くの駅で電車に乗り、自宅最寄りを通り過ぎて横浜まで向かう道すがら、電話をかける。まだ学校なのか留守電に繋がったのでメッセージを残しておく。通い慣れた目的地までの道のりが長く感じられるのは初めてだった。

 ようやっと着いたころには十五時を回ったところで、ショッピングモールでインナーやら化粧水やらを買ったのち、マンションをエレベーターで上る。

「メッセージ、ついさっき読みました。あれ、どういう意味ですか?」

 泰星は眉間に皺を寄せ唸った。まだ学ランを着たままということは帰宅したばかりのようだ。面白いくらいに困惑しきっている。

 目的地こと原野家の玄関で、私は泰星を抱きしめた。「言葉そのままだよ。今から旅行に行こう。お母さんには言っておくから」

 今の私はとても穏やかで温かい笑みを浮かべているだろう。考えあぐねた様子の泰星も、やがて静かに頷いた。
2/2ページ
スキ