掌編

『貴方のことが好きよ』
 そんなことを僕に囁くわりには、君はふらふらと他の男の所に行くんだね。
『貴方と一緒に生きたい』
『貴方といると、私、幸せって思えるの』
 君の言葉は美しくて艶めかしくて、そして僕の思い通りにはならない。僕の心を舞い上がらせては、掻き乱していく。
 そんな君だってことは、とっくのとうに知っていたのに。
 ……それでも、と僕は考えずにはいられなかった。考えずにはいられなかったのだ。僕は愚かだから。



 恋は盲目。
 恋は罪悪。
 恋は決闘。
 いろんな『恋』の言葉が僕の脳裏を掠めては、かき混ぜている鍋の中に消える。
 牛乳や野菜や肉が融け込んだ中身からはいい匂いが立ちこめてきた。火を止めて皿によそってみればなかなかの出来栄えに独り頷く。僕はそれにパンとスプーンを添えて、お盆に乗せたそれを持ち地下の階段へと続く扉を開け放った。

 僕と君の始まりは偶然で。『偶然なんてこの世にはないのよ』なんて君は笑ったけれど、僕にはやっぱりそう思えないのだ。
 あの夜あの路地裏で出会った君はとても可憐で、神々しくて、僕の光だった。君のことを罵るような……そんな昼の奴らもいたけれど、夜に生き夜に生きるしかなく夜に絶望していた僕にとって君は天使という存在に他ならなかった。今でも、君への気持ちは変わらない。

 蝋燭を片手に暗い階段を下りていく。空間には僕の足音と蝋燭が燃えていく音しか響かない。君には届いていないであろうと自覚しながらもわざと足音を鳴らすようにして、僕は更に階段を下っていく。

 初めて想いを伝え躰を重ね合わせた夜。僕は死んでしまってもいいと思えるほど嬉しかった。たとえ一瞬であったとしても、それが君の生業であっても、僕を求め愛してくれたのだから。
 君は夜を往く蝶だった。闇に住まう天使だった。恵まれない僕を形骸的でも愛してくれる女神だった。
 ……それで、十分だと思っていたのにね。

 階段を下り切った僕の前に現れたのは鉄の扉。蝋燭を傍らの棚に置いて、上着のポケットから取り出した鍵を鍵穴へ挿して回す。ぎぎぎ、と重く軋むような音を立てて開いた扉の中へと僕は入った。

 逢えば逢うほど、求めれば求めるほど、ますます君を愛したくなる、欲しくなる、僕だけのものにしたくなる。
 一度膨らみ始めた想いは止められなかった。止められなかったのだ。……僕は愚かだから。

 扉の先には部屋が在り、薄暗い部屋の中心には一人の女が横たわる。女の手や足には幾何かの鎖が巻かれていた。
 生気を無くした君の目が僕を捉え、そして君の頬を何かが伝った。
 傍に寄った僕はシチューを浸したパンを君の口元に持っていく。けれどやっぱり君の口はそれを受け付けてはくれない。だから、僕はそれを口に含み君の上半身を抱いて、口移しをするのだった。
 
 君は美しい羽を持つ蝶であり、清廉な翼を持つ天使であり。それゆえに僕の側に留まってはくれない。
 ならば、その羽をもいでしまえばどうだろう。君は僕の傍らにいてくれるのか。……決断してからの行動は早かった。

「あなたを思うから僕はこうするのです」
 涙を舐めれば君の瞳が揺らめいた。君の瞳から零れる雫は真珠、口づけるその唇は媚薬のよう。
 
 嗚呼。愛しい僕の貴女よ。
 君はもう、僕の腕の中。翼を失くした天使は地上に生きて、僕と共に生きるしかないのだ。
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